「勇者フルートの冒険」シリーズのタイトルロゴ

第11巻「赤いドワーフの戦い」

前のページ

44.石と人間

 「母ちゃん……」

 遠慮しながら呼びかけた子どもに、母親は振り向きもせずに手を振りました。

「ああ、うるさいね! あっちへ行ってなったら! 仕事の邪魔をするんじゃないよ!」

 母親は子どもに背中を向けたまま、針を動かしていました。その目の前には山のような断ち生地があります。それを縫い合わせて服を仕立てるのが仕事なのですが、そこにある生地を全部縫い合わせても、手間賃はいくらにもなりません。母と子のその日の食べ物を買えば、それでもう稼ぎは消えてしまいます。

 母親は必死で手を動かしていました。やつれた顔に化粧っ気はなく、髪は後ろで一つに束ねただけです。夫が生きていた頃は誰からも誉められた金髪ですが、今はもうすっかり艶をなくして白っぽくなっていました――。

 母ちゃん、ともう一度呼びかけようとして、子どもはうつむきました。子どもは言おうとしたのです。あのね、母ちゃん、俺、今日学校で誉められたんだよ。友だちが誰も解けなかった問題を、俺が解いたんだ。すばらしい、って先生からいっぱい誉められたし、友だちも感心してくれたんだよ……。

 でも、そんな話をしても、母親が喜んでくれないのはわかっていました。母親は毎日仕事に必死です。自分たちが生きていく金を稼ぎ、この苦しい生活から少しでも早く抜け出そうと、朝早くから夜遅くまで働き通しなのです。いつも疲れ切っている母親は、子どもの話になど耳を傾けようとはしません。うるさい、あっちへ行ってな、といつも邪険に追い払うのです。

 子どもは悲しくなりました。この家には母親と自分が二人で暮らしています。でも、なんだか家には本当は母親しかいなくて、子どもの自分は透明人間になっているような気がしてくるのです。一日中、母親の目が振り向いて自分を見ることはありません。このまま自分が本当に消えてしまっても、母親は全然気づかずに仕事をし続けるんじゃないだろうか、とさえ考えます。

 ますます悲しくなった子どもの目から、しずくがこぼれ落ちて、頬を濡らしていきました。ひどく冷たく感じる涙です。けれども、声を出さずに泣いている子どもに、忙しい母親が気づくはずはありませんでした――。

 

 そこへ、ぽとり、と音を立てて子どもの足下に何かが落ちてきました。小石です。まるで空をそのまま固めたような、鮮やかな青い色をしています。子どもは驚いて上を見ましたが、部屋の天井があるだけで、小石が落ちてくるような場所は見当たりませんでした。

 すると、誰かが言いました。

「ぼくをお母さんに渡してごらん――」

 子どもはまた驚いて石を見ました。声は確かに足下の青い石から聞こえてきたのです。不思議な色合いの石でした。空の色にそっくりですが、もっと透き通っています。見ているだけで、なんだか胸の中が暖かくなる気がします。

 石を拾い上げた子どもは、母ちゃんにこれをあげたいな、と考えました。石に言われたからではありません。母親にこの綺麗な石を見せてあげたくなったのです。だって、母ちゃんはいつも俺たちのために一生懸命働いてくれているんだもん……。

 子どもは石をそっと母親の作業台の隅に置きました。断ち布の山のわきで、石が青く美しく光ります。

 おや、と母親は針を持つ手を止めました。さすがにこの石には心惹かれて、思わず手を伸ばします。針と布を握りすぎて荒れた母親の指の間で、石が優しくきらめきます。

 すると、石が突然崩れ始めました。青い輝きになって、小さな渦を巻きながら消えていきます。

 驚いた母親は思わず子どもを振り向きました。子どもも石が消えていく様子に目を丸くしていました。

「今のは?」

 と尋ねる母親の声が怒っているように聞こえて、子どもはしどろもどろになりました。

「お、俺、母ちゃんに見せたくって……その、綺麗な石だったから、か、母ちゃん、見たら喜ぶかなって……だけど……」

 こんなに簡単に消える石なんてあるんだろうか、と子どもは考えていました。なんだか夢でも見ていたような気がします。母親を驚かせて怒らせるだけなら、やるんじゃなかった、とも考えます。

 ところが、母親は怒りませんでした。子どもを見ながら、そう、と言います。

「母ちゃんを喜ばせようとしてくれたんだ。そんな優しいことをしてくれるようになったんだね……。ありがとう、嬉しいよ」

 母親は消えた石を子どもの手品か何かだと思ったようでした。子どもを引き寄せて、腕と胸の中に抱きしめます。子どもはびっくりしました。嬉しいより先に、とまどってしまいます。すると、母親がまた言いました。

「こんなふうに抱くのは久しぶりだね。いつの間にか大きくなって。だんだん父さんにも似てきたよねぇ」

 母ちゃん、と子どもは言いました。母親は、父親が生きていた頃のような優しい声をしていました。涙が、どっとあふれてきます。すると、母親は笑い出しました。

「おやおや。やっぱりまだ子どもかねぇ。泣き虫は相変わらずだこと」

 といっそう優しく子どもを抱きしめてくれます。子どもは泣き続けました。それはもう、ひとりぼっちで流す冷たい涙ではありませんでした――。

 

 ポチは、時の鏡にそんな場面を眺めながら、これが優しの石なんだ……と考えていました。純粋な優しさが結晶になってできた魔石です。

 それは、以前ラトムが言っていたとおり、とてもはかなくて優しい石でした。石に触れた人を優しい気持ちに変え、幸せにして消えていってしまうのです。

 鏡の中で母子が笑っていました。見る者の心まで暖かくするような、幸せそうな笑顔です。

 けれども、ポチは背筋の毛を逆立てていました。ポチには、ぼくをお母さんに渡してごらん、と子どもに話しかけた優しの石の声が聞こえました。その声が、なんだか、とてもよく知っている誰かの声に似ている気がしたのです。まさか――と思いますが、怖くてそれをことばに出すことができません。

 思わず探した視線の先では、金の鎧兜の少年が、熱心に時の鏡を見て回っていました……。

 

 ポポロも時の鏡の間をとても真剣に探し回っていました。鏡の中に、化石の木の根のような時の翁の姿を見つけようとします。

 時の翁は、願い石を守る間、ジタン山脈全体を恐怖の結界で包んでいました。非常に広範囲な魔法です。天空の国の魔法使いでも、大勢が力を合わせなければできないような強力な魔法で、さすがのポポロにも一人で真似することはできませんでした。

 時の翁はきっと強力な呪文を知っているんだわ、とポポロは考えました。その呪文を聞くことができれば、ポポロにだって同じ魔法が使えるかもしれないのです。なんとしても、翁がジタンに魔法をかける瞬間を、鏡の中から見つけなければなりませんでした。

 ところが、こんなにたくさん鏡があるのに、時の翁の姿を映す鏡がありませんでした。数え切れない人々が過去の場面と一緒に映し出されているのに、その中に翁の姿が見当たりません。どこにいるのかしら、とポポロは焦りながら探し続けました。なんだか泣きたくなってきますが、それでは鏡が見えなくなるので、必死で涙をこらえます。

 

 すると、少し先で願い石の精霊が一枚の鏡を見つめていました。精霊の女性がまとうドレスは燃える炎の色で、触れれば本当に火傷をしそうに見えます。ポポロは怖くなって尻込みしました。精霊を避けて別の鏡の方へ行こうとします。

 その時、精霊の前の鏡にもつれたひげと髪が見えました。時の翁です。ポポロは飛び上がると、自分でも気がつかないうちに鏡へ駆けつけていました。精霊の隣からのぞき込みます。

 鏡に映る時の翁は、黒大理石の床に座り込んで鏡を作っていました。伸びきったひげや髪は、老人の全身をおおってしまっているので、座り込んだ老人の姿は古びた木の根の塊のようにしか見えません。ひげや髪には長年の垢や汚れが固まっていて、見るからに汚らしい老人です。

 ところが、そんな老人が作り出す鏡は、信じられないほど美しいものでした。枯れた枝のような老人の手が、銀の縁取りに精巧な彫刻を施していきます。時の鏡は、そんなふうに一つずつ時の翁が手作りしたものなのです。一枚として他と同じ鏡はありません。

 そして、そのかたわらに、願い石の精霊が立っていました。何も言いません。ただ、鏡を作る老人の手元をいつまでも見つめ続けています――。

 すると、ポポロと一緒にその光景を見ていた本物の精霊が言いました。

「私と時の翁は、ああやって長い時間を過ごしているのだ。翁が魔法で追い払うので、私の元へ願いをかなえてもらいにくる者は少ない。私の持ち主が現れるまで、時には千年もの間、待ち続けることさえある。その間、翁は時の鏡を作り続ける。私はそれを眺め続ける。翁が岩屋に鏡を立てれば、私はそれをのぞく。私たちは来る日も来る日もそれを続けて、覚えていることもできないほど長い時間を、共に過ごしてきたのだ」

 ポポロは思わず願い石の精霊を見ました。なんとなくですが、その声に、懐かしがるような響きを聞いた気がしたのです。精霊の女性は、じっと鏡の中の老人を見つめ続けています。

 

 ポポロはかなり長い間ためらってから精霊に尋ねてみました。

「淋しくないの? ずっと二人きりで……」

 すると、精霊の女性がポポロを見ました。不思議そうに聞き返します。

「淋しいというのはどういうものだ? 私にはわからない」

 ポポロは真っ赤になって口をつぐみました。相手は魔石の精霊で、人とは心のありようが違うのだということを、改めて思い出したのです。

 すると、精霊は少し考えてから、こう続けました。

「淋しいというのはわからないが、つまらないとは思う。こうして岩屋に来ても、もう時の翁はいないのだからな。私が消えて、再びこの世に生まれてこなければ、翁にまた会うことはできないのだ」

 ポポロは目を丸くしました。精霊は本当に鏡の中に見たいものがあったんだわ、とふいに気がついたのです。それは、石の木の根のような老人の姿に違いありませんでした。

 

 ポポロはまた少しためらってから、思い切って質問してみました。

「あなたは人の願いをかなえると消えて、また生まれてくるけれど……もし、その人が最後まで願いを言わずに死んでしまったら、あなたはどうなるの? やっぱり生まれ直してくるの……?」

「そうだ」

 と精霊は答えました。

「私の元へ数人が集団でたどり着いたことがある。その中の一人が私の持ち主になり、妬まれた仲間たちから殺されてしまった。願いを口にする間もなく、一瞬で何本もの剣に刺し殺されたのだ。その時にも、私は死んだ者の中から消えて、また別の場所に生まれてきた。翁はすぐに追ってきて、私の回りに結界を張って新しい岩屋を作った」

 願いをかなえたい人間の欲望のすさまじさに、ポポロは思わず声を失いました。青ざめて両手を頬に押し当て、やがて、ようやくこう言います。

「あなたは、そんな場面ばかり見てきているのね、願い石……。願いをかなえてもらった人がどんな結末をたどるか、前に時の翁から教えてもらったわ。そんな悲しい場面や怖い場面を、あなたは今までたくさん見てきたのね……」

「私には人を破滅させるつもりなどない。ただ役目に従って、人が持つかなわぬ願いをかなえているだけだ。人のほうで、その力に耐えきれなくて破滅していってしまうのだ」

 精霊の声は冷ややかなほどに冷静です。けれども、鏡の中に老人の姿を見ると、その口調がほんの少しだけ変わりました。

「だが、人が破滅する姿は、私が見ていても決して楽しいものではない。翁が魔法と岩屋で私を隠していなければ、私はそういうものをもっと数多く見てきたのだろうな――」

 淋しさがわからない、と言っていた精霊の声が、何故だか淋しそうに揺れた気がして、ポポロは精霊を見つめ返してしまいました。 精霊の女性は、鏡の中の老人と自分の姿を、変わらない表情でずっと眺め続けています……。

 

 その時、ワンワンワン、と犬のほえる声が岩屋に響きました。

「見つけたわ、みんな! 時の翁がジタンに結界を張った時の鏡よ!」

 一枚の鏡の前でルルがそう叫んでいました――。

素材提供素材サイト「スターダスト」へのリンク