山の中腹の社殿は、いくつもの建物が敷地の中に集まっていて、建物の間を回廊がつないでいます。礼拝堂の横を通る回廊を、朝の勤めを終えた二人の僧侶が、話しながら歩いていました。すぐ目の前に礼拝堂が見えるので、話題は自然と竜子帝のことになります。
「どうも最近、帝の様子がおかしいらしいぞ」
と一人が言ったので、もう一人が顔をしかめました。
「あの新しい帝はいつだって頭がおかしいだろう。礼拝堂の竜神像で遊んでいたと聞いているぞ。罰当たりにもほどがある」
社殿のご神体に敬意を払わない竜子帝は、僧侶の間では評判が良くありません。
「確かに奇行は前からだが、このところ物忘れがひどくなっているらしい。人や食べ物の名前を忘れていたり、場所の名前を忘れていたり。昨日の朝など、服の着方を忘れていて、世話係を驚かせたそうだ」
「まだそんなふうになる歳ではないだろう。忘れたふりをして、また周りをからかっているんじゃないのか? まったく手に負えない皇帝だ」
「それはそうかもしれないな。後見役のハン様も苦労される――」
二人の僧侶が通り過ぎていきます。
すると、人気のなくなった回廊で、つぶやく声がしました。
「竜子帝が物忘れをしている……?」
まだ若い女性の声です。
回廊の太い柱の陰から人影が飛び出してきました。あっという間に中庭を横切り、礼拝堂の中に消えていきます。その動きがあまりにすばやかったので、社殿の人々は、誰一人としてそれに気がつきませんでした。
同じ頃、礼拝堂を抜け出したポチとルルは、竜仙郷の場所の手がかりを探して、社殿の中を歩いていました。見つかればすぐ連れ戻されてしまうので、人気のない場所を渡り歩いていきます。そのうちに、敷地の一角の建物に入り込みました。薄暗い室内にはたくさんの棚があって、巻物がぎっしりと収められています。
ルルが目を丸くしました。
「なぁに、ここは? なんだかかび臭いわね」
「書庫ですね。図書室だ。この巻物は全部ユラサイの本ですよ――。どうやら当たりの場所に来たみたいだな。ここならユラサイの地図もあるかもしれない。竜仙郷の場所がわかるかもしれませんよ」
とポチは言って、近くの棚から巻物を取り上げました。巻物は長い紙を筒状に丸めて、上から紐でしばってあります。
ところが、紐をほどいて中を広げたとたん、ポチは失望の顔になりました。
「だめだ――」
巻物に書かれているのはユラサイ文字だったので、読むことができなかったのです。いくつか巻物をほどいて確かめてみましたが、やはりどれも文字がわかりません。ポチはがっかりして座り込みました。
「悔しいなぁ……。神殿や寺院の書庫には、宗教だけでなく、国に関する書物も一緒にあることが多いんですよ。この中にはきっとユラサイの地図もあるはずなのに、ぼくたちにはわからないんだ」
「でも、地図なら絵だもの、私たちにもわかるんじゃないの?」
とルルが言いました。地図ならば天空の国にもあります。上空から見た地上の様子を魔法で写し取ったもので、ルルたち風の犬は、主人を地上に運ぶために時々眺めるのです。
それもそうか、とポチは気を取り直し、棚から次々に巻物を取りだしていきました。紐をほどくと、ルルがそれを広げて中を確かめます。ほとんどは文字しか書いてありませんが、たまに絵入りの巻物もありました。どこかの風景や人や動物が、筆と黒いインクで描かれています。
その中に根気強く地図を探しながら、ルルがまた言いました。
「この巻物、不思議な紙でできているわね。いやに薄いわ。魔法で作った紙みたい」
「ああ、羊皮紙じゃないからですよ。ユラサイの紙は草や木の繊維から作っているらしいんだ。匂いも独特ですよね」
とポチが答えましたが、そのとたん、手を止めました。広げたばかりの巻物を見つめます。
「地図があったの?」
とルルが伸び上がると、ポチは首を振りました。
「いいえ。ただ、ぼくにも読めることばが一つだけあったんです。これ、中央文字で『ユリスナイ』って書いてあるんですよ」
とポチは巻物をルルに見せました。中央文字というのは、ロムドを初めとする中央大陸の国々で使われている文字です。
「変だな……。ユラサイでは女神ユリスナイは信じられていないんですよ。この社殿だって、主神は竜ですからね。それなのに、どうしてユリスナイの名前が書かれた書物があるんだろう?」
「もう、ポチったら――。今は地図を探すのが先でしょう?」
とルルがあきれましたが、ポチはその巻物を丁寧に巻き直して、自分の服の袖にしまいました。後でもう一度見てみようと考えたのです。
その時、書庫の入口のほうで、ことりと小さな音がしました。
ルルがたちまち耳を動かし、ばっとポチの前に飛び出しました。背中の毛を逆立てて身構えます。
「気をつけて、ポチ。誰か来たわ。武器の匂いよ」
ささやくように言ってうなり出すと、入口の人物が立ち止まりました。ルルの声を聞きつけたのです。建物の奥の様子をうかがい、次の瞬間、床を蹴って駆け込んできます。その人物から殺気を感じ取って、ルルはまた言いました。
「敵よ! 逃げなさい、ポチ――!」
ポチはすぐさま奥へ走りました。ルルがついてきます。ところが、書庫には入口が一カ所しかありませんでした。たちまち棚が作る袋小路に入り込んでしまいます。
すると、敵の気配が突然消えました。迫ってくる足音が聞こえなくなったのです。ポチとルルは緊張しました。棚を隔てた向こうへ耳を澄まします。
ことり、とまた音がしました。今度は彼らの右上からです。
見上げたルルとポチは、ぎょっとしました。棚の上に人影がうずくまり、じっと彼らを見下ろしていたのです。その手は白く光る短剣を握っています。
ポチがとっさに逃げようとすると、人影が叫びました。
「覚悟、竜子帝!」
短剣をひらめかせて、人影が降ってきました――。