「奥様――シースー夫人!」
広間の離れた場所から老婦人を呼ぶ人たちがいました。美しく着飾った年配の貴婦人たちです。手にした羽根扇子を振って、こちらへいらっしゃい、と招いています。
シースー夫人はちょっと顔を曇らせると、フルートにささやきました。
「社交界で一番口うるさい方々のお呼びだわ。私は行かなくては。あの方たちの本当の目的は、あなたの品定めよ、オリビア。あなたはこのまま残っていらっしゃい。ここの方たちのほうがまだ安全だわ」
奥様ぁ! とまた年配の夫人たちが呼びました。高く結い上げた髪をクジャクの羽やら宝石やらで飾り立て、一目で金をかけたとわかる豪華なドレスをまとった人々です。高慢そうな顔は、今からもう見定めるようにフルートを眺めています。フルートは黙ってうなずき、シースー夫人は足早に呼ばれたほうへ行きました。若い者は若い者同士のほうがよろしいですから……と老婦人が弁解するように話す声が聞こえてきます。
保護者の夫人がいなくなって、フルートの取り巻きたちはがぜん張り切り出しました。この絶世の美女となんとか親しくなろうと、前より熱心に話しかけてきます。フルートは思わず溜息をつきそうになって、あわててそれを呑み込みました。自分は声を出すことができません。この状況で、どうやって王室や王女の情報をつかもう、と考えあぐねてしまいます。
すると、ホールに一人の貴族が姿を現しました。客は皆、屋敷の入り口からやってきますが、この人物はホールの奥の階段から姿を現しました。上等の服を着た背の高い男で、青年と壮年のちょうど中間くらいの年代です。祝宴の様子を階段の途中から見渡し、たちまちフルートを見つけて目を輝かせました。
「ほほう、この近辺の美女は全部確かめたつもりだったが、まだこんな掘り出し物があったとはな。どれ――」
いかにも女好きらしいひとりごとを言いながら階段を下り、人を押しのけるようにしてフルートのほうへ向かいます。フルートの取り巻きたちは、急に男が割り込んできたので、むっとしましたが、男の顔を見ると黙ってしまいました。男がフルートの前でうやうやしくお辞儀をします。
「これはこれは、お美しい方。初めてお目にかかります。私はこの屋敷に住むチャーリー・グェンと申します。本日は両親の記念の宴においでくださって、本当にありがとうございます」
男は主賓のグェン公の跡継ぎだったのです。フルートの手を取ると、手袋の上からキスをします。取り巻きの男性たちがいくら熱心でも、ここまでした者はいなかったので、フルートはびっくりしてしまいました。背筋に虫酸(むしず)が走ったのを、懸命にこらえます。
すると、取り巻きの男性たちが文句を言い始めました。
「よさないか、チャーリー。オリビア嬢が驚いてらっしゃるぞ」
「君には妻子があるじゃないか。それなのに、他所の女性に手を出すつもりか?」
「手を出すだって? ひどい言い方だな。まるでぼくがとんでもない女たらしみたいじゃないか」
と公爵の御曹司は心外そうに言って、大げさにフルートに両手を広げて見せました。
「皆が言っていることは冗談ですからね。ぼくはそんな軽薄な男じゃない。オリビア嬢とおっしゃるのですか? ぼくの屋敷をご案内しましょう。今、中庭では白桜が綺麗に咲いているところです。他にも、夜に咲く美しい花があちこちにあります。それをお見せしましょう。さあ、どうぞ――」
フルートは何とも返事をしていないのに、フルートの手を取ったまま、ホールの外へ連れ出そうとします。取り巻きたちが口々に反論したり引き止めたりするのですが、まるでおかまいなしです。フルートが返事をできないでいるのをいいことに、強引に連れていこうとします。
フルートは困りました。いいえ、けっこうです、と言えば、誘いを断ることができるかもしれません。けれども、ことばを口にしてしまえば、男の声を聞かれることになります。さっき取り巻きたちがいっせいに騒いだ様子を思い出すと、今度こそ本物の男とばれそうな気がして、声を出すことができませんでした。
とまどい、なんとか踏みとどまろうとするフルートの様子に、取り巻きたちがまた口々に屋敷の御曹司に言いました。
「よせ、チャーリー。嫌がっていらっしゃるじゃないか」
「その方には婚約者がいるんだぞ」
「そうよ。とても素敵な方なの。あなたなんて、とてもかなわないことよ」
「へえ、婚約者? そんな素敵な人物が、いったいどこに?」
笑いながら答えていた御曹司が、どん、と誰かにぶつかりました。行く手に人が立っていたのです。御曹司は口を尖らせて向き直りました。
「失礼だな! 何をぼんやりして――」
言いかけて、御曹司は途中で声を呑みました。見上げるように大きな人物が立っていたからです。長身の御曹司よりさらに背が高く、比べものにならないほど立派な体格をしています。
思わず後ずさった御曹司のかたわらで、美しい貴婦人が歓声を上げました。
「アルバート!」
その声が男のように低くかすれていても、御曹司はそれに驚いている暇がありませんでした。連れ出そうとしていた貴婦人が手を振り切って駆け出し、青年がそれを抱き寄せるのを見て顔色を変えます。これが噂の婚約者なのだと気がついたのです。
「失礼。連れが世話になったようだな」
と青年が言いました。口調はぶっきらぼうですが、相手に有無を言わせない迫力があります。御曹司はさらに何も言えなくなって、青い顔で何度もうなずきました。まるで壊れた首振り人形のようです。
そんな御曹司を尻目に、青年は貴婦人の肩を抱いてホールの中央へ行きました。ちょうど曲が終わって、次の踊りの曲が始まるところでした。青年は貴婦人に一礼してからその手を取りました。曲に合わせて、二人滑るように踊り出します。男性が女性をターンさせると、貴婦人の青いドレスと青年の青灰色のマントがひるがえって曲線を描きます。その美しさに、見ている人々の間から、ほうっと溜息が漏れます……。
「助かりました、アルバート。あの人、しつこくて」
とフルートは踊りながらオリバンに言いました。やっと相手に聞こえる程度の小声ですが、用心して偽名で呼んでいます。オリバンは、ロムドの重臣のゴーリスの名前を拝借しているのです。
「何か話は聞けたか?」
とオリバンが尋ねました。曲に合わせて、またフルートをターンさせます。金の髪が大きくひるがえり、ドレスがまた青い螺旋(らせん)を描きます。
「あまり。ただ、エミリア王女の話は少し聞きました。あまりみんなから好かれていない方みたいですね」
とフルートは答え、オリバンの腕の中にすっぽりと収まりました。曲が静かな調子に変わったのです。オリバンに抱かれて、今度は揺れるように踊り始めます。見る人々から、またいっせいに溜息が起きます。
「王女の噂は私も聞いた」
とオリバンは答えました。
「どうもメイ女王とは仲がよくないような話だ。しかも、メイの皇太子が重病らしい。今回のメイ王宮の不審な動きは、このあたりが原因かもしれんな」
「王女はここに来るでしょうか?」
とフルートは言いました。祝宴の会場に、まだメイの王女は姿を現していません。ホールには、同じように踊る男女と、それを眺める大勢の客たちがいるだけです。その大半がフルートとオリバンの踊る姿に見とれているのだとは、彼ら自身はまったく気づいていません。
すると、入り口から急に接待係の声が響きました。
「メイの王女、エミリア・ガダ・ルフィニ様のご到着です――!」
とたんに会場中の人々がそちらを振り向きました。全員がいっせいに嫌悪の表情を浮かべます。王女を招待したはずのグェン公と奥方さえ、ひどく迷惑そうな顔をしていました。
けれども、ホールに最初に姿を現したのは王女ではありませんでした。白い鎧を身につけた若い女性です。会場中を鋭い視線で見渡し、怪しい者がいないのを確かめてから、入り口に向かってひざまずきます。
「おいでください、王女様。危険はないようです」
フルートとオリバンは驚いてそれを眺めました。白い鎧を着た女性の姿に、ナージャの森で出会った女騎士を思いだしたのです。
けれども、それは別人でした。白い鎧はそっくりですが、こちらの女性は金髪ではなく黒髪で、それを短く刈り上げています。体格も、ずっと大柄でたくましくて、なんだか男性を見ているようです。南大陸のほうの血をひいた、浅黒い肌をしています。
会場の安全をあからさまに疑われて、主賓のグェン公が嫌な顔をしました。客たちも、華やかな席に無粋な戦姿で現れた女性をにらみつけますが、女戦士のほうはまるで気にしません。入り口に向かってうやうやしく頭を下げます。
そこから一人の女性が入ってきました。長い金髪を結い上げ、白いドレスをまとった、とても美しい女性です。
それを見たとたん、フルートは思わず踊るのを忘れてオリバンに言いました。
「アルバート、あれ……!」
オリバンも同じように驚いてそれを見ていました。
祝宴会場に護衛を引き連れて姿を現したメイの王女。それこそが、ナージャの森で出会った、あの白い鎧兜の女騎士だったのでした――。