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第13巻「海の王の戦い」

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89.人魚

 入り江の海に面した小さな浜辺に、風の犬に乗ったゼンとフルートとポポロ、花鳥に乗ったメールと三つ子と三匹の犬たちが、次々に舞い下りました。ポチとルルが犬の姿に戻ります。

 ゼンが魔王だった青年をネコの子のように片手にぶら下げていました。それを無造作に砂浜に放り出すと、青年は尻餅をついてそのまま立ち上がれなくなりました。

「ぼ、ぼくをどうする気だ――?」

 おびえたように一同を見回す目は、赤から灰色に戻っています。

 ゼンは腕組みしました。

「別に殺しゃしねえよ。てめえのしたことは許されねえけどな、それをどうするか決めるのは俺たちじゃねえ。渦王だ」

 そう言うゼンは海のような青い瞳をしています。三つ子たちが笑いました。

「ゼン、君がもう渦王なんだよ」

「そうそう。君がこの男を裁くんだ。それが海の王の役目なんだから」

「新しい渦王の初仕事ね」

 ゼンは目を丸くしました。すぐに渋い顔になって言います。

「俺はまだ渦王じゃねえって。んな面倒くさいこと、やってられるか。こっちは願い石を使わずにデビルドラゴンを倒す方法を探していて、忙しいんだからな」

「あら。でも、あなたはもう渦王の力と一緒に役目も引き継いでるのよ。面倒でもなんでも、やらなくちゃ。王の務めを果たさなきゃ、メールと結婚もできないんだもの。そんなのダメよね、ねえ、メール?」

 ペルラが従姉妹に向かって言います。メールは曖昧(あいまい)な顔でほほえみました。色の変わってしまったゼンの瞳を、とまどったように見つめます……。

 

 ゼンは肩をすくめました。

「結婚なんてできるか。俺たちはまだ十五だぞ。早すぎらぁ。結婚するのも渦王になるのも、何もかもデビルドラゴンを倒してからだ。――渦王たちのところへ行こうぜ、フルート。こいつはこのままここに残していって大丈夫だ。周りは絶壁で登れねえし、このへんに上陸できる場所は他にないから、海を泳いで逃げることもできねえからな」

 青年は砂浜に座り込んでいました。小さな体をさらに小さく丸め、頭を抱え込んでしまっています。その姿は、本当に、もう何の力もないように見えました。

 すると、灰色犬のカイが言いました。

「今度は、ぼくとマーレが、みんなを渦王様やアルバ様のところへ運んであげるよ」

 黒犬のマーレと一緒に海に駆け込んで、犬の体に魚の尾の巨大なシードッグに変身します。

 ところが、全員が二匹のシードッグに乗り込んでいると、うめくような声が聞こえてきました。

「デビルドラゴンは、これからも魔王になる人間を捜し続ける……。そうさ、まだまだチャンスはあるんだ。ぼくにはあいつが現れそうな場所の見当がつく。必ずまた見つけ出して、あいつの力を手に入れてやる……。何度でも、何度でも、魔王になって現れてやるさ。君たちを倒して、この世界を手に入れるためにね……」

 青年が顔を上げました。丸い眼鏡の奥で、灰色の瞳が暗く怪しく光っています。闇の竜が去っても、心はまだ闇に囚われているのです。

「この野郎、まだわかんねえのか!? てめえみたいなヤツは――」

 ゼンが拳を握ってシードッグから飛び下りようとすると、フルートがそれを止めました。青年をまっすぐに見て言います。

「やってみればいい。あなたが魔王になって現れるたびに、ぼくらは何度でもそれを倒しに行く。あなたが何を企んでも、あなたがどんな策略を思いついても、必ずそれを阻止してみせる。――あなたがあきらめるまで、何度だって」

 フルートの声は静かですが、何にも負けない強さがありました。魔王だった青年が鼻白んだように黙ります。

「行こう」

 とフルートは言いました。青年を砂浜に残したまま、シードッグが泳ぎ始めます。

 

 すると、今度は細い少女の声が聞こえてきました。

「大丈夫だよ、アムダ様……。アムダ様は、きっとまたデビルドラゴンを見つけて、魔王になれるからね……」

 シードッグに乗った全員が砂浜を振り向きました。いつの間にか人魚のシュアナがやってきて、青年に話しかけていたのです。地下の岩屋からここまで、どうやってたどり着いたのか。背中に傷を負い、火傷をした体で砂浜に這い上がってきます。

 シュアナにほほえみかけられて、青年は目をそらしました。表情を隠すように、膝を抱えた腕の中へ顔を伏せます。それはまるで、失敗をして母親の前で拗ねている少年のようでした。

 すると、人魚がまた言いました。

「そんなにしょげないで、アムダ様……。大丈夫だよ。アムダ様は本当に誰よりも賢くて素晴らしいんだもん。絶対にまた、魔王になって、世界の王様になれるよ……。そして、あたしは海の女王になるんだ……。アムダ様が王様……あたしが女王様……」

 うふふっ、と人魚が笑いました。かわいらしい笑顔ですが、顔にかかった銀髪の下で、頬が焼けただれていました。傷つきぼろぼろになった尾びれが、弱々しく地面をたたきます。

 すると、その腕から急に力が抜けて、がくりと上半身が崩れました。また身を起こすのに、長い時間がかかります。人魚はもう死にかけていたのです。

 

 それでも、人魚はほほえみ続けていました。自分を見ようともしない青年に、優しい声で話し続けます。

「あたしが、なぐさめてあげるね、アムダ様……。歌を、歌ってあげる……。あたしの庭も見せてあげる……。勇者たちの死体は飾れなかったけどさ。いいんだ……アムダ様は特別だから」

 とたんに、青年は、ぎくりと顔を上げました。少しの間、何かを考える表情をしてから、人魚を振り向きます。

「待て、シュアナ。おまえの庭って……。ぼくはもう魔王じゃない。人間なんだ。おまえの庭のある場所に連れていかれたら――!」

 あわてて立ち上がろうとする青年の腕を、人魚がつかみました。甘い声と笑顔で話しかけます。

「心配しないで、アムダ様。あたしがちゃんと海の底まで運んでいってあげるから……。あたしの庭、綺麗だよ……お花も、木も、たくさん植えてあるんだ……。アムダ様が沈めた村から、テーブルと椅子も運んできたから、アムダ様の座る場所もあるよ……。そこで、あたしと一緒に暮らそう。あたし、アムダ様をすごく大切にしてあげるから。死ぬまで、ずうっと……」

 人魚の声には魔力がありました。韻律を作って、相手の心に絡みつきます。シュアナを振り切って逃げようとしていた青年が、とろんとした顔つきになって、半分まぶたを閉じます。魔王でなくなった青年は、人魚の声の魔力を払う力もなくしていたのです。

 すると、人魚は歌い出しました。たった一人のための歌声が、美しく流れて青年の心を幾重にも絡め取っていきます。

 

 ついに青年は完全に抵抗する力を失いました。人魚の腕の中に、ゆっくり倒れかかっていきます。

 とたんに、人魚は歌いやめました。顔を輝かせて青年を抱きしめます。

「嬉しいっ! やっと、あたしのものになってくれたのね、アムダ様……!」

 夢見る顔の青年を抱いて、シュアナは砂浜を戻り始めました。傷つき弱っているはずなのに、あっという間に青年を海まで運んでしまいます。

 フルートはシードッグから海へ飛び込もうとしました。青年を助けようとしたのです。すると、ゼンが止めました。

「俺たちに邪魔はできねえよ。あいつはあの人魚のもんだ」

 見つめる人々の前で、シュアナと青年は海へ入っていきました。眼鏡をかけた顔を波が洗い始めても、青年は目を覚ましませんでした。人魚に寄りかかるように体を預けています。

 それをいっそう強く抱きしめて、人魚は言いました。

「愛してるよ、アムダ様……誰よりも愛してる……。あたしの庭で、一緒に暮らそうね……。あたし、アムダ様を大切にしてあげるから。ずっと、ずっと……アムダ様が白い骨になってしまっても、ずうっと……アムダ様だけを愛してあげるから……」

 幸せそうに笑って、火傷をしていないほうの顔で青年に頬ずりします。青年は何も言いません。眠るような顔は、なんだかほほえみを浮かべているようにも見えます。

 人魚は青年を抱いたまま海に潜りました。ぼろぼろの魚の尾が、海面を一度打って消えていきます。その後に激しい泡が湧き起こりました。青年の手が現れてもがくように水をかき、すぐに海の中に見えなくなっていきます……。

 

 シードッグの背中から、少年少女たちはそれを見守りました。誰もことばも出せません。

 やがて、メールが言いました。

「人魚はさ、愛する男を見つけたら、もう絶対に離さないんだよ。海の底に引きずり込んで、誰にも見つからない場所に大切にしまっておくんだ」

 ゼンがそんなメールを強く抱き寄せました。メールは涙ぐんでいたのです。

 フルートはポポロを抱きしめました。こちらは何かをこらえる表情です。少女が優しくそれを抱き返します――。

 雲が晴れた空から、日の光は降りそそぎます。青く輝く入り江の海に、銀の波だけが、ちらちらといつまでも揺れていました。

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