まっしぐらにやってくるケルベロスを見て、ゼンがどなりました。
「おい、ランジュール! あいつを止めろ!」
幽霊の青年は、まるで見えない椅子にでも座っているような格好で、長々と体を伸ばして空中を漂っていましたが、そう言われて、のんびり口を開きました。
「んー、それはちょっと無理ぃ」
「なんでだよ!? おまえが呼んできたんだろうが! 天才魔獣使いなんだろう!?」
「だぁってぇ、ケルちゃんは魔王に操られてるからさぁ。さすがに、闇の怪物には魔王の命令の方が絶対なんだよね。ボクが止めても無駄なんだなぁ」
とたんに、魔法の弾がランジュールとゼンめがけて飛んできました。大司祭長が手から撃ち出したのです。その色は銀色から闇の色に変わっていました。魔弾です。ゼンに降りかかった弾は一つ残らず防具の魔力で砕けましたが、ランジュールの方は上着の裾に弾が命中しました。幽霊も魔法攻撃は食らうのです。
おっとっと、とランジュールは言いました。
「やだなぁ。こんなところでとばっちり食らうわけにはいかないよ。ボクは退散。がぁんばってねぇ――」
あっという間に消えていってしまいます。
「あ、おい、待て! ランジュール! 無責任だぞ!」
ゼンが呼んでもどなっても、もう戻ってきません。
その間にもケルベロスは彼らに突進していました。フルートやキースのすぐ目で、三つの頭が口を開けます。どの口も、瞬時にフルートたちを呑み込みそうなほど巨大です。
すると、フルートが声を上げました。
「金の石!!」
フルートの胸の上でペンダントが輝きました。中央の魔石が聖なる光を放ったのです。
とたんに、ケルベロスが立ち止まりました。巨大な闇の体がたちまち溶け始めます。やったぜ! とゼンが歓声を上げます。
ところが、キースが言いました。
「だめだ! 黄泉の門番のケルベロスは殺せない! すぐ復活するぞ!」
言っているそばからケルベロスの体が黒い霧に包まれ、元に戻り始めました。溶けた体の表面に、また黒い毛並みが現れます――。
大司祭長が言いました。
「邪魔な石だ。願い石のこともある。貴様は眠っておれ」
その口調は、いつの間にかフルートたちになじみのあるものに変わっていました。歴代の魔王たちが話しかけてくるときの調子です。
とたんに、金の石が、ぐっと暗くなりました。大司祭長が大きな手をこちらに向け、引き寄せるように動かしています。金の石の力を奪い取っているのです。
「金の石!」
「こらえろ!」
フルートとゼンが呼びかけましたが、ふうっと金の光は消え、魔石は灰色になってしまいました。フルートたちが茫然とします。
彼らの目の前でケルベロスがまた復活しました。三つの首を振り上げ、牙の間からよだれを垂らしてほえます。キースが剣をふるいました。食いついてきた頭の一つに鋭い傷を負わせ、そのまま大きく飛びのきます。ゼンももう一つの頭にショートソードで切りつけました。武器のないフルートは、すぐ後ろにいたポポロを背中にかばって下がります。そこへ三つめの頭が食いつこうとします。
すると、ザーッと音を立ててフルートたちの頭上を花の群れが越えていきました。林の向こうから後から後から飛んできてケルベロスに襲いかかります。メールがフルートたちの後ろで両手を高く上げていました。ミコンの町中から花を呼び寄せたのです。たちまち花が蔓を伸ばし、怪物を絡め取っていきます。
「今のうち! 逃げるよ!」
とメールは言いました。
この場所では彼らはろくに戦えません。大司祭長の魔力の外へ脱出しようと駆け出します。
すると、大司祭長は、にやりと笑いました。口の両端から牙がのぞきます。
「逃がさん。町のどこへ行っても、必ず捕まえて八つ裂きにしてやるぞ」
巨大な体が両手を振ると、光の淵がふいに激しく波立ち始めました。それまでまったく動きがなかった青い水面に、大きな渦が巻き始めます。次第に回転を速めていく中、光の水の間に暗い影がのぞき始めました。光と光の隙間です。その影の中から次々と飛び出してくるものがありました。光の淵の岩壁に取りつき、すぐによじ登り始めます。
それはたくさんの人面トカゲでした。のっぺりとした黒い頭を振りながら岸に這い上がり、ギギキキキィィ……と声を上げます。フルートたちに襲いかかってきますが、林の中へと姿を消していくものも数えきれません。
とたんに林の中で悲鳴が上がりました。淵が放ち続ける青い光が、林の中から手を伸ばす男を照らし出していました。いきなり巨大化した大司祭長に驚いて一度は逃げた信者が、気になって戻ってきて、人面トカゲに襲われたのです。薄ぼんやりした光の中、怪物が男の喉笛をかみ切り、絶叫と共に林の下草の中に見えなくなります。同じような悲鳴が、林のあちこちから上がり始めます。
「よせ――!」
とフルートは真っ青になって立ち止まりました。その手には剣が握られています。衛兵が落としていったものを拾ったのです。それで人面トカゲを追い払いながら、大司祭長へ叫びます。
「あの人たちは関係ない! 彼らまで襲うな! 彼らはミコンの信者だぞ!」
「信者などこれからいくらでも増える。世界中がユリスナイの神の国になるからな。勇者を殺し、私は世界中の長となるのだ。ミコンなど、捨て石にしても少しも惜しくはない」
と大司祭長が答えます。――いえ、それはすでに魔王でした。これまでデビルドラゴンに取り憑かれてきた魔王たちと、まったく同じことを言っています。世界中を支配する王になる。そして、世界中の命を思いのままに操るのだ、と……。
フルートは唇をかみました。これが魔王なんだ、と考えます。恐怖と死で世界中を自分の支配下に置き、人の命も尊厳もすべて打ち砕こうとします。闇の竜に心まで奪われて、そのことだけを望み願うようになるのです。
聖地ミコン。そこは神の国に一番近い都でした。聖なる光で守られ、丘の上には家々や神殿が白く並び、頂上にそびえる大神殿は光り輝きながら天へと手を伸ばします。想いを天に届け、恵みを地上へもたらすために人々は祈ります。神の国がこの地上にも実現しますように、幸せと平和が訪れますように、と願います。
けれども、今、ミコンは無数の闇の怪物たちに襲われていました。数え切れないほどの人面トカゲが光の淵の底から這い出し、夜の町へと駆け込んでいきます。光の淵が作る影の中へ飛び込んでいくものもあります。影から影へ、怪物は渡り歩くのです。獲物になる人間を求めて――。
神の都は闇に蹂躙されていました。闇の長となっているのは、彼らが寄り頼んでいた大司祭長です。赤い瞳、鋭い牙、怪物のように巨大な姿ですが、まだ白い衣を着て銀の肩掛けをまとっています。聖なる姿の魔王に、フルートは思わず目眩がしそうになります。
これが正しいはずはない! こんなのが、宗教や神の本当の姿のはずはない……! そんなことを心で叫びます。
林の中でまた人の悲鳴が上がりました。ギギキキィィ、と笑うような怪物の声が聞こえてきます。続いて聞こえてきたのは、牙が肉を裂き、骨をかみ砕いていく不気味な音です……。
「やめろ!!!」
とフルートはまた叫びました。光の淵のほとりに立つ巨大な魔王をにらみつけます。
「やめろ!! 今すぐやめるんだ!!!」
すると、魔王が答えました。
「やめてやっても良い。おまえが今すぐ、この光の淵へ飛び込むならな」
フルートは立ちすくみました。真っ青になって光の水面を見つめます。
そこへポポロが後ろから飛びつきました。
「だめっ、フルート! 絶対にだめっ!」
とたんにフルートは我に返りました。激しい痛みを感じているような顔で、ポポロを堅く抱きしめます――。
「勇者殿たちを神殿の外へ逃がさなければ!」
と白の魔法使いが走りながら青の魔法使いに言っていました。彼らは今、魔法が使えなくなっています。なんとしても魔王の影響を抜け出して、魔力を取り戻さなくてはなりませんでした。
すると、暗がりから人面トカゲが飛び出してきました。白の魔法使いに襲いかかり、地面に押し倒してしまいます。倒れた拍子に髪を結っていた留め具が外れ、長い金髪がばさりと顔にかかりました。一瞬視界を奪われて動けなくなります。
とたんに、野太い声が上がりました。
「はぁっ!!」
青の魔法使いが白の魔法使いの上から怪物を殴り飛ばしていました。魔法ではありません。素手の攻撃です。素早く女神官の前で身構えて言います。
「立って、白! 早く逃げなさい!」
人面トカゲがまた飛びかかってきました。青の魔法使いが飛び出し、右腕を突き出します。岩のような拳が怪物の顔の真ん中に命中し、怪物がまた吹き飛ばされます。
すると、いきなり太い尻尾が飛んできました。青の魔法使いの両足を強打します。耐えきれずに倒れた武僧へ、怪物が歯をむき出して飛びかかってきます。
とたんに、怪物の眉間に細い木の棒が突き刺さりました。トネリコの杖です。白の魔法使いが青の魔法使いの後ろに構えて立ち、怪物に向かって自分の杖を突き出していました。深手を負った怪物が悲鳴を上げ、のけぞるように飛びのいて逃げ出します――。
目を丸くした青の魔法使いに、白の魔法使いが言いました。
「やはり、おまえの攻撃は単純で隙だらけだ……。一人ではとても戦わせられないぞ」
肩で息をしている彼女の背中には、長い金髪が乱れ流れています。意外なほど女らしく、凛々しく見える姿です。
青の魔法使いは、にやりとしました。
「それでこそ白ですな。私が惚れ込んでミコンを捨てただけの方だ」
とたんに白の魔法使いは顔を赤らめましたが、それは夜の薄暗がりに邪魔されて、青の魔法使いには見えませんでした――。
「ワン、どうします!? 怪物が町へ行きますよ!」
とポチがルルに言っていました。二匹の犬たちは林の中を駆けています。フルートや他の仲間たちが気になるのですが、林を抜けて散っていく怪物の行き先を確認するために、後を追っていたのでした。
林の中ではもう人の悲鳴はほとんど聞こえなくなっていました。耳の良い犬たちに聞こえてくるのは、怪物たちが餌をむさぼる音だけです。そして、腹を減らした怪物たちは、獲物を求めてどんどんミコンの町へと向かっているのでした。
「このままじゃ町中の人が殺されちゃうわ。ものすごい数の怪物だもの」
とルルが焦った声を出しますが、彼女にもどうしていいのかわかりません。すると、怪物を切り捨てる音がして、林の中をキースが駆けてきました。夜の中へ消えていく怪物たちを見て歯ぎしりをします。
「くそっ! どうすればいいんだ……!?」
本当に闇の敵の数が多すぎて、彼らにはどうしていいのかわかりません。
ゼンとメールはケルベロスと向き合っていました。たくさんの花が網になって、ケルベロスを絡め取っています。メールは両手を上げて必死でそれを操っていました。
すると、ゼンがどなりました。
「もういい、メール! 退くぞ!」
「だめなんだ! こいつ、やたら強くてさ。一瞬でも気を抜くと、網が――」
メールが言っているそばから、犬の怪物が花の蔓を引きちぎりました。三つの頭が網を抜け出し、メールにかみついてきます。
「んなろ!」
ゼンは一匹の鼻面を拳で思いきり殴りつけ、犬が思わず頭を退いた隙にメールの手を引いて駆け出しました。巨大な犬がくぐり抜けられないような林の木立をすり抜けて走ります。その後を、木々をへし折りながら犬が追ってきます。
するとメールが突然転びました。淵の光ももうほとんど届かない場所で、暗がりの中に潜んでいた窪地に気がつかなかったのです。あわてて立ち上がろうとしましたが、とたんに足首に激痛が走って悲鳴を上げました。足をひねってしまったのです。
「馬鹿野郎!」
ゼンはどなると、即座にメールを抱き上げて走り出しました。怪力のゼンです。メールを抱いていても少しも速度は落ちません。
その首にしがみつきながらメールは言いました。
「こ、この後どうするのさ……? 打つ手がないよ」
「わかんねぇ」
とゼンは正直に答えました。後ろからケルベロスが追ってくる気配がします。今はただ、それに捕まらないように必死で逃げるしかありません。
メールはケルベロスの向こうにそびえるように立つ魔王を見ていました。魔王は足下にいる何かを見下ろし、それと話しているようでした。
きっとフルートだ……とメールは考えました。フルートならばこの窮地をなんとかしてくれるのでしょうか。
けれども、金の石は力を奪われているのです。
黒い夜空の下、中庭の林とミコンの町は、闇の襲撃と混乱のまっただ中にありました――。