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第14巻「竜の棲む国の戦い」

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32.霧の中

 礼拝堂の中でルルは耳をそばだてました。外から聞こえてきた悲鳴は、確かにリンメイのものでした。恐怖にかられた声です。

 すると、ポチが振り向きました。

「どうしたんですか、ルル!? 早くフルートたちのところへ行かないと!」

 人間になっているポチには、かすかな悲鳴が聞こえなかったのです。

 ルルは迷いました。そうです。自分はフルートたちを助けに飛んで行かなくてはなりません。ぐずぐずしている暇はないのです。

 悲鳴が聞こえたって、きっと大したことはないわよ、とルルは心の中で考えました。あの人は拳法の達人なんですもの、敵が来たってすぐ撃退してしまうわ。それに、何かに驚いて声を上げただけかもしれないじゃない。庭で蛇を見かけたとか。人間って蛇が大嫌いな人が多いんだもの。リンメイだって、きっとそうよ――。そんなふうに自分で自分を納得させて、また駆け出そうとします。ポチはもう礼拝堂の扉を開けようとしています。

 すると、またリンメイの声が聞こえました。

 ルルは思わずその場に立ちすくみました。二度目の悲鳴は先の声よりもっと切羽詰まっていたのです。

「ルル、早く!」

 ポチが急かします。やっぱりリンメイの悲鳴は聞こえていないのです。扉の外の衛兵が声を聞きつけて動き出す気配もありません。人間は犬より聴力が劣るので、遠い悲鳴を聞きつけることができないのです。

 このまま知らん顔しちゃいなさいよ――。ルルの胸をそんな誘惑がよぎります。

 

 けれども、ルルはすぐにそれを振り切りました。ポチに飛びつき、服の裾をくわえて引き戻します。

「今、リンメイの悲鳴が聞こえたわよ! 二度も!」

 えっ、とポチは驚きました。外へ耳を澄ましますが、やはり人間のポチには何も聞こえません。

 ルルは言い続けました。

「あの人ほどの使い手が悲鳴を上げるなんて、よほどのことよ! 何かあったんだわ!」

 ポチはすぐに礼拝堂を飛び出し、外にいた衛兵に叫びました。

「リンメイに何かあった! 急げ!」

 衛兵たちが仰天して一緒に駆け出します。

 ルルはその先頭を走り続けました。声がした方向がわかるのは彼女だけです。いくつもの部屋が並ぶ通路を駆け抜けて、建物の外へ飛び出します。

 とたんに一同は立ち止まりました。外はいつの間にか霧におおわれて真っ白になっていたのです。濃い霧の壁に隔てられて、ほんの数メートル先さえ見ることができません。あちこちから社殿の僧侶たちが驚き怪しむ声が聞こえてきますが、その姿もやはり霧の中です。

 すると、ルルがまたポチの服の裾をくわえて引きました。ついていらっしゃい、と態度で示して霧の中へ駆け出します。ポチはその後を追いかけました。ルルの茶色い姿を見失わないように、身をかがめながら走ります。

 ルルは中庭を駆けていました。霧に隠れる茂みや木立を器用に避けて進んでいきます。ルルはもうリンメイに嫉妬していたことを忘れていました。庭の奥から伝わってくるのは、ひどく邪悪な気配です。闇の匂いとはまた違うのですが、闇の怪物に匹敵するぐらい危険ものが、そこにいるのに違いありません。霧はますます濃くなっていきます――。

 

 すると、突然霧の奥で何かが動きました。ルルの上を越えてポチへ襲いかかっていきます。

 ルルはいち早くそれに気がつくと、大きく飛び跳ねました。正体はわかりませんが、無我夢中でかみつきます。

 とたんに、ギアァァ……と鋭い鳴き声が響きました。ルルが勢いよく振り飛ばされて、茂みの中に落ちます。

「ルル!」

 とポチは声を上げ、次の瞬間、霧から姿を現した怪物を見て息を飲みました。大きな蛇のような形ですが、頭が大きく、二本の角と赤いひげがあります。ユラサイの竜――蛟(みずち)でした。

 蛟は全長三メートルほどの体をくねらせて空中に浮いていました。四本の短い足があり、長い体の中ほどを何かに巻き付けています。霧越しに目を凝らしたポチは、その正体に気づいて、また声を上げました。

「リンメイ!!」

 赤い上着を着た少女が、蛟に絡みつかれて、ぐったりとしていました。拳法の達人の彼女が、蛟相手には手も足も出なかったのです。気を失い、縄で縛られた獲物のように、宙づりにされています。

 ポチは反射的に飛びかかっていきました。襲ってくる蛟の頭をかわし、その首の後ろへ拳を振り下ろします。

 ところが、蛟の全身は硬いうろこにおおわれていました。ポチの拳を跳ね返し、振り向いてかみついてきます。

 そこへまたルルが飛びかかりました。蛟の頭にしがみついて、太い眉の下にかみつくと、ギアァ、と蛟が鳴き声を上げます。硬いうろこを持つ竜も目はむき出しだったのです。

 その隙にポチはまた蛟に飛びつきました。竜の体からリンメイを解き放とうとします。

 すると、蛟がルルを払い飛ばしました。片目を潰された痛みに怒り狂いながら、ポチに襲いかかっていきます。ポチは逃げられません――。

 

 ヒュッ、と風の音がして、霧がいきなり渦巻きました。渦が蛟を襲います。

 とたんに、蛟の右の前足が切れて落ちました。次の瞬間、傷口から血が噴き出し、蛟がつんざくような声を上げます。渦巻く霧の中に、巨大な風の獣が回転していました。ルルが風の犬に変身して、竜の前足を切り落としたのです。

 蛟はまた鳴き声を上げると、空に向かって飛び始めました。ルルは蛟の三倍以上もの大きさがあります。とてもかなわないと見て逃げ出したのです。長い体はまだリンメイを絡め取ったままです。

 ルルがその後を追いかけました。あっという間に追いついて、竜に絡みつき、風の刃で切り裂きます。蛟は空中で三つにわかれて落ちてきました。リンメイも胴と一緒に落ちてきましたが、地面に激突する寸前にルルが渦を巻いて風で受け止めました。ポチが駆け寄り、蛟の胴をほどいてリンメイを助け出します。

 

 蛟が死んだので霧が急速に薄れ始めました。人々が竜子帝を呼びながらこちらへ向かってきます。ルルは急いで元の犬の姿に戻り、ポチはリンメイの帯の後ろから短剣を抜き取りました。大急ぎで鞘を払って握りしめます。

 そこへ突然男が姿を現しました。黄色い服を着た術師のラクです。蛟がばらばらになって地面に転がっているのを見て、おっと声を上げて驚くと、リンメイを抱くポチへ頭を下げました。

「ご無事でようございました、竜子帝。怪しい霧にはばまれて、何が起きているのか見通すことができずにおりました。これは蛟でございますな。まさかこんなものが紛れ込んでいたとは……」

 と言い、急に少し黙ると、口調を変えました。

「小型とはいえ蛟も竜。それを帝がお退治になったのですか?」

 疑うような声です。

「ああ、リンメイの短剣を使った」

 とポチは答えました。ルルの正体を知られるわけにはいきません。

「蛟のうろこは非常に硬いことで有名です。それを、そんな小さな剣一本で――?」

 ラクは確かめるように、顔の前の布を上げてポチを見つめてきました。真実を見抜こうとする、鋭いまなざしです。

 ポチは短剣を握り直すと、それを目の前にかざして強く言いました。

「朕が倒したのだ! 他に誰がやる!? そなたは朕の実力を疑うつもりか!?」

 強気に出て相手を圧倒しようとしますが、ラクはごまかされませんでした。いっそう怪しむ顔になります。

 

 その時、リンメイが目を覚ましました。ポチの腕の中で跳ね起きて叫びます。

「キョン! 怪物は!?」

「朕が倒した。大丈夫だったか、リンメイ?」

 とポチは言いました。倒した? とリンメイは驚き、周囲に散らばる蛟の死骸と短剣を握るポチを見て、急に震え出しました。ポチの首にしがみつき、わっと泣き出してしまいます。なんだか、こらえていたものが一気にあふれ出したような泣き方でした。

 ポチはちょっと面食らい、すぐにラクへ言いました。

「蛟はリンメイをさらおうとした。敵は朕ではなく彼女を狙っていたのだ。警戒を怠るな!」

 皇帝に叱責されて、とうとうラクも引き下がりました。やっと駆けつけてきた警備兵たちと一緒に深々と頭を下げて、警備が足りなかったことを詫びます。

 霧は完全に晴れ、ハンや大僧正、僧侶たちも駆けつけてきました。彼らが見たのは泣きじゃくるリンメイと、それを抱き寄せて優しく慰めている竜子帝の姿でした。狙われたのが帝ではなくリンメイだったという話を聞いて、全員が納得します。リンメイはやはり竜子帝の恋人なのだ、と誰もが考えたのです。ハンだけが、いっそう案じる顔になります。

 そして、彼らから離れた木立の下には、ルルがうずくまっていました。リンメイをポチが抱きしめている光景が、胸に突き刺さってくるような気がします。腹立たしくて悲しくて苦しくて、自分でもどうしていいのかわかりません。そんなにつらいのに、それでも、リンメイを助けなければ良かった、とは思えないのです。いっそう胸が苦しくなってきます。

「馬鹿――!」

 ポチに対してか、リンメイに対してか、自分自身に対してか。誰に怒っているのか自分でもわからないまま、ルルは目を閉じました。雌犬の小さな声は、誰の耳にも届きませんでした。

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