雨が降り出した海上に黒いシードッグが浮いていました。背中に乗っているのは三つ子の一人のザフです。雨にかすむ景色に目を凝らしています。
ザフが見ていたのは、行く手に現れた陸地でした。切り立った岸壁が海からそそり立っています。黒いシードッグが話しかけてきました。
「行き止まりじゃないか、ザフ? これ以上先には進めないように見えるぞ」
ザフのシードッグは名前をマーレと言いました。シィと同じように人のことばを話せます。
ザフが答えました。
「いいや、聞いたことがあるんだ。あれはひとつながりの陸地に見えるけれど、本当は二つの大陸が接近しているだけなんだよ。間に細い海峡があって、冷たい海まで通じているんだ。証拠に、海流はまっすぐあの大陸へ流れているじゃないか。行こう、マーレ。海峡を探そう」
「引き返した方がいいんじゃないのか、ザフ? 深入りは危険だぞ。偵察なら海の戦士たちがやっているだろう」
シードッグは友だちか兄弟のようにそんな忠告をしましたが、ザフは聞き入れませんでした。
「いいから行けよ。ぼくはあの能なしの腰抜けドワーフとは違うんだ。勇気と素早い行動が勝利につながるってことを、あいつに見せつけてやる」
結局ザフはゼンへの反感から単独行動に出ていたのでした。こんなザフに何を言っても無駄だと知っているマーレは、それ以上は何も言わずに海を進み出しました。水面のすぐ下を泳いでいきます。ザフは頭の上に移動して、海上から行く手を眺めました。
海流はどんどん速度を増し、壁のような大陸に向かって勢いよく流れていきます。それに逆らわずに行くと、やがて岩壁の間に細い隙間が見えてきました。フルートたちが作戦会議で話していたユード海峡です。海峡の入口では、海流が両岸にぶつかって白波を立てていました。
「かなり流れが急だな。こっちから向こうへ行くのは良くても、向こうからさかのぼってくるのは大変そうだぞ」
とザフはつぶやきました。一人で勇敢に敵地を探る英雄気分です。さらに海峡に近づきながら、両岸の様子を観察します。
切り立った崖の上は、海面から千メートル近い高さがありました。上が林になっていて、雨と風の中で松の木が大きく揺れています。そこから敵が海を見張っている様子はありません……。
すると、すぐそばで突然、少女の声がしました。
「あらぁ、誰よ、あんたたち? こんなところにシードッグだなんて珍しいなぁ!」
ザフとマーレは、ぎょっとしました。一人の人魚が海面から上半身を出してザフを見ていたのです。まだ少女の人魚です。長い銀髪をしていて、短い上着のようなものを着ています。
ザフは思わず叫びました。
「その恰好――おまえ、魔王の手下の人魚だな!?」
魔王が連れている人魚の話は聞いていたのです。
すると、人魚がまた、あら、と言いました。
「あたしのこと、知ってるんだ。そうだよ、あたしはいつもアムダ様のそばにいるの。シュアナって言うんだ。あんたは海の民でしょう? その髪の色と服を見ればわかるよ。こんなところで何をしてるの?」
返事があまりに明け透けで無邪気だったので、ザフは警戒するよりあきれてしまいました。顔や姿は綺麗ですが、まだまだ子どもっぽい表情の人魚です。
「ぼくは――渦王の軍勢の使者だよ。魔王に宛てた伝言を持っているんだ」
とザフはとっさに嘘を言いました。シードッグのマーレが驚いたように何か言いかけましたが、無視して話し続けます。
「魔王はどこにいるんだ? ぼくは、魔王に直接会って話を伝えなくちゃいけないんだ。君は魔王の居場所を知っているんだろう? 教えてくれよ」
大胆にも魔王のいるところを直接探りだそうとしたのです。
すると、人魚の少女は首をかしげました。
「アムダ様のいるところ? 冷たい海で一番大きな半島の、一番深い入江の、その一番奥にある岩屋の中だよ」
ザフは口を尖らせました。
「全然わからないよ。半島や入り江の名前は?」
「あたしたち人魚は、場所に名前なんかつけないもん」
と人魚は言い返しました。ちょっと怒ったように尻尾で水を跳ね飛ばします。
「アムダ様に会いたいならついてきなさいよ。案内してあげるから」
さすがにこれにはマーレが反対しようとしました。単独で魔王のところへ乗り込むなど、正気の沙汰ではありません。
すると、人魚が海に潜ってきました。シードッグの大きな頭をつかみ、耳許で言います。
「いいんだよ。あたしはアムダ様から言われてるんだもん。もし、アムダ様に会いたがるお客さんがいたら、いつでも岩屋に案内しろ、って。あんたも一緒においで」
ささやくような人魚の声には怪しい旋律があります。たちまちシードッグはうっとりとなって、半分目を閉じてしまいました。
「さ、行こう。アムダ様がいるのはこっちだよ」
シュアナはまた海上に頭を出して言いました。こっちこっち、早く――とザフに向かって呼びかけます。その声はやはり魔法の旋律を作りだしていました。歌うような響きが少年の心に絡みつきます。
銀髪の人魚に手招きされるまま、ザフとマーレは海峡に入り込み、冷たい海へと向かっていきました……。
ザフが次に正気に返ったのは、さほど広くもない、四角い岩屋の中でした。白っぽい岩壁や天井と、足下に広がる黒大理石の床が対照的ですが、部屋全体がほの暗い光に充ちているので、何もかもがぼんやりと輪郭を失っているように見えます。
その部屋の中央に、一人の青年が立っていました。黒い服を着て黒いマントをまとい、平凡そうな顔に丸眼鏡をかけています。体格も貧弱で、少年のザフより背が低くて痩せていました。その顔を、ザフはぼうっと眺めていました。まだ人魚の妖歌から完全に解放されていなかったのです。この青年が魔王なのだと気がつくこともできませんでした。
すると、岩屋の隅の水場から人魚が上がってきました。
「アムダ様ぁ、言われたとおり、シードッグを海底に鎖でつないできたよ。アムダ様の魔法の鎖だから、絶対外れないよね――。その子はどうするの?」
あたしがもらいたいなぁ、と輝く瞳で訴えられて、魔王の青年は苦笑しました。
「シュアナにあげるわけにはいかないな。これは大事な捕虜だからね。向こうが伝令を立ててきたら捕まえようと考えていたけれど、まさか本当に来るとは思わなかったよ。さっそくこの子の話を聞いてみよう」
アムダはザフに向き直ると、声をかけました。
「君、教えてもらおうか――。君の名前は? 渦王の軍の中での君の役割は?」
「ぼくはザフィーロ……みんなはザフって呼ぶ。でも、ぼくは渦王の兵士じゃない」
とザフが答えました。ぼんやりした顔つきなのに、答える声は流暢です。
アムダは不思議そうな顔をしました。
「渦王の兵じゃない? じゃ、君はいったい何者なんだい?」
「ぼくは海王の息子だ。兄上やクリスやペルラと一緒に参戦してるんだ」
「クリスとペルラ? それは誰だ?」
「ぼくと三つ子の兄妹だ。ぼくたちと兄上のアルバは、叔父上の渦王を助けるために、渦王の軍勢と一緒にいるんだ」
ザフは隠すこともなく話し続けていました。その目は相手の赤い瞳を見つめています。魔王の魔力に捉えられて、聞かれるまま、洗いざらい答えるようになっているのです。
青年は少しの間黙ってから、へえ、と言いました。
「海王の王子と王女か――そんな連中が金の石の勇者たちに協力していたとはね。どうりで手強かったはずだ」
「ぼくらの海の魔力は大したことはないよ……。すごいのは兄上さ。なにしろ次の海王だもの。クジラの怪物を倒したのも、鎧を着たサメを全滅させたのも、全部兄上だからね」
術にはまっているのに、ザフの声が得意そうな響きを帯びました。
青年はまた意外そうな顔をしました。
「海王の王子のしわざだったって言うのか? てっきりゼンが海の魔法を使っているんだと思ったのに」
「あいつは何もできないさ。魔法も何も使えない、ただの能なしだよ」
ザフの声が今度は尖ります。
魔王は真剣な表情に変わりました。
「それはどういうことだ? 渦王の力はゼンに受け渡されているんじゃないのか?」
「そんなの何かの間違いさ。あいつはただのドワーフだ。魔法の弓矢は持っているけど、それ以外にはなんの力もない凡人だよ」
ザフは深海でゼンが大イカを倒している場面を見ていませんでした。自信を持ってそう言い切ります。
「ほんとかな、アムダ様?」
とシュアナが驚くと、青年は渋い顔で腕組みしました。
「信じるしかないだろうな……。この子は今、何も隠し事ができなくなっている。彼が話すことはすべて本当だからな。しかし、ゼンが渦王の力を持っていないというのは意外だった。水蛇を呼び出したり、竜巻を起こしたりしたのは、彼だとばかり思っていたのに」
「水蛇を呼んだのは兄上だし、竜巻はぼくたち三人で起こしたんだ」
とザフが答えます。
青年は苦笑しました。
「なるほど、海王の王子や王女なら、確かに魔力も強いだろう……。しかし、これは困ったな。あてにしていた渦王の力をゼンが持っていないとしたら、どうやって世界を支配する力を得るか――」
青年は考え込みました。時々ずり落ちてくる眼鏡を指で何度も押し戻し、やがて、そうだ、と声を上げます。
「金の石の勇者の一行には、天空の国の魔法使いがいる。名前は確か、ポポロだったな。彼女もかなり優秀な魔法使いだ。彼女から魔力をいただくことにしよう」
以前オオカミ魔王やデビルドラゴンがポポロの魔力を奪おうとして失敗したことを、この魔王は知りません。すると、またザフが言いました。
「その子はいないよ。天空の国に帰っているんだ」
青年はまた何も言わなくなりました。眼鏡をかけた顔をゆっくりと上げ、組んだ腕をほどきます。
「いない――?」
と青年はザフに確かめました。
「渦王の軍勢の中に、ポポロはいないって言うのか――?」
ザフが正直にうなずきます。
すると、突然眼鏡の青年が笑い出しました。驚くシュアナに言います。
「連中を用心するあまり、慎重になりすぎていたよ! まさか、そんなに戦力的に弱かっただなんてね。もっと積極的に攻めてよかったんだ――! でもまあ、過ぎてしまったことはしかたがない。これから連中を攻め落とせばいいだけのことだ。ゼンは渦王の力を使えない。天空の国の魔法使いは同行していない。海王の王子や王女が魔法を使えても、恐れるほどのものじゃない。本当に恐れなくちゃいけないのは、金の石の勇者が持っている願い石だけだ。それならば手もある」
「ねえねえ、どうするの、アムダ様? もう教えてくれてもいいでしょう?」
とシュアナが尋ねました。興奮して、魚の尾で石の床を何度もたたいています。
「こちらの持ち駒は有効に使おう。なにしろ、捕虜はこっちの手の中にあるんだからな」
魔王の青年はそう言うと、血のような瞳を目の前の少年へ向けて、にんまりしました――。