リンメイが礼拝堂から出ると、扉の外に四人の衛兵が立っていました。リンメイを見たとたん、全員が深々と頭を下げてきます。
「どちらへおいででございますか、リンメイ様?」
ひどく丁寧に尋ねられて、リンメイは驚きました。これまで、衛兵からこんなにうやうやしく対応されたことなどありません。昼ご飯を食べに行くところよ、と答えると、では、護衛についてまいりましょう、と言われていっそう驚きました。
「私が護衛よ! 私が食事で席を外す間、あなたたちまでキョンから離れたらどうしようもないでしょう!」
と声を荒げると、衛兵たちはまた深く頭を下げました。
「リンメイ様は帝の大切な恩方でございますから……。この場に三名は残ります。どうか護衛をお連れください」
リンメイはとまどいました。いいえ、けっこうよ、と言い残して、あわててその場を離れましたが、胸が騒いで落ち着きませんでした。帝の大切な恩方、ということばに動揺している自分を感じます。
そこへ、回廊の向こうから僧侶たちがやってきました。社殿でも位の高い僧侶たちでしたが、リンメイが道を開けようとすると、それより早く彼らのほうがよけました。まるで彼女が皇族でもあるように、いっせいに頭を下げてきます。リンメイはますます混乱して、逃げるように彼らの間を抜けました。何がどうなっているのか、わけがわかりません。
すると、今度は父親のハンにばったり出会いました。ハンは何かを思い悩む顔をしていましたが、娘を見ると、その表情がいっそう曇りました。リンメイを招いて人のいない中庭へ行くと、おもむろに切り出します。
「今すぐ家に戻るのだ、リンメイ。これ以上、この社殿に留まってはならん」
リンメイはびっくりして、父親に食ってかかりました。
「何故です、父上!? 私にはキョンを守る役目があるのに!」
「ここには宮廷から選び抜かれた護衛たちが詰めているし、ラク殿たち術師も大勢守りについている。おまえが心配する必要はないのだ」
「でも、私はキョンのそばにいなくてはいけないのよ! キョンに――」
キョンに字を教える約束をしたのだから、と言いそうになって、リンメイは口ごもりました。それを父親に伝えるわけにはいきません。うつむき、約束をしたから……とつぶやくように言います。
すると、父親の声がいっそう厳しくなりました。
「あの方はもう、おまえの知っているキョンではない。あの方は竜子帝、このユラサイの皇帝なのだ。おまえがそばにいれば、それだけで問題になってくる」
リンメイはかっとなりました。
「私たちはおかしな関係じゃないわ!」
「だが、人はそうは見ない。大僧正が社殿の全員に、おまえを相応に扱うように命じられた。おまえはすでに竜子帝の側室と思われているのだ」
リンメイは本当に真っ赤になりました。側室とは皇帝の愛人のことです。どうしてそうなるのよ!? と憤慨しながらも、心のどこかでいっそう動揺します。
すると、ハンが静かに言い続けました。
「おまえは隠し事ができない正直な子だ。おまえたちに何事もないことは、おまえを見ていればわかる。だが、竜子帝と二人きりでいれば、人は誰もがそんなふうに考える。おまえも竜子帝も、もう十六になった。おまえが帝のそばにいては、人の誤解を招くだけなのだ。すでに、この私も疑われ始めている。後見人は自分の娘を皇帝にあてがって、ユラサイの政治をずっと陰から操るつもりでいるのだろう、とな。……この噂は以前からあった。だから、竜子帝が即位してからは、おまえたち二人を会わせなかったのだ」
リンメイはうつむきました。悔し涙がこぼれます。自分たちは以前の通り、兄妹のように一緒に過ごしていただけです。昔と少しも変わっていないのに、ただ歳をとったというだけのことで、周りの見る目が変わり、評価が変わってしまったのです。
それを訴えると、父親が言いました。
「昔と少しも変わっていない、などということはない。おまえたちは確実に大人になったのだからな……。時間は戻らない。おまえも大人の分別を覚えるときだ。家に戻り、コウインの尼寺へ行け。おまえが尼になり、竜子帝が正妻を迎えれば、良からぬ噂も消えていく」
リンメイは立ちすくみました。尼になれ、と言われたことよりも、竜子帝が正妻を迎える、ということばのほうに衝撃を受けていました。
「キョンは誰を奥さんにするの!?」
と思わず聞き返すと、ハンは、そんな娘をじっと見つめました。
「まだ完全には決まっていない。帝の正妻にふさわしい身分の方々の中から選考しているところだ。だが、そう遠い日のことではない。――尼寺へ行きなさい、リンメイ。このまま竜子帝のそばにいることは、おまえにとってもつらいはずだ」
リンメイはまた真っ赤になりました。今度は憤慨したのではありません。何も言えなくなり、父親から目をそらして、うつむいてしまいます……。
一刻も早く社殿から離れるように、と言い残してハンが立ち去った後も、リンメイは中庭に立ちつくしていました。また涙がこぼれ出します。
竜子帝などと呼ばれるようになっても、自分にとって、彼は昔のままのキョンです。帝の子どもなのに、ものすごいわんぱく坊主で、リンメイとはしょっちゅうとっくみあいの喧嘩をしました。昔はリンメイのほうが体が大きかったので、勝つのはいつも彼女のほうで、キョンは泣いて悔しがったものです。
父の勧めで二人で拳法を習い始めた時にも、先に強くなったのはリンメイでした。皇族に生まれた定めで、キョンは時々命を狙われます。そんな彼を敵から守ろうと考えて、人の何倍も稽古を積んだのです。不意の襲撃を受けた時のために、隙を突いてキョンに襲いかかることもしました。キョンがとっさに反撃できるよう鍛えたつもりでした。
そんなふうにして彼女とキョンは大きくなってきました。喧嘩をしたり戦ったり、遊んだり笑ったり……。そのうちに、キョンはいつの間にか彼女より背が高くなり、力も強くなって、不意打ちしても彼女のほうが抑え込まれることが増えてきました。そんなキョンを、リンメイは頼もしく感じました。キョンが輝かしく見えて、わけもなく胸がときめくことも――。
リンメイはきゅっと唇をかみました。尼寺へ行きなさい、という父の声が耳の底によみがえります。本当に、そうしたほうがいいのかも、と考えます。キョンが妻を迎える婚礼の儀に立ち会うことなど、とてもできそうにありませんでした……。
その時、不意に声をかけられました。
「リンメイ様、ここにおいででしたか。竜子帝がお呼びでございます。一緒においでください」
一人の僧侶がリンメイに深々と頭を下げていました。
リンメイは我に返ると、あわてて涙をぬぐって答えました。
「わかりました、すぐ行きます」
どちらにしても、キョンに無断で社殿を去るわけにはいきませんでした。リンメイは、食事をすませたらすぐ戻る、と約束していたのです。
ところが、礼拝堂に向かおうとすると、僧侶がまた声をかけてきました。
「そちらではございません。竜子帝はこちらにおいでです」
と先に立って中庭の奥へ歩き出します。
その後についていきながら、リンメイは悩み続けました。尼寺に入るなどとキョンに言ったら、何故急にそんなことを、と驚いて問い詰めてくるに違いありません。もっともらしい言い訳が必要でした。なんと言ったらキョンを納得させることができるかしら、と考えながら、いつしか彼女はまた涙ぐんでいました。しずくがこぼれ落ちそうになります……。
すると、先を行く僧侶が足を止めました。リンメイは急いで涙をこらえて顔を上げました。キョンに泣き顔は絶対に見られたくありません。あたりまえの顔で、平然と向き合おうとします。
ところが、そこにキョンはいませんでした。僧侶が立ち止まってリンメイを振り返っています。
どうしたの? と尋ねようとして、リンメイは突然飛び上がりました。僧侶からただならない気配を感じ取ったのです。
「おまえ、何者!?」
と叫んで身構えます。
男は体をまだむこうへ向けたまま、頭だけねじってリンメイを見つめていました。その顔は無表情で、殺気も下心も、何も表してはいません。その首が急にするすると伸び始めたので、リンメイは目を見張りました。木の梢に届くほど高く長くなり、そこからまた下りてきます。
リンメイは思わず大きな悲鳴を上げました。
首をくねらせてのぞき込んできた顔は、牙をむく竜の頭に変わっていたのでした――。