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第13巻「海の王の戦い」

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63.緑の夢

 メールは夢を見ていました――。

 南海に浮かぶ渦王の島の城の中です。死んだ母が元気な姿で椅子に座っていました。長いドレスの裾を床に流して、せっせと刺繍(ししゅう)の針を動かしています。結い上げられた豊かな髪は、メールと同じ緑色です。

 メール自身は、夢の中では十歳くらいの小さな少女になっていました。今と同じように袖無しのシャツとうろこ模様の半ズボンを着て、腰には短剣を下げています。その恰好で母の足下の床に座り、ふぅ、と溜息をつきます。なんだかひどく体がだるかったのです。

 すると、母が刺繍をしながら話しかけてきました。

「どうしたの、メール? 疲れたの?」

「ちょっとね」

 とメールは答えました。体の芯がひどく重たい感じがして、ぼんやりしていると、そのままどこかへ引き込まれそうな気がします。

「無理はしないのよ。自分の体を大切にすることも、戦士の大事な役目ですからね」

 と母は言い続けました。目は枠にはまった刺繍布に向けたままです。

 

 そんな母をメールは見上げました。母が生きていた頃、メールはよくこんなふうに母のそばにいたのです。そして、いろいろな話をしてきました。今も、少し考えてから、こんなことを話し出しました。

「ジーナが結婚しちゃったよ。十四歳になったから。せっかく友だちになれたのにさ……。みんなそうなんだ。仲よくなっても、みんなすぐ大人になっちゃって、結婚して、それっきりもう遊んだり話したりできなくなるんだ。つまんないよ」

「それはしかたないわね」

 と母は言いました。

「海の民は他の種族と比べたら寿命が短いわ。その時間の中ですべてのことをしようとするのですもの、大急ぎで大人になって、できることをしなくてはならないのよ。女なら子どもを生んで育てたり、男なら戦士になって戦ったり。子どもの頃のように遊ぶ時間はなくなってしまうわね」

 メールは口を尖らせました。理屈ではわかっていても、やっぱり、自分だけ置いてきぼりにされるような気持ちはなくせません。自分は本物の海の民ではないのだ、と思い知らされるような気もします。

 すると、母が穏やかに続けました。

「でもね、本当は、そんなことと、その人と仲よくなれるかどうかは、関係がないのよ。時間の流れが違っていたって、今この瞬間には一緒にいるのですもの。出会って一緒にいる時間を大切にしなくてはね」

 

 メールはまたちょっと考えました。今度は海のどこかへ遠征に出かけている父を思い出します。

「母上もそう思って父上と結婚したわけ? 種族が違うのに?」

 母はすぐには返事をしませんでした。布に幾針か刺繍を続けて、それからおもむろに刺繍枠を膝に置きました。メールをまっすぐに見つめて、ほほえみます。

「そうですよ。あなたのお父様は海の王だから、普通の海の民よりはずっと長生きされる。それでも、私たち森の民よりは短命ですからね。こう見えても、私はもう百五十歳です。あなたのおじいさまなんて、もう四百歳を越えているわ。これほど時間の流れが違う種族が結婚するなんて、森の木と海の泡が結婚するようなものだと、周囲から猛反対されましたからね」

 メールはまた母を見つめました。すぐ大人になって老いていく海の民と違って、森の民の母はいつもずっと変わりません。メールが小さかった頃も、大きくなった今も、やっぱり娘のように若々しく、美しい姿をしているのです。

 どうして? とまた尋ねたメールに、森の姫は穏やかに答えました。

「理由はとても簡単ですよ。あなたのお父様のことが好きだから。だから、一緒にいられる限りそばにいて、共に生きていきたいと考えているの……。同じ種族同士の夫婦でも、最後まで一緒にいられることは少ないわ。たいてい、どちらかが先に逝って、どちらかが後に残される。それでも、共に生きて過ごした日々は、決してなくならない。それと同じことなのよ。それに――」

 メールの母は、ちょっと笑いました。少女のようにも、年を重ねた女性のようにも見える、不思議な笑顔で言います。

「いくら私が長命の種族だからと言って、必ず長生きするとは限らないわ。私のほうがあなたのお父様より先に逝ってしまう、ということだってありますからね」

 メールは、はっとしました。そんなことない、母上が死んだりするもんか! 夢の中の幼いメールはそう叫ぼうとしていましたが、その中に宿る今のメールが、思わず納得していました。母はメールが十二の時に病気で亡くなってしまいました。夫の渦王よりはるかに長生きするはずの母のほうが、先に人生を終えてしまったのです。

 ね、とメールの母は穏やかにほほえみました。

「種族の違いも、時間の違いも、そんなものは大したことではないのよ。大切なのは、自分が今、その人をどう思っているか、ということ……。そして、自分はどうしたいか、ということ。それさえ見誤らなければ、幸せは誰にでも公平に訪れるものだわ」

 

 メールはとても長い間考え込みました。その間、母は一言も急かしませんでした。いつもそうだったのです。辛抱強く、穏やかに待ち続けられる母でした。

 やがて、メールは言いました。

「あたい……ゼンが本当に好きなんだよ」

 森の姫がまたほほえみます。

「それはわかっていますよ。ゼンもあなたを想ってくれている。だから、幸せなのでしょう?」

 うん、とメールはうなずきましたが、思わず目を伏せてしまいました。半ズボンからのぞく自分の膝を見つめて言い続けます。

「幸せなんだけど……心配なんだよ。ゼンがあたいのことを置いていきそうな気がして。あたい、自分がこんなに陸を苦手だったなんて知らなかった。今だって、いつまでたっても元気になれないしさ――」

 いつの間にかメールの姿が変わっていました。服装は変わりませんが、大人びて娘らしくなった、今のメールです。

「ゼンはすごくあたいを大切にしてくれてる。そして、ものすごく心配してくれてる……。わかるんだよ。あいつがとても無理してるってこと。だけど、あたいを助けたくて、あいつはがんばって渦王をやってる。あたい、嬉しいんだけど……でも、なんだか悲しいような気もするんだよ。そして、すごく不安になるんだ……」

 海で事件があるたびに、戦士たちを率いて遠征に出る父の姿に、今のゼンが重なっていました。メールは海から離れられないくせに、海では花を使って戦うことができません。そんな自分を、ゼンは父のように置いていってしまうかもしれない、と思うのです。

「体は離ればなれになっていても、心はずっと一緒にいられるものよ」

 と母はまた言いましたが、娘が泣きそうな顔をしたので、優しい目になりました。

「そうね、あなたには待つことが何よりつらいことだったわね。それならば、考えなさい、メール。自分が本当にしたいのは何なのか。自分と相手が二人とも幸せになるためには、どうするのが一番いいのか。それを考え続けていけば、いつかきっと答えは見つかりますよ」

 母がメールの髪をなでてくれました。その暖かさに、メールは本当に涙ぐんでしまいました。懐かしい懐かしい母の手の感触です……。

 

 

 おい、と急に声をかけられて、メールは目を覚ましました。そこは暗い海に浮かぶ戦車の中でした。戦車の隣を漂うホタルイカが、心配そうなゼンの顔を照らしていました。

「大丈夫か? おまえ――なんか、泣いてるような顔してたぞ」

 メールは顔を赤らめました。夢を見ながら本当に泣いていたのです。涙は海の中に紛れても、夜目の利くゼンには泣き顔がはっきり見えてしまったのでした。

「なんでもないよ」

 とメールは答えて体を起こしました。戦車の足下のほうでは、ポチが丸くなって眠っていました。ゼンがフルートと話をしに行っている間、ずっとポチがそばにいたのです。

「フルートと話は終わったの?」

 と尋ねると、まあな、とゼンは答えました。メールの額を押し戻すようにして言います。

「いいから寝てろ。明日は日の出と共に出発だ。いよいよ魔王と決戦だからな。充分休んどけ」

 大きな手のぬくもりに、夢の中の母の手を思い出して、メールはまた涙ぐみそうになりました。あわててゼンの腕を捕まえ、額を寄せます。

 なんだよ、とゼンが言いました。照れたような声です。

「あたい――あたい、絶対にゼンと一緒に行くからね」

 とメールは言いました。

「何があったって、最後まで一緒さ。置いていったりしたら、承知しないから」

 本当に言いたいことばは別にあるような気がしても、そんな言い方でしか想いを形にできません。案の定、ゼンは目を丸くしました。

「なんだよ、今さら? おまえ、いつだって置いていこうとすると怒るじゃねえか。そんなの、言われなくてもわかってらぁ」

 メールはそれには答えずに、ゼンの腕をつかむ手に力を込めました。夢で聞いた母の声を思い出します。

 自分が本当にしたいのは何なのか。自分と相手が二人とも幸せになるためには、どうするのが一番いいのか。それを考え続けていけば、いつかきっと答えは見つかりますよ……。

 その答えは、メールにはまだわかりません。

 置いていかれないように。ゼンが行ってしまわないように。メールはゼンの太い腕を抱きしめ続けていました。

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