黒い生き物が廊下で実体化しました。長い一本角を生やした、大きな猿です。人のように二本足で立っていますが、その両腕は人間より長く、手の先が地面に触れんばかりになっています。大きな赤い目をぎょろりと動かして、ホールに向かって歩き出します。
フルートの腕の中からポチとルルが飛び出しました。ワンワンワンワン……と激しく怪物に吠えかかります。
すると、白い鎧を着た女戦士が剣を抜いて言いました。
「逃げてください、隊長。あなたは今、武器を持っていません」
「タニラ!」
王女の声を背後に、女戦士も飛び出していきました。怪物に向かって切りかかっていきます。
危ない! とフルートは思わず叫びそうになりました。相手は闇の怪物です。普通の武器では対抗できません。
すると、オリバンがフルートの肩をつかんでささやきました。
「声を出すな。金の石も絶対に使うな。正体がばれるぞ」
フルートは、はっとすると、思わず自分の胸元を見ました。ペンダントはドレスの内側に隠してあります。
女戦士の剣が怪物を切り裂きました。血しぶきが飛び、ギャギャーッとすさまじい声が響きます。それを聞いて、ホールの人々は悲鳴を上げ、いっせいに逃げ出しました。ホールの出口のほうに怪物がいるので、大きく開け放たれた中庭へと駆け出します――。
けれども、王女は逃げませんでした。ホールの出口近くに立って、怪物と戦う部下を見つめます。女戦士は男にも匹敵するような体格の持ち主でした。太い腕で剣をふるうたびに、怪物の体に傷が走り、血しぶきが散ります。とても女とは思えない力強い太刀筋です。
そこへ屋敷の警備兵たちも駆けつけてきました。怪物に向かっていっせいに切りかかっていきます。
すると、怪物がいきなり高く飛び上がりました。天井に頭が触れるほど高い場所から、勢いよくまた下りてきて腕を振ります。何人もの警備兵が爪に引き裂かれて、悲鳴を上げながら倒れます。
再び怪物が飛び上がりました。今度は女戦士を引き裂こうとします。
「タニラ!」
と王女が思わず叫んだとたん、白い子犬が飛び上がりました。怪物の顔に激しくかみついていきます。ギャッと叫んで怪物がのけぞり、その隙に女戦士が身をかわします。
王女は歯ぎしりをしました。白いドレスをひるがえして駆け出し、負傷した警備兵の剣を拾い上げて切りつけます。一刀で怪物の腕が切り落とされます。
「隊長!?」
驚く女戦士に王女は言いました。
「敵に集中しろ! 来るぞ!」
怒って襲いかかってきた怪物に王女がまた剣をふるうと、もう一方の怪物の手も切り落とされました。本当に、かなりの剣の使い手です。
ところが、怪物の手がすぐに復活してきました。指先にまた黒い鋭い爪が伸びてきます。今度は女戦士が剣を突き出しました。体を刺し抜かれた怪物は悲鳴を上げて倒れ、また起き上がってきました。黒っぽい血を吹き出す傷が、目の前でふさがっていきます。
「闇の怪物だ。話には聞いていたが、これほどとは――」
と王女が青ざめて言いました。いくら切りつけて傷を負わせても、闇の怪物はすぐにまた復活してくるのです。
屋敷の警備兵がまた怪物に切りかかっていきました。屈強の男たちですが、たちまち怪物に引き裂かれて倒れてしまいます。
怪物が王女と女戦士に向かってきました。どれほど剣で防いでも、闇の怪物を倒すことができません。王女たちが押されて後ずさります。
と、王女がつまずきました。自分のドレスの裾を踏みつけてしまったのです。
「ち――!」
王女は思わず舌打ちしました。体勢を崩した王女に怪物が襲いかかってきます。
「隊長!」
女戦士が上官をかばおうとして、怪物に跳ね飛ばされました。王女も仰向けに倒れていきます。怪物の攻撃を防げません。
すると、剣を持った男が王女の前に飛び出してきました。正面から怪物に切りつけ、敵がひるんだ隙に剣をぶんと大きく横に振ります。とたんに怪物の首が切り落とされて転がりました。本当に、あっという間のことです。
床に尻餅をついた王女は、自分を救った男を驚いて見上げました。青い上衣に灰青色のマントの大きな青年――オリバンでした。
すると、オリバンは怪物の体を蹴飛ばして倒し、王女に向かってどなりました。
「闇の怪物はこれでも死なん! 頭を切り落として燃やすしかないのだ! 早く火と油を見つけろ!」
王女は即座に跳ね起き、ホールを見回して壁際の照明に目を止めました。南大陸からの舶来品で、台座の上に油の入った大きなポットが据えつけられ、ポットの口先で火が燃えています。王女はためらうことなく駆け寄ると、ポットを台座から外して抱えてきました。ふたを外し、倒れている怪物の体と頭の上に油をぶちまけます。
ところが、その拍子にポットの火が消えてしまいました。王女があわてて火を探している間に、怪物がまた動き出しました。切り落とした頭が、するすると体に近づいて、また首につながろうとします。オリバンが怪物の復活に備えて剣を構え直します。
そこへ燃える蝋燭を口にくわえたポチとルルがやって来ました。燭台からはずしてきたのです。油にまみれた怪物へ蝋燭を放り込むと、たちまち火の手が上がって怪物が燃え出しました。切り落とされた頭が、炎の中で絶叫します。
オリバンはすぐに屋敷の警備兵へどなりました。
「消火の準備をしろ! 火が屋敷に燃え移ったら火事になるぞ!」
警備兵たちは飛び上がり、水や火を消す道具を取りに廊下へ飛び出していきました。
王女は床から起き上がってきた部下に駆け寄りました。
「大丈夫か、タニラ?」
「なんとか……。ご無事でなによりでした、隊長」
と女戦士が答えます。負傷したのか、浅黒い顔をしかめ、たくましい腕をもう一方の腕で抱えていますが、それでも起き上がってきます。
王女は、ほっとすると、改めてオリバンを見ました。
「おまえは闇の敵と戦い慣れているのだな――。助かった。さっきはぶったりしてすまなかったな」
と素直に感謝と謝罪を口にします。
「いや。こちらこそ失礼なことを言った」
とオリバンが答えます。相変わらずぶっきらぼうな口調ですが、その中にも潔さが漂います。オリバンを見上げていた王女は、なんとなく顔を赤らめました。
けれども、そんなことには気づかずに、オリバンは言い続けました。
「あんな怪物はよく姿を現すのか? 祝宴を襲うとは物騒だな。危なく大惨事になるところだ」
「いや。ジュカにあんな怪物が姿を現したという話は、これまで聞いたことがない。いったいどこから来たのか」
王女は厳しい表情になっていました。いったいどこから、と言いながらも、見当がついているような感じです――。
「アルバート」
とフルートがオリバンに駆け寄ってきました。逆に王女はオリバンから離れ、部下のタニラと一緒に主賓のグェン公のところへ向かいました。グェン公は他の客たちと一緒に中庭に避難していましたが、オリバンたちが怪物を倒し、さらにホールの中央で火の手が上がっているのを見て、あわてて戻ってきたところでした。
「すまなかったな、グェン公。貴公の自慢の屋敷の床を焦がしてしまった」
と王女に言われて、公は頭を振りました。
「い、いえ、王女様――皆をお守りくださって、まことにありがとうございました――」
どんなに王女を嫌っていても、さすがにこの状況では感謝するしかなかったのです。怪物は燃え尽き、火も警備兵や召使いの手で消し止められようとしていました。招待客たちもこわごわホールに戻り始めます。
フルートはオリバンに低い声で話しかけました。
「どうして闇の怪物が現れたんでしょう? 私たちは金の石の守りの中にいたのに」
「わからん」
とオリバンは答えて、ホールから廊下へと出て行きました。怪物はどこかから送り込まれてきたように見えたので、その痕跡が残っていないか調べに行ったのです。
フルートは、焼け焦げて炭になった怪物を振り向きました。本当にどこから現れたんだろう、と考え込みます。もし自分を狙って現れたのであれば、これ以上周囲を巻き込まないために、早くこの地を離れなくては、とも考えます。
その時、また大きな悲鳴が上がりました。ホールに戻ってきた客たちが、いっせいに叫んだのです。
話をする王女とグェン公のすぐ目の前に、別の怪物が姿を現していました。やはり長い角を生やした大猿です。驚いて立ちすくむ王女と公を爪で引き裂こうとします。
「隊長!」
女戦士のタニラが飛び出して、剣で爪を受け止めました。先の怪物との戦いで負傷した腕で、必死に剣を支えます。
その間に人々はまた蜘蛛の子を散らすように逃げ出しました。中庭は建物に囲まれていて、直接外に出ることができません。ホールの出口から逃げ出す者も大勢います。
廊下にいたオリバンは人波に押し流されそうになりました。必死で人々をかき分けてホールに戻ろうとします。ポチとルルもやはり逃げる人々に巻き込まれ、踏みつぶされそうになってキャンキャン吠えています。
すると、タニラの剣が音を立てて折れました。怪物に力負けしたのです。続いて振り下ろされてきた怪物の手が、彼女を床にたたき伏せました。ガシャンと激しい音がして、女戦士が動かなくなります。
「タニラ!!」
王女が叫びました。その声に怪物がぎょろりと赤い目を向けてきます。王女は思わず後ずさりました。油のポットを運ぶ際に、剣を手放してしまっていたのです。戦う武器がありません。
腰を抜かしたグェン公が這いながら逃げだそうとしていました。怪物は公には目もくれません。ただ王女を見据え、ふいに笑うような声を上げました。ギィキキキィィ、と耳障りな音が響き渡ります。
うなりをたてて怪物が腕を振り上げました。王女は立ちすくみ、思わず目を閉じてしまいました。振り下ろされてくる鋭い爪が、閉じた目にも見える気がします――。
すると、そんな王女の前に人が飛び込んできました。どん、と背中で王女を突き飛ばします。
王女は驚いて目を開けました。またあの青年が助けに来たのかと考えたのです。
ところが、それはもっと小柄な人物でした。王女より背が低いくらいです。結って垂らした長い金髪が揺れています。
王女は呆気にとられました。
怪物に襲われた王女の前で剣を構え、怪物の攻撃をがっしりと受け止めていたのは、青いドレスを着て灰青色のケープをまとった、美しい貴婦人でした――。