書庫から持ち出した巻物をリンメイに問い詰められて、ポチは返事に困りました。あなたは書物など絶対読まなかった、どういう風の吹き回しよ、とリンメイは疑っています。どうやら、竜子帝はよくよく勉強嫌いだったようです。
「キョン?」
とリンメイがまた言いました。厳しい声です。
ポチはすばやく考えを巡らして答えました。
「話したいことがあるんだ――。おまえたち、ちょっと席を外してくれ」
と寝室にいた僧侶や警備兵を追い出してしまいます。
「なによ、話したいことって?」
とリンメイはますます疑う表情をしました。ポチの様子がおかしいことに気がつき始めているのです。ルルはそっと立ち上がりました。ポチの正体がばれるようなことがあれば、すぐリンメイに飛びかかろうと身構えます。
すると、ポチが言いました。
「リンメイ、実は朕は……字が読めなくなっているのだ」
リンメイはたちまち目をまん丸にしました。
「字が……読めない?」
ポチはうなずきました。
「先日、ここに敵の術師が侵入してきた。ラクが撃退したので命拾いしたが、その時に術を食らって、いろいろなことが思い出せなくなってしまった。字も思い出すことができない……。だから、書物を見れば思い出せるんじゃないかと考えたのだ」
部屋の隅でルルはあきれたり感心したりしていました。とっさに考えたにしては、なかなかうまい言い訳です。
「それで、思い出せたの?」
とリンメイが尋ねました。
「だめだ。書を眺めても、意味のわからない模様が並んでいるようにしか見えない。それは歴史書だったのか? それさえ読めなかったのだ」
キョン、とリンメイが痛ましそうな顔をしました。ポチの話を信じ込んだのです。
「いろいろ思い出せなくなっているの? 私のことも忘れていたのね。だから、あんな顔をしたのね……。父上には話したの?」
ポチは首を横に振りました。
「ハンに話せば心配する。敵に知られても大変なことになる。時間がたてば、少しずつ思い出してくるとは思うのだが」
「私のことは――? 思い出せた?」
とリンメイが身を乗り出してきました。大きな黒い瞳がポチの瞳をのぞき込みます。
少し、とポチは答えて笑ってみせました。全然覚えていない、と答えたら、少女がひどく悲しむとわかっていたからです。
リンメイは泣き笑いの顔になりました。
「それでも拳法だけは忘れていなかっただなんて、いかにもキョンらしいわね……。私に何かできることはある? あなたが早く思い出せるように、手伝いがしたいわ」
ポチは少し考えてから答えました。
「朕が思い出せなくなっているようだと思ったら、こっそり助けてほしい。誰にも気がつかれないように。それから――その書物を読んでくれないだろうか?」
「この歴史書を?」
「字を思い出したいのだ。思い出せなければ、覚えなおしたい。それを読んでもらえば、きっとまた字が読めるようになると思うのだ」
リンメイはちょっと首をかしげ、ポチの真剣な顔を見てうなずきました。
「いいわ。それくらいおやすいご用よ。いつから始める?」
「今すぐだ。寝るにはまだ時間が早いから」
とポチは答えました。思いがけなく、気になっていた書物が読めることになったので、声が躍ります。
間もなく外から部屋に戻ってきた僧侶や警備兵たちは、皇帝が幼なじみの少女と寝台に並んで座っているのを見て驚きました。二人の膝の上に広げた巻物を、少女が声に出して読み上げています。仲むつまじくてほほえましい姿でした。
そして……部屋の片隅には雌犬がうずくまっていました。眠ってしまったように、頭を壁に向けたまま動きません。雌犬が長い毛並みを悔し涙で濡らしていることに、部屋の中の人々は誰も気がつきませんでした――。