すると、皇太子の前に立った人物がいました。
フルートではありません。長い金髪の女性――セシルです。弟とオリバンの間をさえぎるようにして言います。
「やめるんだ、ハロルド……おまえはそんなことをする子じゃない」
黒い光の壁の奥で皇太子が笑いました。皮肉な声でこう答えます。
「いいえ、姉上。私はこういう人間です。了見が狭くて、誰のことも愛せない。これが私です。しかたないでしょう? 私には姉上しかいないのだから。きっと、みんな母上のせいです。それから、早くに亡くなった父上のせいだ。みんな、私たちのことなど、顧みてもくれなかったのだから」
違う、とセシルは答えました。すみれ色の瞳で、じっと弟を見つめながら言い続けます。
「おまえがそんなふうになったのは、私のせいだ……。私がいなければ、こんなふうにはならなかった。私がこの国の王の娘に生まれてきてしまったせいで、死んだり不幸になったりした人が大勢いた。おまえもその一人なのだ、ハロルド……」
セシルの口調は静かでした。弟を見るまなざしも優しさにあふれています。その目から大粒の涙がこぼれ始めます。
「私は、この国に必要ない人間だったのだ。王がいて、王妃がいて、皇太子がいる。正規の王族だけで充分事足りていたのに、私のような存在があったから、大勢が死に、最後にはメイに闇を引き込んでしまった……。もう充分だ。もうこれ以上、誰が死ぬところも見たくはない。私を殺せ、ハロルド。それで、この長い悲しい劇にようやく幕を引くことができる」
セシル! とフルートが声を上げ、馬鹿者! とオリバンがどなります。けれども、セシルはその場から動きません。目を閉じ、涙を流し続けます。
姉上……と皇太子がつぶやきました。掲げたその指先から、闇の光が消えていきます。
とたんに、闇の竜の声がまた響きました。
「王女ヲ殺セ! 皇太子ヲ奴ラニ渡スナ!」
たちまちセシルのかたわらに剣が現れました。セシルのレイピアです。見えない何かがセシルの腰から剣を引き抜き、彼女へ切っ先を向けたのです。
ワン! とポチがほえて駆け出しました。ロダの魔法を食らった体で、よろめきながらセシルへ駆け寄り、何もない場所へ食いつきます。
とたんに、部屋の隅でロダが声を上げました。剣を握っていたのはロダの分身でした。オリバンも駆け出し、空中の剣へ切りつけます。魔獣使いはまた大きな悲鳴を上げると、部屋の中から姿を消していきました。
オリバンはセシルを抱き寄せました。傷の痛みに脂汗を流しながら、それでも強く言います。
「死ぬべきだった、などと口にするな……! この世に、生まれてきてはならない人間などいない。誰もが、生きて、幸せになって良いのだ。それは、人ならば誰もが生まれながら持ってきた権利だ……!」
オリバン、とセシルは言い、そのまま、はらはらと涙をこぼしました。そんな彼女をオリバンはいっそう堅く抱きしめます。
そんな二人を皇太子は見つめ続けていました。
魔法を発動しようとした手が、ゆっくりと下りていきます。
どこか虚ろな声で、皇太子は言いました。
「姉上を守って差し上げたかった……。いつも私を大切にしてくれる姉上を、幸せにして差し上げたかった。だけど、私には力がない……。名ばかりの皇太子で、姉上を守ることも、助けることも、何一つできない。だから、闇の竜でもいいから力を借りたいと考えたけれど……」
「闇の竜の力で、セシルを助けることはできませんよ」
とフルートは言いました。
そうだ、と皇太子はつぶやくように答えました。
「闇の竜は姉上を殺してしまう。私では、姉上を助けられない……」
痩せた顔がうつむき、やがて、熱い涙が音を立てて布団に落ち始めました。
「私ではだめなんだ。私では姉上を守れない。私では――姉上を幸せにして差し上げられないんだ――!!」
ついに、皇太子は布団に突っ伏しました。声を上げて泣き出してしまいます。夜着を着た細い背中が、嗚咽に合わせて震えます。
すると、フルートが静かに言いました。
「ひとつだけ、あなたにもできることがありますよ、ハロルド王子。お姉さんの幸せを願ってあげること。それだけは、あなたにしかできないことだし……セシルにとっても、一番嬉しいことです」
皇太子は顔を上げました。まだ涙のあふれる目でフルートを見つめ、その後ろに立つ二人を見つめます。セシルはオリバンの腕の中から弟を見つめ返していました。すみれ色の瞳も、涙をとめどなく流しています。
皇太子は笑いました。
「だめですよ、姉上……。姉上は泣いちゃいけないんです。あなたは幸せになって……たくさん幸せになって、そして、たくさん笑わなくちゃ。姉上が幸せそうに笑ってくれるのが、私にも、一番幸せだから……」
ハロルド、とセシルは言いました。大柄な青年にしっかりと抱きしめられているその姿を、皇太子は泣き笑いで眺め、それから、フルートに言いました。
「聖なる石の光を、私に。闇の竜を私から追いだしてくれ」
フルートはうなずきました。金の石を皇太子に向けます。
すると、部屋中に声が響き渡りました。
「去ルモノカ! 我ハ悪、我ハ闇! 我ヲ消シ去ルコトハ不可能! 人ノ心ガ闇ヲ失ウコトハナイノダ!」
フルートはそれに言い返しました。
「人の心は確かに闇を持つ! だけど、闇に負けないための光だって、同じ心に持っているんだ! 立ち去れ、デビルドラゴン! 人がおまえを拒絶したら、おまえはそこにはもういられない!」
フルートの手の中で金の石が輝きました。強くまばゆい光で部屋中を充たします。信じられないほど大量の光です。
その光の中で、オリバンやセシルの体から傷が消えていきました。ポチからも魔法の余波の痛みが消え去ります。光が癒したのです。
押し寄せるような光の中で、皇太子は目を閉じ、こらえる顔をしていました。痩せた顔にみるみる血の気が通って、頬がバラ色に変わっていきます。
すると、その体から、大きな影が抜け出しました。長い蛇のような首を伸ばし、巨大な四枚の翼を広げて、部屋を揺るがせながら声を上げます。
「ろだ――ろだ――早クココヘ来イ! 我ヲ光カラ守ル器トナルノダ――!」
いつの間にか、魔獣使いのロダがまた部屋に戻ってきていました。人間のロダは金の光も平気です。口元を歪めるようにして笑いながら、こう言います。
「まったく、闇の竜も情けないものだな。まあ、闇だからこそ、光には弱いんだろうが――。来い、デビルドラゴン! 私の体をおまえに貸してやる!」
闇の竜の姿が揺らめき、黒い影の流れになって急降下してきました。吸い込まれるように、ロダの体の中に消えていきます――。
とたんに、ぐん、とロダの体が大きくなりました。
手の爪が鋭く伸び、口が裂け、口元から白い牙がのぞきます。瞳が血のように赤い色に変わります。
フルートの手の中で、金の石が急に明滅を始めました。シャラーン、シャララーン、シャララーン、とガラスの鈴を振るような音を響かせます。
一同は思わず後ずさりました。
ロダは、デビルドラゴンを受け入れて、彼らの目の前で魔王に変わったのでした。