光の淵のほとりに突然姿を現したケルベロスは、全長が十メートル近くもある巨大な犬の怪物でした。一つの体に三つの頭がついていて、それぞれに激しくほえ立てています。首には鋲を打った黒い首輪がありました。
怪物を見たとたん、人々は悲鳴を上げて飛び上がりました。今まで立て続けにいろいろなものを見せられ、信じられないようなことを聞かされてきた信者たちです。見上げるような怪物の出現に、とうとう耐えられなくなり、我先に逃げ出してしまいます。
「黄泉の門の前にいたヤツよりでかいじゃねえか」
とゼンが言うと、ランジュールが答えました。
「ケルちゃんは伸縮自在だよぉ。ほら、首に黄泉の門の番犬のしるしをつけてるだろ? 誰の命令も聞かないし、どんな魔法でも攻撃でも倒せないんだよぉ。だって、いいヤツだって悪いヤツだって、魔法使いだって何だって、みぃんな黄泉の門の中に連れていかなくちゃならないんだから。すっごく強いんだよねぇ」
嬉しそうに、うふふ、と笑います。ランジュールは強い魔獣が大好きなのです。
ゼンは思わずまた尋ねました。
「そんなすごい番犬なのに、どうしておまえの言うことは聞くし、おまえのことだけは見逃してんだよ?」
うふふ、と幽霊の青年がまた笑います。
「だぁって、ボクは天才魔獣使いだもんね。天才はいつだって特別さぁ」
どこまでも人を食ったような話し方です。
そして、ランジュールは大司祭長を指さしました。
「さ、ケルちゃん、わかるねぇ? あそこにいる、あのおじいさんが、死者の国を抜け出してこの世に戻って来ちゃった脱走者なんだよ。ユリスナイにやってもらった、なぁんて言ってるけどさぁ、例えユリスナイだって、ケルちゃんの見張りを無視して、死者をこの世に戻したりしちゃいけないんだよねぇ?」
ガウッ、とケルベロスが同意するようにほえました。六つの目が大司祭長をにらみつけます。
ランジュールの声が響きます。
「そぉら! 行っちゃって、ケルちゃん!」
ガウガウガウッと犬の声が響き、巨大な怪物が老人に飛びかかっていきます。老人の体をあっという間に殴り倒し、踏みつけてしまいます。ゼンの剣やランジュール相手には平気だった大司祭長も、死の国の番犬にはまともに押さえつけられています。怪物の牙が迫っていきます――。
すると、突然大司祭長が声を張り上げました。
「下がれ、無礼者!!」
居合わせた者たちは、いっせいにぎょっとしました。その声が今までとまったく違っていたからです。穏やかで物静かな話し方ではありません。地の底から響いてくるような、低い不気味な声です。
「黄泉の門の番犬の分際で、私に手出ししようとするか!! 下がれ!!」
とたんに、ケルベロスが大きく跳びはね、何メートルも飛びのきました。恐ろしいものに出会ったように、耳を伏せ、尻尾を後足の間に丸めて後ずさっていきます。
大司祭長の目が赤い色に変わっているのを見て、フルートたちは叫びました。
「やっぱり――!」
「てめえが魔王だったな!」
すると、かたわらで、うふふっとランジュールが笑いました。
「そう。ボク以外にケルちゃんに言うことを聞かせられるのは魔王だけなんだよねぇ。なにしろ、闇の総大将のデビルドラゴンが乗り移ってるから、闇の怪物は言うこと聞くしかないんだもの。さあ、大司祭長くん、これですっかり化けの皮ははがれたよぉ。いい加減、正体を現したらぁ?」
ふん、と大司祭長は鼻で笑いました。今まで誰も聞いたことがないような、傲慢で冷たい笑い声です。
「よかろう。いずれにしても勇者には死んでもらわなければならない。卑しい勇者など地獄のただ中に突き落としてくれる――!」
みるみるうちに、大司祭長の体がふくれあがっていきました。姿はそのままですが、身の丈五メートルあまりもある大男になってしまいます。赤い目がぎらりと光り、薄笑いを浮かべた口元から牙がのぞきます。
最後まで大司祭長に付き従っていた人々が、悲鳴を上げて逃げ出しました。怪物だ! 悪魔だ! と口々に叫びます。
すると、見上げるような巨人になった大司祭長が言いました。
「私は怪物でも悪魔でもない。私はユリスナイから最も信頼されている人間なのだ。だから、神に最も近い場所にいる私を、誰もがひれ伏して敬う。――だが、この地上には邪神を信じる国が数多くある。ユリスナイを敬わない人間が、あまりに多すぎる。許されるべきことではない。世界中がユリスナイを信じるようになるために、従わない者たちは一人残らず死ぬべきなのだ。神の国を地上に実現するために――」
あまりに傲慢なことばに、フルートたちは思わず顔をしかめました。
「それのどこが神の国だ! デビルドラゴンに取り憑かれてるくせに、まだそんな綺麗事言うのかよ!? 言うこと聞かねえ国を片っ端から全滅させるなんて、とんでもねえ侵略じゃねえか!」
とゼンがどなれば、メールも叫びます。
「誰が何を信じようと、そんなのその人の自由じゃないのさ! どうしてみんな同じものを信じなくちゃいけないんだい!? 人間には人間の神、ドワーフにはドワーフの神、海にだって海が信じるものはあるさ! 信じるものはそれぞれ違ってたって、やることが同じだったら、それでいいじゃないのさ!」
普段はおとなしいポポロさえ、必死になって言っていました。
「あなたの考えは間違ってるわ! ユリスナイは、そんなことをしろなんて言わないもの! ただ言うのよ! 世界のあらゆるところにいる自分を感じなさい、って! 感じて、正しいことをしていきなさい、って! それがユリスナイなのよ――!」
巨大になった大司祭長の前、彼らの姿はあまりに小さく見えますが、それでも少しも引こうとしません。
白の魔法使いが声を張り上げました。
「大司祭長、あなたは長年この聖地を守ってきた、本当に立派な方だった! 力に訴えず人の心に訴え、ユリスナイの慈愛を説いてきた方だった! そのあなたが何故、こうも変わるのだ!? 思い出されよ、大司祭長! あなたの信仰はそんなものではなかったはずだ!」
「おまえはただの神官だ、マリガ」
と大司祭長は答えました。
「大神殿でユリスナイに仕える司祭たちに比べれば卑しい地位にある。フーガン、おまえもだ。僧侶が信じるカイタはユリスナイの護衛に過ぎない。己の立場をわきまえ、発言をひかえよ。さもなければユリスナイの天罰が下るぞ」
二人の魔法使いは歯ぎしりしました。魔法を使いたいのですが、発動しないのです。大司祭長に魔力を封じられているのでした。その足下ではウゥゥーッと犬たちがうなっていました。こちらも風の犬に変身することができません。大司祭長の魔力は、その場をすべておおいつくしていたのです。
すると、フルートが言いました。
「あなたのどこに闇があったのかわかったよ、大司祭長――。ここは神の国に一番近い都と呼ばれる聖地だし、その総本山である大神殿の中でも、あなたは一番偉い人だ。みんながユリスナイを拝むし、一緒に大司祭長のあなたを敬う。――だからなんだ。だから、あなたはみんなが自分を拝んでいると勘違いしたんだ」
とたんに、ドン! とフルートのいる場所で地面が爆発しました。大司祭長が赤い目でにらみつけたのです。炎と爆煙が巻き上がります。
「フルート!!」
と仲間たちは思わず叫びましたが、煙が晴れると、中からフルートがまた姿を現しました。ペンダントが淡い光を放ってフルートを包み守っています。
フルートは言い続けました。
「あなたの本当の役目は、迷って不安になっている人々を導いてあげることだったはずだ。人は弱いし、いつだってすぐ迷う。闇の声にだって簡単に誘惑されてしまう。そんなとき、正しい方向を教えてもらえば、人は安心するし、闇の声にだって勝てるようになる。人が幸せに生きていくために、宗教ってのはあるんだ――。きっと、あなただって最初はそう思っていたはずだよね。だけど、みんながユリスナイと一緒にあなたを敬うから、次第に世界中の人間から敬われたいと思うようになって、自分を敬わない人が目障りになってきたんだ。聖戦を行って、異教の国々を力づくで改宗させようと考えたのは誰だ? ユリスナイじゃない。大司祭長、あなた自身だ。そこを、デビルドラゴンにつけ込まれたんだよ!」
大司祭長は赤い瞳でフルートを見つめ続けていました。血の色をした不気味な目です。
「おまえはただの田舎の出の子どもだ、金の石の勇者。そんな者に、世界を救うような偉大な役目が与えられるはずがない。それは、この聖地ミコンが担うものであり、この私が率先して行うものなのだ。聖戦は行われなければならない。世界中にユリスナイを知らしめ、世界を平和に導くのだ。世界を救うのは私だ。金の石の勇者はこの世界には不要のものなのだ」
フルートはまたそれに言い返そうとしましたが、ゼンがそれを抑えました。
「やめとけ、いくら言ったって無駄だ。結局こいつも、ロムドの貴族どもと変わらねえんだよ。見た目の地位とか出身とか格好とか、そんなもんばかり偉いと思って、下のヤツに自分より立派なことをされるのが悔しいんだ。きっと、ずっと金の石の勇者に嫉妬してやがったんだぞ、こいつ。そんなヤツがおまえの言うことなんか聞くもんか」
すると、キースもそれに並びました。手には抜き身の剣を握っています。
「ぼくもそれには同感だな。金の石の勇者の噂は、最近本当によく聞くようになった。世界を救う勇者だとみんなが尊敬している。大司祭長は、それが面白くなかったんだ。だから、デビルドラゴンが誘いかけてきたとき、それに喜んで乗ったんだよ。――生け贄という形で、金の石の勇者を穏便に殺そうとしてね!」
ことばの最後に怒りと憎しみがにじみます。
ふん、と大司祭長は言いました。
「卑しい者どもが騒ぎ立てる。ユリスナイを敬わない異教徒ども。死者の国の番犬に食われるがいい」
とたんにケルベロスが激しくほえ出しました。大司祭長の命令に従って、フルートたちに襲いかかってきたのでした――。