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第10巻「神の都の戦い」

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86.美しい闇

 光の淵の上から青い女性が崩れ去った後、同じ場所に現れたのは、先に淵へ飛び込んで光となったはずの大司祭長でした。生前とまったく同じ姿で光の水面に立っています。

 驚き茫然とする人々を大司祭長はゆっくりと見回し、やがて、ネッセに目を止めて口を開きました。

「ユリスナイのご意志を妨げる者がいるようですね。ユリスナイが天の国から私をお遣わしになりましたよ――」

 穏やかでもの柔らかな口調も、以前と少しも変わりません。

 はっとしたようにネッセは後ずさり、地面にひれ伏しました。

「お……お帰りなさいませ、大司祭長……いつかきっとお戻りになられることと信じて、お待ちしておりました」

 本心からのことばかどうかはわかりませんが、ネッセはそんなふうに言いました。

 すると、先の大司祭長は穏やかに笑いました。

「ミコンの今の大司祭長はあなたですよ、ネッセ――。私はすでにこの世の者ではありません。ユリスナイに永遠の命を与えられ、天の住人となっているのです」

 話しながら、まるで見えない階段を上ってくるように水面から淵のほとりへとやってきます。老人が地面に立つと、他の者たちもいっせいひれ伏しました。

 すると、その中の一人が突然顔を上げ、転がるようにしながら老人に駆け寄りました。

「大司祭長様!」

 とその足に抱きつこうとします。大神殿の司祭の一人でした。

 ところが、その手は老人の足下をすり抜けました。まるで空をつかんだように、足に触れることができなかったのです。人々は驚き、さらに平身低頭しました。大司祭長様、大司祭長様……と司祭が足下で泣き出します。そんな様子を、ネッセがわずかに顔を歪めながら眺めていました。人々は、ユリスナイの姿を見たときよりも、もっと恐れおののいています……。

 

 けれども、フルートたちは少しも恐れ入ってはいませんでした。しっかりと立って、先の大司祭長を眺めています。白の魔法使いが声を上げました。

「これはどういうことか、大司祭長! 死んだはずのあなたが、何故ここにいるのだ!?」

「言ったとおりですよ、マリガ。私はユリスナイによって永遠の命を与えられ、今また、ユリスナイによって天の国からこの地上へと送られてきたのです。勇者殿が聖なる務めを果たせるよう、誘惑する者たちを倒せ、とのご命令を受けたのですよ」

「つまり、幽霊になって俺たちを殺しに来た、ってわけかよ。ランジュールと同じだな!」

 とゼンが言いましたが、大司祭長は返事をしませんでした。ただ片手を上げて彼らに向けてきます。白と青の魔法使いが杖を上げ、たちまち顔色を変えました。守りの魔法が発動しなかったのです。

「魔法が封じ込まれている――!?」

「さっきから我々の妨害をしていたのはあなたか、大司祭長!?」

 大司祭長は穏やかに笑いながら言いました。

「すべてはユリスナイのご意志のまま。それに逆らってはなりませんよ、マリガ、フーガン」

 その手から銀の光が続けざまに発射されてきました。一カ所に集まっている彼らに襲いかかります。

 すると、フルートがふいにまた叫びました。

「金の石!」

 とたんに一同の前に金色の壁が広がりました。銀の光が一つ残らずその上で砕けます。精霊の少年が、フルートの隣で両手を突き出していました。

 

 大司祭長は静かにまた言いました。

「いけませんね、精霊。あなたまでが闇の手先になってしまうとは……。あなたがたに悔い改めの時は訪れないのでしょうか。退きなさい」

 と今度は精霊へ手を向けます。

 とたんに、精霊の小さな体が揺らめきました。光が薄くなるように、姿が薄らぎ始めます。

「金の石!」

 とフルートたちは驚きました。フルートが手に握っていた本体の石が、急に暗くなっていきます。力を奪われているのです。

「こんにゃろう!」

 とゼンが飛び出しました。淵のわきを駆け抜けて、まっすぐ大司祭長へ向かいます。老人は片手を精霊に突きつけたまま、もう一方の手をゼンに向けました。その手からまた銀の弾が撃ち出されてきます。

「ゼン殿!」

「危ない!」

 魔法使いたちやキースが思わず声を上げます。

 が、ゼンは無事でした。魔法の弾はゼンに触れる前に、ことごとく砕けて消えていったのです。ゼンが、へっ、と笑いました。

「俺の来てる防具はピランじいちゃんが鍛えた特別製だぜ。あらゆる魔法を効かなくするんだよ」

 腰からショートソードを抜いて切りかかっていきます。大司祭長の体が、滑るように大きく下がります。

 それを見てネッセが叫びました。

「や――闇の暴徒です! 生かしておいてはなりません!」

 呼びかけに、ひれ伏していた人々がいっせいに跳ね起き、ゼンへ殺到してきました。衛兵たちだけでなく、信者たちまでがゼンを倒そうと襲いかかります。

「馬鹿野郎! てめえら、いいように使われやがって!」

 とゼンはどなって剣を収めました。素手で信者たちを片っ端から捕まえて放り投げ始めます。

 

「大丈夫か、精霊?」

 とフルートはうずくまるようにしていた小さな少年へ手を差し伸べました。作り物のように白い肌は少しも変わりませんが、それが青ざめているように見えたのです。力を奪われて弱ったのでした。

 けれども、精霊の少年はフルートの手を払いのけました。怒ったような顔で立ち上がってきます。

「大丈夫に決まっている。ゼンが止めてくれたからな。心配はいらない」

 フルートは思わず苦笑しました。強がるなよ、と言いたいのですが、素直にそれを認めるような精霊ではありません。

 精霊は続けました。

「今ので、ぼくは淵から得た力の大半を奪い取られた。姿を消すぞ。そのほうが、力を温存できるからな」

「わかった」

 彼らの目の前で精霊の少年は消えていきました。ただフルートの手にペンダントだけが残ります。金の石は少しくすんでいましたが、それでも金色に輝き続けていました。

 フルートはペンダントを首から下げ、次の瞬間、かたわらにいたポポロを自分の後ろへかばいました。大司祭長が今度はポポロへ手を向けていたからです。

 大司祭長が言いました。

「いけません、勇者殿。その少女は闇の手のものです。勇者殿を誘惑する闇なのです。闇を捨て、光にお立ち帰りください。世界中の人々を救わねばなりません」

 厳かな声でした。まるで本当にユリスナイが語りかけてくるような――。

 

「だめ……!」

 とポポロがあわてて後ろからフルートにしがみつきました。黒い星空の衣の袖が、ぎゅっとフルートの腕を抱きしめます。

 そんな少女をちょっと振り返って、フルートはほほえみました。

「大丈夫だよ、ポポロ。本当に、もう絶対に行ったりしないから」

「なりません、勇者殿」

 と大司祭長は言い続けました。

「あなたには尊いお役目がある。身勝手な幸せを願わせる闇の声に耳を傾けてはなりません。その少女は闇の手先です。証拠に、それほど闇の色の姿をしているではありませんか。彼女の存在は、勇者殿にとっては闇なのです」

 ポポロがフルートの腕にしがみついたまま青ざめました。闇の存在だと言いきられて泣き出しそうになります。

 その足下から、ルルが怒ったように言い返しました。

「なんてこと言うのよ! ポポロは天空の民よ! 光の一族なのよ!」

「そう思いこんでいるだけです。実際には、彼女は勇者殿を誘惑する闇だ。去りなさい。勇者殿の光の心に闇を落としてはなりません」

 ルルは怒ってさらに言い返そうとしましたが、それより早くフルートが言いました。

「光の心――? それはつまり、自分のすべてを捨てて、人々を幸せにするってこと?」

「左様です、勇者殿。世界中の人々を分け隔てなく平等に愛して、その幸せのために自分のすべてを捧げる、尊い心のことです。勇者殿はその光の心をお持ちになっている」

 と大司祭長が静かに答えます。

 フルートは言い続けました。

「じゃあ、闇の心ってのは何? 自分自身の幸せを追い求めるのが闇の心?」

「幸せを求めることは悪いことではありません。ですが、人は常に弱いものです。自分を幸せにしたいあまりに、他人を蹴落とそうとします。怒り、憎しみ、恨み、嫉妬……あらゆる闇の感情が人を支配します。人は自分を幸せにしたいばかりに、すぐにその闇の心に負けて、他人を傷つけるのです。時に殺すことさえあります――。人は、そのような闇の心を捨て去らなければなりません。真に皆の幸せを願い、それを実現することができるのは、光の勇者であるあなただけです。あなたの尊い行為が、人々に光の心を目覚めさせ、この世に光の世界を実現するのです――」

 

 犬たちも、魔法使いも、キースも、思わずどきりとしました。フルートはこの話を納得する、と直感してしまったのです。真面目で心優しい勇者です。いつも自分より他人の幸せを願い、自分の身の安全も捨てて皆を守ろうとしてしまいます。本当に、光に近い心を持った少年なのです――。

 ゼンが人々と激しく戦いながら声を上げました。

「フルート! あいつの話なんか聞くんじゃねえぞ――!」

 数人の武僧に襲いかかられて、それ以上は言えなくなってしまいます。

「フルート」

 とポポロはいっそう強くフルートの腕をつかみました。怖くて怖くて全身が震えだしてしまいます。一年以上前、ジタン山脈の地下にあった鏡の間で、行ってしまおうとするフルートを必死で引き止めたときのことを思い出します。どれほど強く抱きしめても、フルートの体は赤い光の中へ消えていったのです……。

 すると、フルートが答えました。

「ポポロは闇じゃないよ」

 と言い切り、大司祭長に向かって続けます。

「でも、ぼくの中に闇の心があるのは確かだ。だって、彼女に近づく奴がいると、ぼくはどうしようもなく嫉妬してしまうんだから」

 仲間たちは驚きました。フルートが何を話し出すのだろうと見つめてしまいます。ポポロはフルートにしがみついたまま真っ赤になりました。自分の耳が信じられません。

 そんなポポロを振り返ることもなく、フルートは言い続けました。

「醜いと思うさ。どうしようもなく身勝手でわがままだと思う。こんな自分を嫌だとも思うけど――でも、どうしても、その気持ちをなくすことはできないんだ」

「それが闇の心です。決して負けてはならないのです。勇者殿は今、自分の心の闇をユリスナイの前に告白された。ユリスナイはすべての罪を許し、闇を清めてくださる。光が、あなたの闇の心を消し去ってくれるのです」

 大司祭長の声はどこまで行っても静かです。

 フルート! とポポロは堅く腕をつかんで目を閉じました。なんだか本当に、その手の中からフルートが消えていなくなってしまいそうな気がします。

 すると、フルートはかすかにほほえみました。

「闇の心を消し去ってくれる、か……。本当にその通りだよね。光の淵は、その人の中の闇を焼き尽くしてしまうんだから。そして、その人は消滅してしまうんだ」

「永遠の新しい命が約束されています。この私のように。天上の国に、闇はもうありません。清らかな光の中、私たちは永遠に心安らかに暮らすことができるのです」

 大司祭長の声は厳かです。遠い遠い光の国から響いてくるようです。そして、それはユリスナイの呼び声に似て聞こえました。

 フルートが黙り込みます。

 ポポロは目を閉じたまま泣き出しました。行かないで……! と心の中で叫びます。

 

 すると、フルートが答えました。

「だから、それは嫌だってば。さっきからそう言っているだろう」

 単純なほどあっさりと言ってのけます。

 大司祭長は目を見張りました。仲間たちも目を丸くします。なんだかまた自分の耳を疑いたくなってしまいます。フルートが今までこんな言い方をしたことがあったでしょうか……?

 フルートがポポロを引き寄せました。泣いている少女を優しく抱きしめ、また大司祭長に向かって言います。

「彼女が闇だと言うなら、それでもいいさ。彼女は星の光を持った美しい闇なんだから。人は必ず心に光と闇の両方を持つものだ。ぼくは、ぼくの闇とずっと一緒に生きていく。絶対に手放さない」

 フルートの声は静かでした。それなのに、誰の耳にもはっきりと聞こえてきます。ゼンは襲いかかってきた信者を大きく跳ね飛ばして、いぶかしそうに振り向きました。

「フルート――?」

 

 フルートはポポロをのぞき込みました。少女はまだ泣いています。その泣き顔から涙をぬぐい、少女が目を開けると優しく笑って見せます。

「大好きだよ、ポポロ。君を愛している」

 少年は、はっきりとそう言いました。

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