入り江の奥の岩屋にシュアナが戻ってきました。
自分専用の水場から岩の床に這い上がり、怒ったように髪を振り回して言います。
「ああもう、やだやだ! 海の中がゴミでいっぱいだよ、アムダ様! 水はにごってるし、牛や豚の死体は浮いてるし。最悪! 魔法で海を綺麗にしてよぉ!」
言いながら金の櫛を取りだして、銀髪に絡みついた小枝やゴミを取り始めます。
眼鏡の青年は穏やかに言いました。
「それはできないよ、シュアナ。あれは連中が攻め寄ってきたときのための煙幕だ。水がにごっていれば、思うように進めなくなるからな」
すると、人魚はさらに怒って尻尾で床をたたき始めました。
「がらくたもいっぱいだから、危なくてしょうがないんだよ、アムダ様! 人間の家の柱だとか家具だとか。あたし、もう少しで大きなテーブルにぶつかるところだったんだから!」
「しばらく海には出ないほうがいい。連中もやって来るしな。シュアナが見つかったら人質にされるぞ」
とたんに人魚は床をたたくのをやめました。大きな紫の瞳で青年をじっと見上げて、こう尋ねます。
「そうなったら、アムダ様はあたしを助けに来てくれる? 連中が渦王や海の王子を助けにくるみたいに」
「もちろんだ。連中にシュアナを奪われるわけにはいかないよ」
青年がすぐにそう答えたので、人魚はとても嬉しそうに笑いました。――こっちの情報が連中に漏れたら大変だからね、と青年がつぶやくように言い足したことには、気がつきません。上機嫌のまま、さらに尋ねます。
「ねえねえ、アムダ様、それにしてもどうして入り江の村を全滅させちゃったの? 何度も大津波を送ってさ。あの中にはアムダ様の村もあったんでしょう? 知り合いとか、いなかったの?」
「いたよ。ぼくの親も兄弟もいたし、親戚もいた。村中の全員をよく知っていたよ。なにしろ小さな村だからな」
「それなのに、なんで? 自分の村くらいは助けたほうが良かったんじゃないの?」
シュアナの疑問は当然でしたが、青年はそれに笑い返しました。
「いらないさ、あんな故郷なんか――。ぼくの実力を認めずに、ぼくを馬鹿にしてばかりいたんだ。あんな連中に生きていく権利はないよ」
とたんに青年の目が眼鏡の奥で妖しく光りました。ぞっとするほど冷ややかなまなざしです。
シュアナは首をかしげ、やがてまた言いました。
「入り江の村人って、どのくらいの人数がいたのかな? けっこういたはずだよね」
「そうだな。大きい村なら百人以上、小さい村でも数十人は住んでいたし、入り江に面した港ごとに、そういう村が七、八十はあったから、一万人近くいただろうね。津波に気がついて裏山に逃げようとした連中もいたけれど、立て続けに波を送って全部呑み込んでやったから、全員死んだはずだよ」
「変だね。それにしては、海の中に人間の死体が全然見当たらなかったんだよ。人間はどこに行ったの?」
「死体を集めに行ったのか。シュアナの庭に飾るつもりだったな?」
と青年はちょっと苦笑しました。
「綺麗な死体があったらね。ねえ、死体はどこにやったの?」
「ちゃんと海の中に沈んでいるさ。ただ、シュアナに見つけられないだけだ。まだ用があるからね」
人魚はまた首をかしげましたが、言われた意味がわからなかったので、こう言いました。
「あたしの庭には、勇者たちの死体を飾る場所がちゃんと空けてあるんだよ。ねえ、アムダ様、今度こそ連中をあたしにくれるんでしょう?」
「ああ、今度こそね――。連中は必ずこの入り江に入ってくる。ここが連中とぼくの決戦場だ。この戦いに勝てば、あとはもう恐れるものは何もなくなる。世界は魔王のぼくのものになるのさ」
「海はあたしとアムダ様の二人のものだよ」
とシュアナが言い足します。それには答えず、青年は言い続けました。
「見せつけてやるさ。貧弱だ、力がない、と馬鹿にされてきたぼくが、本当はどれほどのことができるのか。ぼくにはこの頭脳がある。知略ならば、誰にも負けない。ぼくはこの力で世界を支配して、世界中の奴らに、ぼくの知恵を恐れさせてやるのさ」
妖しく光りながら笑う目は、残酷で冷ややかで、底知れない暗さがありました。声は楽しげなのに、心の中では笑っていないのです。
青年は怒っていました。青年は恨んでいました。そして――青年はどこかで泣いているようでした。自分を正当に評価しない周囲の人間たちに怒り狂いながら。
そんな青年を見つめながら、人魚がまた言いました。
「アムダ様にはきっとできるよ。アムダ様はすばらしい力を持ってるんだもん。世界中の王様になって、世界中の人間だけでなく、動物も怪物も全部従えちゃうんだ。アムダ様、その時にはもっと立派な服を着よう。あたし、前に見たことあるよ。本物の王様って、黒アザラシとかクロヒョウとか、そういう生き物の毛皮のマントを着てるんだよ」
「頭には王冠をかぶってか? そんな見た目はどうでもいいことなんだけれどね――。でもまあ、連中を破って世界を手に入れたら、そんな恰好も悪くはないかもしれないな。シュアナにも冠をあげよう。金と宝石で出来た、かわいい冠をね」
「嬉しい! その時には、ぜひあたしの庭にも来てね、アムダ様。人魚は自分の庭を同じ人魚にしか見せないんだけど、アムダ様は特別だよ。あたしの庭にご招待してあげるから」
世界を手に入れることと自分の庭に招待することを、同じくらい重要と考えている人魚に、青年は思わずまた笑いました。
「それは光栄だな」
人魚は上機嫌になって、尻尾で床を打ち鳴らしました――。
青年はテーブルの上へ目を移しました。そこにはいつものチェス盤があります。ところが、今日は盤上の様子が違っていました。マス目が一面に並んでいるのではなく、盤の端から端へ、道のように二、三マスの幅で伸びていて、その外側が黒く塗りつぶされているのです。しかも、道は曲がりくねっています。
青年は言いました。
「これがぼくらのいるジムラの入り江だ。長い長い入り江だからね、入口から奥まで五十キロメートル以上ある。幅も狭い。連中は一気に攻め寄ってくることはできないだろう」
「入り江の入口はすごく浅くなってるんだよ。クジラが通ろうとすると、お腹をこすっちゃうんだから」
とシュアナが言うと、青年は肩をすくめます。
「もちろん知っているさ。ぼくはこの入り江で生まれ育っているんだぞ。ジムラの入り江は、入口の水深が平均で十メートル足らず。しかも岩礁がいくつも顔を出している難所だけれど、これが逆に入り江を自然の要塞にしている。これがあるために、海の民は入り江に攻め込むのに苦労するんだ」
チェス盤の道の入口で、マス目がいくつか黒い色に変わります。駒を置けない場所、岩礁というわけです。白い駒は岩礁の手前、黒い駒は入り江を表す道の内側に配置されていて、道の最果てには黒いキングの駒があります。
それをのぞき込んでシュアナが言いました。
「この黒い王様はアムダ様だよね? あたしはいないの?」
「いるさ。シュアナはこれだよ」
と青年が取り上げたのは黒のクイーンの駒でした。自分を表す黒のキングの前に置きます。
人魚は目を丸くすると、ぽおっと頬を染めました。
「ホント? ホントに、アムダ様? でも、あたし、なんにも力がないよ。魔法も使えないし、武器も使えないし。それでも、あたしが女王様なの?」
「そうさ。シュアナはぼくのクイーンだ。とても大事な役目なんだよ」
人魚は最高に嬉しそうな表情になりました。
「アムダ様! あたし、絶対アムダ様の力になるからね! 命をかけてもアムダ様を勝たせてあげるから!」
「ありがとう、シュアナ。期待しているよ」
青年はそう言って、またチェス盤へ目をやりました。
入り江の奥にいる黒のキングと、かばうように前に立つ黒のクイーン。青年の頭の中には何か作戦があるようでしたが、人魚にそれを教えることはしませんでした……。