「そんな馬鹿な!」
と魔王は叫びました。空に現れたフルートと風の犬のポチを、信じられないように見上げます。アルバが魔法で雷と風を起こすまで、海上ではずっと雨が降っていました。雨に弱い風の犬が飛んでいられる状況ではなかったはずです。
けれども、羽ばたく鳥たちを見て、彼はすぐに気がつきました。海鳥たちは隙間もないほど寄り集まって、群れの中にフルートとポチを隠していました。その無数の翼が雨もさえぎって、風の犬を守っていたのです。
フルートは右手にペンダントを握りしめていました。魔王へ突きつけて叫びます。
「光れ!」
ペンダントの真ん中で魔石が輝き出し、金の光を魔王に浴びせました。魔王の体がたちまち溶け始めます――。
魔王の青年は急いでマントを広げて光をさえぎりました。次の瞬間には自分の周囲に黒い闇の障壁を張り、溶けた体を元に戻します。
フルートはペンダントをかざして急降下を続けていました。強い金の輝きに照らされて、闇の障壁にもひびが入り始めます。
とたんに魔王が声を上げました。
「海坊主、手の中の奴を握りつぶせ!」
おおぅ、と海坊主は返事をすると、ザフを捕まえている手に力を込めました。全身を締めつけられてザフが悲鳴を上げます。
フルートはポチを急転換させました。魔王の頭上からまた空へ舞い上がり、海坊主へ飛びます。
炎の剣が閃くと、海坊主の太い腕がすっぱり切れました。腕が空中で火を吹いて燃え上がります。海坊主の腕の付け根も火に包まれましたが、大男が海に沈んだので、火はすぐに消えました。海坊主の絶叫が響き渡ります。
ポチはまた旋回して急降下しました。ザフが、燃え上がる海坊主の手から放り出されて、真っ逆さまに落ちていきます。たとえ下は水面でも、数十メートルの高さからまともに落ちれば、地面にたたきつけられたような衝撃を受けてしまいます。懸命に追いついてザフの下に回り込み、フルートがその体を抱きとめます。
とたんに、ポチ自身が墜落しかけました。ザフの勢いを止めきれなかったのです。危なく一緒に海にたたきつけられそうになって、ぎりぎりで留まり、海面をなめるようにして飛びます。体が波をかすめて水煙を立て、しぶきに風の尾を吹き散らされて、ポチがキャン! と悲鳴を上げます。
フルートはザフを抱いたまま叫びました。
「がんばれ、ポチ! 消えるな! 飛べ――!」
ポチがまた空へ舞い上がりました。水しぶきの中から離れると、白い風の尾がまた復活してきます。
ザフはフルートの小柄な体にしがみついていました。墜落、急降下、急上昇。あまりの激しさに声も出せません。
と、いきなりザフがまた落ちかけました。フルートが彼をポチに座らせようとしたのですが、足や腰が風の犬の体を突き抜けてしまったのです。悲鳴を上げて、またフルートにしがみつきます。
「ワン、無理ですよ、フルート。ザフはぼくに乗れません」
とポチが言いました。風の犬は自分が仲間と認めた者しか乗せることができないのです。
すると、ゼンの声が聞こえてきました。
「見ろ! アルバがやばいぞ!!」
フルートたちは、はっとしました。ザフを救出している間に、魔王がアルバの戦車に乗り移っていたのです。長い爪の手で、見えない何かをたぐり寄せています。
「アルバ!」
フルートはとっさに炎の弾を撃ち出そうとしましたが、両腕でザフを抱いているので剣が使えませんでした。金の石もザフの体でさえぎられてしまっています。その間に魔王は最後のひとたぐりをしました。アルバの体がぐったりと床に倒れて動かなくなります。
兄上! というザフの悲鳴に、魔王の青年はまた顔を上げました。眼鏡の奥で赤い目を細めて笑います。
「彼の海の力はいただいたよ。万事計画通り。さあ、それじゃ、海の魔法で君たちを撃退するとしようか」
魔王は両手を高く差し上げ、そのままさっと振り下ろしました。
とたんに、ゼンとメールの戦車が、ぐん、と強く引っ張られました。今までとは逆の、海峡の方向へ動き出します。
「な……!?」
ゼンとメールは驚きました。海流がいきなり逆に流れ出したのです。マグロやカジキたちは必死で前へ泳ぎましたが、戻っていく海水の流れがあまりに急で、逆らうことができません。
海中でも大混乱が起きていました。魔王軍の包囲網を抜けようとしていた渦王軍の戦士たちが、逆走する海流に押し戻され始めたのです。それを追っていた魔王軍の兵士たちも一緒に巻き込まれます。
やがて流れは音をたてて回転を始め、大渦巻きになりました。しぶきを立てて巡る水に敵も味方も引き込んでいきます。
「ゼン、メール!」
フルートとポチは叫びました。二人の乗った戦車も渦に巻き込まれて、ものすごい勢いで回転を始めていました。みるみる渦の中心へ引き込まれていきます。
「あれは兄上の大渦だ! 呑み込まれたらただじゃすまない!」
とザフが青くなりました。
ポチは必死で飛んで渦の真上まで行きました。ゼンたちに追いついて救おうとしますが、渦が速すぎて何もできません。
その間にも、戦車はすり鉢のような渦の斜面を周りながら滑り落ち、ついに渦の中心に吸い込まれてしまいました。同じように、海の戦士たちも次々渦に呑み込まれていきます。一度渦に消えた者は浮かんできません。
「ゼン! メール!!」
フルートとポチがまた叫びます――。
渦巻きは海中にも続いていました。
そこに巻き込まれた戦車は、激しく回転しながら海底に沈んでいきます。ほとんど横倒しの恰好になった戦車の中で、ゼンとメールは動けなくなっていました。マグロやカジキたちも、どうすることもできずに水の中を回り続けています。回転がいっそう速まると、車体が今にも壊れそうにみしみしと音をたて、メールが苦しそうにうめきました。
「メール!」
ゼンは戦車の床を這ってメールのそばにたどり着きました。太い腕でかばうように抱きますが、彼らに襲いかかってくる力はどうすることもできません。押しつぶされそうな、すさまじい圧力です。
すると、戦車の先でマグロたちが声を上げました。渦の下のほうに色の違う海水が見えてきたのです。一続きの海の中だというのに、緑を帯びた暗い色をしています。先に渦に巻き込まれた戦士たちが、そこへ吸い込まれるように沈んでいきます。
と、海水の中に赤いものが広がりました。血です。色の違う海域に入ったとたん、戦士たちの体がばらばらに引き裂かれたのです。
ゼンは息を呑みました。何が起きているのかわからなくて、海中で目を見張ってしまいます。
実は、彼らはもうユード海峡のすぐ近くまで押し戻されていました。海水は、海峡の上の方では西の大海から冷たい海へ流れていますが、海峡の底に近い部分では、逆に冷たい海から西の大海のほうへ流れています。海峡の上と下を、二つの海流が正反対の向きで流れているので、境目には複雑な水の流れが生まれていました。さらに、魔王の魔法が流れを強めています。境目で荒れ狂う水に巻き込まれた戦士は、流れに体を引き裂かれてしまったのでした。
海の戦士たちに続いて、魔王軍の黒い半魚人が暗緑色の流れへ吸い込まれていきました。丈夫なうろこにおおわれた体も、やはりあっという間にちぎれてしまいます。一瞬海中に広がった血と一緒に、ユード海峡へと流されていきます。
「やべぇ……」
ゼンはつぶやきました。このままでは自分たちも同じ運命をたどります。海中だというのに、首筋の後ろがちくちくと痛んで止まりません。どうにか脱出できないかと必死であたりを見回しますが、渦の回転が激しくて振り切る方法がありません。戦車も戦車を引く魚たちも、緑の海流へどんどん近づいていきます。
また海の戦士の魚が海底の流れに呑み込まれました。水にひれや尾をちぎられ、血を吹き出しながら海峡へ運ばれていきます。ゼンたちの戦車の上のほうでは、さらに大勢の海の戦士たちが渦に巻き込まれて、同じ場所に引き寄せられています。
「ちくしょう!」
とゼンはわめきました。激しい渦の中、その声は誰にも届きません。戦車はもう渦の先端まで来ていました。その先は海底の暗い激流につながっています。そこまで行けば、彼らもばらばらになってしまいます。
すると、ゼンの腕の下でメールがぐうっと声を上げて、急に力をなくしました。戦車に押しつけられる力に耐えきれなくなって、気を失ってしまったのです。
「メール! メール!」
ゼンがゆすぶってもメールは目を覚ましません。
ゼンは歯ぎしりしました。どうしていいのか、本当にわかりません。渦の先の激流をにらんでわめき続けます。
「ちくしょう! ちくしょう! こんちくしょう――!!」
すると、ふいに流れが緩やかになりました。
海中に伸びていた渦巻きが、ほどけるように先端から消えていきます。
吸い寄せる力がなくなって、海の戦士たちはようやく止まりました。いっせいに反転して引き返し始めます。危険な緑の海流が遠ざかっていきます。
マグロとカジキたちも、戦車を引いて大急ぎで海上へ向かいました。そんな彼らにまた流れが押し寄せます。それは、以前と同じ、海峡から冷たい海へ向かう流れでした。危険な場所がさらに遠ざかります。
「いったいどうなってんだ?」
ゼンはメールを抱いたまま目を丸くしていました。渦が突然消えたので、きわどいところで彼らは助かったのです。それはわかっていましたが、何故そうなったのか、理由がわかりません。
「……フルートか?」
気を失ったままのメールを抱いて、ゼンは上へ目を向けました――。