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第13巻「海の王の戦い」

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9.岩屋

 「ちくしょう!」

 入江の奥の岩屋で、眼鏡をかけた小柄な青年が怒りの声を上げました。石造りの部屋の片隅で、机を激しくたたきます。

 部屋の別の隅には海の水が引き込んであって、短い岩の斜面になっていました。その途中まで上がっていた人魚が青年に尋ねます。

「どうしたの、アムダ様? 何か悪いこと?」

 ちょっと幼い、無邪気な声です。その髪は銀色で、短い上着のようなもので胸のあたりをおおっていました。

「渦王に海の力がない――! 海の魔力はこの男の中にはないんだ!」

 と青年は黒いマントをはね上げて目の前の男を指さしました。青い髪とひげの渦王ですが、立ちつくしたまま、身じろぎひとつしません。

 あらぁ、と人魚は言いました。

「そうだったの? でも、その人、本当に渦王だよ。あたし、嘘は言ってないもん」

 渦王の城に突然姿を現して、渦王がいたよ、と叫んだのはこの人魚です。

「わかっている」

 と魔王の青年は怒りの声で言い続けました。

「あのとき、渦王はそばにいたゼンという少年に、海の魔法を使えと言っていた。海の力はあの少年に渡されていたのに違いない。一杯食わされたんだ!」

 また机を激しくたたきます。

 

 そこは石の床と壁と天井に囲まれた四角い部屋でした。黒い扉と海の水を引き込んだ場所があるだけで、他に出口や窓はありません。家具もテーブルと椅子、部屋の片隅にベッドがあるだけの簡素さですが、代わりに部屋のいたるところに本がうずたかく積まれています。青年が暗号を解いてたどり着き、闇の竜と邂逅(かいこう)した場所でした。青年の前に、彫刻のように渦王が立っています。

 銀髪の人魚が尻尾をくねらせながら部屋へ這い上がってきました。紫の瞳をきらめかせて話しかけてきます。

「ねえ、それじゃ渦王はもういらないのね? あたしがもらってもいい?」

 青年は人魚を見ました。眼鏡の奥で眉をひそめます。

「シュアナがもらってどうするつもりだ?」

「海底のあたしの庭に持っていくのよ。あたしたち人魚は、気に入った人間を見つけたら海に引き込んで、家や庭に飾るんだ。普通の人間だとすぐに腐って骨になっちゃうんだけど、渦王ならきっと、ずっとこのままよね。渦王を飾ったら、あたしの庭はすごく素敵になるわ。友だちにも自慢できるもん」

 青年は苦笑しました。笑うと口の端から白い牙がのぞきます。

「それはだめだ。渦王から海の力は奪えなかったが、まだ利用価値はあるからな」

「あら、どんな?」

 銀の尻尾で石の床をたたきながら人魚は聞き返しました。ちょっと怒っているのです。

 青年は眼鏡の奥でにんまりと目を細めました。したたる血のように赤い瞳です。

「少し戦っただけで、金の石の勇者の性格はわかったよ。あの少年は必ず渦王を助けに来る。ゼンという少年もきっと一緒だ。ここで待っていれば、海の力が向こうからやって来るのさ。渦王はそのための餌なんだ」

 

 ふぅん、と人魚は言いました。まだちょっと不満そうな声です。

「じゃあさ、そういうのが全部終わったら、渦王をあたしにちょうだい。金の石の勇者やゼンって子も、殺したり力を奪ったりしたら、あとは用なしなんでしょう? それもほしいなぁ」

「総てが終わったらな」

 と魔王の青年は答えました。

「金の石の勇者さえいなくなれば、この世界はぼくのものだ。ぼくに逆らう存在は、人だろうがなんだろうが、一人残らず始末できる。シュアナの庭はそんな連中で飾りきれなくなるさ」

 人魚は完全に機嫌を直しました。うふふっ、と笑うと、また尻尾で床を鳴らして言います。

「ねえ、アムダ様、歌を歌ってあげようか? あたしたち人魚は歌がすごくうまいのよ。アムダ様を魂までとろけさせてあげるから」

 青年は今度は冷笑しました。

「子どものくせにぼくを誘惑する気か、シュアナ。セイレーンやハーピーたちと同様、人魚の歌声には魔力がある。聞き惚れれば海の底へ連れ去られる」

「人魚は嫌いな奴には歌わないよ」

 とシュアナは答えました。

「自分が好きな男にだけ、歌ってあげるんだ。アムダ様は、人間に捕まって売り飛ばされそうになってたあたしを助けてくれたもんね。あたしがいた村を人間ごとそっくり消滅させてさ――。あたし、アムダ様が大好きだよ。だから、歌ってあげたいんだ。子どもだなんて馬鹿にしないでよね。あたしの歌声は、仲間の中でもとびきり綺麗だって言われてるんだから。それを聴いたら、アムダ様だって、あたしのことを抱きしめたくなるよ」

 青年はさらに冷ややかに笑いました。

「魔王が人魚の魔力くらいでどうにかなることはないし、海の中に行っても死ぬことはないさ。だが、今はそんな話をしている時じゃない。金の石の勇者は、魔王や闇の竜に対して切り札を持っているから、うかつに手出しすることはできない。どうやったら金の石の勇者を倒せるか、ゼンから海の力を奪うか――考えなくちゃいけないことが山積みなんだ」

 青年は部屋の隅のベッドへ行くと、そこに腰を下ろしました。ページを開いたままになっていた本を取り上げて、続きを読み始めます。部屋中に積み上げられているのは、彼が魔王になってから魔力で集めた書物でした。世界中のさまざまな出来事について書かれています。その中に自分が求めるものの答えを探していきます――。

 

 シュアナはそんな青年を見つめ、やがて、口を開いて歌い出しました。この世のものとは思えないほど美しい歌声が流れ出して、青年にまとわりつきます。男であれば誰でも、駆け寄って歌い手を抱きしめたくなるような魅惑の旋律です。

 けれども、青年はまったく無関心でした。時々ずり落ちてくる眼鏡を指で押し上げながら、本に読みふけっています。

 シュアナはまた尻尾をぴしゃぴしゃ打ち鳴らすと、歌うのをやめました。口を尖らせて青年をにらみますが、やっぱり青年はこちらを向きません。

 あきらめた人魚は、身をくねらせて、さらに部屋の中へと進み、渦王のところまでやってきました。彫刻のように動かない男を珍しそうに眺め、服やマントの上から体に触ります。やがて、人魚の少女は、うふっと楽しそうに笑いました。夢見るような顔は、渦王を海底の自分の庭に飾った場面を想像しているのかもしれませんでした。

 

 日の光がささない岩屋の中には、ほの暗い光がどこからともなく湧いて、中にいる者たちを照らします。

 黒い扉の向こうから、かすかに海鳴りが聞こえていました……。

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