舟から水に落ちたのは女の子でした。まだ三つかそこらくらいの、本当に幼い子です。助け上げたメールの腕の中でずぶ濡れになって、ぐったりとしていました。その顔色は真っ白です。
「すぐ水面に出してやったのにさ！ 息してないんだよ、この子！」
とメールが泣きそうになりながら言い続けます。
「ワン、水が冷たかったせいだ」
とポチが言います。目の前に広がるのは雪解け水で、水温は零度に近かったのです。女の子を抱くメール自身も、唇を紫色にして震えています。
フルートは首から鎖を外しながら駆け寄りました。鎧の胸当てからペンダントを引き出し、真ん中にはめ込まれた金の石を女の子に押し当てます。他の全員が周囲に集まり、祈るような気持ちで見守ります。
すると、突然女の子がメールの腕の中で身動きしました。けほっ、けほんと咳き込み、鋭く息を吸い込んでから、うわぁぁん……と大声で泣き出します。フルートの持つ金の石には癒しの魔力があります。息を吹き返したのです。
メールはその場にへたり込んでしまいました。
「良かったぁ」
と女の子を抱きしめます。
その背中にメールのコートを投げかけて、ゼンが言いました。
「フルート、火だ！ 早く暖めないと二人ともやばいぞ！」
春とはいえ、吹く風はまだ身を切るような冷たさです。雪解け水に冷え切ったメールと女の子は、コートをはおっても激しく震え続けています。
フルートは即座にゼンと駆け出しました。ゼンが岸辺の木に飛びついて、太い枝を素手で折り取ると、フルートが背中から黒い剣を抜いて振り下ろします。とたんに、剣の切っ先から火の玉が飛び出して枝に炸裂しました。木の枝が勢いよく燃え出します。
「早くこっちへ！ 暖まるのよ！」
とルルがメールと女の子を火の方へ引っ張ります。
女の子はまだ泣き続けていました。声が寒さに大きく震えていましたが、次第に澄んだ泣き声に変わり、やがて、ひっく、ひっくとしゃくり上げながら泣きやんでいきます。その頃には、メールの体も震えが止まっていました。ごうごうと音を立てて燃える炎に、濡れた服や髪から湯気が立ち始めます。
ふうっとメールが大きく息をしました。
「ああ、生き返ったぁ。あんなに冷たい水は初めてさ。泳いでいるだけで手足がしびれて動かなくなってくるんだもん。どうなるかと思っちゃったよ」
「ワン。メールの生まれ育った島は暖かい南の海にありましたからね」
とポチが言います。
そこへ岸辺に舟がやってきました。引っかかっていた柵からようやく抜け出してきたのです。何人もの大人たちが水を跳ね飛ばしながら駆け寄ってきます。
「ありがとう、君たち！」
「娘を助けてくれてありがとう！」
「ありがとう、ありがとう――！」
笑顔で口々に言います。
女の子は母親の腕に抱かれて、また泣き出しました。今度は甘えた泣き声です。舟に乗っていたのは、その子の家族でした。少年少女たちに向かって、何度も何度も礼を言います。皆、メールの泳ぎが非常に巧みだったことに驚いていましたが、フルートが金の石で癒したり、魔法の剣で火を起こしたことには気づいていませんでした。岸辺まで距離があったので、そこまでは見えなかったのです。フルートたちも何も言いませんでした。言えば、自分たちが金の石の勇者だと気づかれてしまうからです……。
女の子の父親が言いました。
「君たちはこのあたりの子どもじゃないね。どこから来たの？ どこへ行くところ？ お礼をしたいから、良かったらうちに泊まってくれないかな？」
フルートたちは顔を見合わせました。大水に阻まれて途方に暮れていたところです。とてもありがたい申し出でしたが、それこそ、洪水の最中だということが気になりました。
「おことばは嬉しいですけど、こんな大変なときではご迷惑になりますから――」
とフルートが丁寧に断ると、舟の大人たちは、大変なとき？ といっせいに不思議そうな顔になり、すぐに笑い出しました。
「ああ、この水のこと？ 心配はいらないよ。毎年、この時期には決まってミコン山脈の雪解け水が麓にあふれるのさ。水は静かに増えていって、やがて川を越えてこんなふうに一帯を水浸しにするんだけどね、これは春の到来を告げる大水だから、ぼくらは歓迎しているんだよ。この水が引けば、このあたりも本格的な春になるのさ」
と女の子の父親が話すと、祖父も言いました。
「水が引くまでは、こうして舟で隣の家や店まで出かけるんじゃよ。春の大水に備えて、どの家にも必ずこういう舟が準備してあるんじゃ」
へぇ、とフルートたちは感心しました。改めて、湖のように広がる水面を眺めます。
ミコン山脈から流れてくる雪解け水は、川からあふれて畑や牧場に流れ込み、地表に残っていた雪や氷を一気に溶かして消し去ります。そうして、静かに一帯を水底に沈めた後、水はまた川へ戻り、潤った大地が春の日差しを浴びて、いっせいに緑に芽吹くのでした。
すると、女の子の母親が笑顔で口を開きました。
「それこそ、明日は町の春開きのお祭りだわ。その格好をしているからには、あなたたちも参加しに来たのでしょう？ 町の宿屋はもう泊まり客で満杯だから、ぜひうちに泊まっていらっしゃいな。金の石の勇者さんたち」
フルートたちは、どきりとしました。ためらいもなく彼らを「金の石の勇者たち」と呼んだ女性を見つめてしまいます。めったにないことです。
そんな様子に、母親は意外そうな顔になりました。
「あら、違った？ 金の鎧兜を着て剣を背負っているし、こっちの子は魔法使いみたいな黒い服や人魚みたいな服を着ているから、てっきり勇者の一行をやっているんだと思ったんだけど」
彼らがますます返事をできずにいると、今度は女の子の祖母が言いました。
「おやまぁ――もしかして、あなたたち、金の石の勇者を知らないんじゃないの？ エスタ国の若い英雄でねぇ、ちょうど坊やみたいに金の鎧兜を着て、魔法の剣を背負っているのよ。もちろん、もっと大人の勇者だけれどね。お供に女魔法使いと人魚と小人、それに二頭の白いライオンを連れていて、闇の怪物たちを次々に倒してこの世界を守っているのよ」
そいつは違うぞ！ とゼンはどなろうとして、たちまちメールにつねられました。フルートの方は困惑しました。ここはロムドから山脈一つ隔てた異国サータマンです。金の石の勇者の噂は、山脈を迂回して長い距離を伝わる間に変形して、似て非なる勇者像を作り上げていたのでした。
女の子の父親がまた言いました。
「春開きの祭りではみんな仮装をするんだけどね、去年あたりから、その金の石の勇者が大人気なのさ。今年もきっと、金の鎧を着た勇者が大勢出てくるだろうな。まさか本物のライオンは連れて歩けないから、たいていは犬とか猫を連れているけれどね。君たちのその格好、やっぱり金の石の勇者みたいだと思うんだけれど。本当に違うのかい？」
ええと……とフルートは返事に悩み、しばらく迷ってから、こう答えました。
「実はそうなんです。――あんまりそれらしくは見えないでしょうけど」
「そんなことはないわ。とてもよく似合っているし、こんなかわいらしい勇者たちだって、中にはいていいと思うわよ」
女の子の母親から大真面目にそう言われて、全員がなんとも言えない表情になってしまったフルートたちでした。
