ジムラの入り江は、氷河の痕に海が入り込んだフィヨルドでした。氷に削られた岩壁は、海面から頂上まで千メートル以上もの高さがあり、海の中にもそれと同じくらいの壁が続いています。つまり、入り江の両側は、頂上から海底まで二千メートル以上もある断崖絶壁になっているのです。
その切り立った岩壁に沿って海中を進みながら、フルートは言いました。
「本当に険しい場所なんだな……。陸歩きが苦手な半魚人だけじゃなく、ぼくたちだってここを登るのは苦労するぞ」
「ワン、雨さえ降らなければ、ぼくが風の犬になって頂上まで運んでもいいけど、海の戦士全員を運ぶのはさすがに無理だなぁ」
とポチが岩壁を見上げていると、戦車の手綱を握る老戦士が言いました。
「入り江に面した側は絶壁ですが、山の他の部分は、これよりはなだらかです。上陸できる場所も、入り江のあちこちにあります。人間たちは、そこに家を建てて村を作っているのです」
「村を作っていた――だよね。魔王が津波で村と村人を全部押し流してしまったんだから」
とフルートは言って、眉をひそめました。魔王の青年が自分の故郷に何故そんなことをしたのか、フルートたちには知ることはできません。魔王になって闇に心を奪われたから、故郷にも愛情を感じなくなったのかもしれない、とも思います。
ですが、フルートは、なんとなく割り切れないものを感じていました。今回の魔王は、他のどこの場所より先に、自分の故郷を滅ぼしました。それは、いくら闇の魔王であっても、普通のことではないような気がするのです。
あの魔王の青年は何を考えているんだろう? 何を望んで闇の竜と手を結んだんだろう……?
歴代の魔王の中では一番小柄で平凡そうな姿を思い出しながら、フルートは考え込んでしまいました。
すると、そこへ行く手の偵察に行った魚が戻ってきました。ニシンです。もともと北の海に住む魚なので、冷たい海の中でも、群れを作って元気に泳いできます。
「報告します。行く手の海域で待ちかまえている敵を発見しました。海竜や巨大な海虫(うみむし)の集団です」
「海竜や海虫が冷たい海に? 聞いたことがありませんな」
と老戦士が言うと、ニシンがさらに報告しました。
「海虫はどれも全長が二メートル以上もあります。人が襲われるような大きさです」
一同は、思わず顔を見合わせました。
「ワン、どうします、フルート?」
「私が魔法でまず飛び込んだ方がいい?」
とポチとペルラが言ったので、フルートは考え込みながら答えました。
「それじゃ完全な不意打ちにはならない。敵はこっち側からぼくたちが来ると警戒してるからな……。シャチ部隊はいるかい?」
「こちらに、勇者様」
と後方の海から返事がありました。緑色の冷たい水の向こうに魚の姿の獣たちが控えています。
フルートは言いました。
「また挟み撃ちで攻撃をかけよう。ぼくとポチがまず空を飛んで向こう側に行くから、敵がぼくたちに向かって攻撃を始めたら、君たちは後ろから敵に襲いかかるんだ」
「勇者殿自らが囮(おとり)になると? 危険すぎますぞ」
と老戦士が驚くと、ペルラとシィも口々に言いました。
「私も行くってば、フルート! そう言っているじゃないの!」
「あたしもです! 前回みたいに、小犬に戻ってフルートさんのリュックサックに入ります!」
あまり二人が熱心なので、フルートは思わず苦笑しました。
「いつものことだから、別に平気なんだけどな」
「ワン、それに、シィはともかく、ペルラは無理ですよ。風の犬になったぼくには乗れないんだから」
とポチも言います。
とたんに、ペルラは怒った顔をしました。燃えるような目でフルートをにらみつけて、こう言います。
「私を抱いていって、フルート! それなら私だって空を行けるはずよ!」
「え……」
フルートは目をまん丸にして、思わずペルラを見つめてしまいました。大きくふくらんだ胸やくびれた腰、丈の短い裾からすんなり伸びる両脚――ペルラは全身から匂い立つような女らしさを放っています。彼女を抱きかかえるには、そんな体に触れることになるのです。
「なによ、できないの!? そんなはずないでしょう! ザフを魔王から助けたとき、ザフを背負って戦っていたんだもの! 私を抱えることだってできるはずよ!」
「そ、それは……できるけどさ……」
顔を赤らめてしどろもどろになったフルートに、ペルラはさらに迫りました。
「じゃあ、私を抱いていってよ! 早く!」
相手に有無を言わせません。
戦車が海面に浮上すると、ポチがまず風の犬に変身しました。絶壁に沿って長々と体を伸ばして、ぶちの小犬に呼びかけます。
「直接ぼくに乗ってごらんよ、シィ。君は同じ犬だから、ぼくに乗れるはずだよ」
そこで小犬はジャンプしました。大きなポチの背中に着地すると、楽々とその真ん中に座り込んで言います。
「本当だわ。全然危なくない」
フルートはペルラの体に手を回しました。自分より背の高い彼女を、両腕で抱き上げます。
ところが、勢いが良すぎました。いきなり高々と持ち上げられたので、ペルラは悲鳴を上げてフルートの首にしがみつきました。
「ご、ごめん!」
とフルートは謝りました。
「勢いが余っちゃったんだ……。案外軽いんだね、ペルラ」
ペルラは顔を赤らめました。
「そ、そんなことないわ。私は痩せてないもの。フルートが見かけによらず力があるのよ」
そんなふうに言われて、フルートも赤くなりました。
「そんなことはないさ。だって、以前、落ちてきたのを抱き止められなくて、ひっくり返っちゃったことがあるんだから――」
ふっとフルートが真顔になりました。照れていた顔が、たちまち普段の顔色に戻っていきます。
それ、誰の話? とペルラは聞こうとして、ためらいました。フルートは、ここにはいない誰かのことを思い出していました。フルートの遠いまなざしは、腕に抱くペルラではなく、その誰かの姿を見つめているのです。
朝日に輝く新雪の中、高い城壁から飛び下りてきた小さな少女。黒い翼のように青空の中にひるがえる衣、フルートを疑うことなく見つめる緑の瞳。そんなフルートの記憶の中の映像を、ペルラには見ることができません……。
フルートは黙ったままポチの背中に乗りました。ペルラも黙ってフルートに抱かれていました。少女の両腕はまだ少年の首に回されていますが、少年はもう顔色一つ変えません。
風の犬が舞い上がった空は、相変わらず厚い雲でおおわれていて、彼方に魔法の国を見つけることはできませんでした。