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第10巻「神の都の戦い」

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82.制止

 「勇者殿、お時間です」

 静かにそう声をかけられて、フルートは目覚めました。

 地面に横たわるフルートをネッセ大司祭長がのぞき込んでいました。

 起き上がると、フルートは金の鎧兜を着ていませんでした。剣もありません。普段着の上に金の石のペンダントを下げているだけです。……青い夢の中とまったく同じ格好でした。

 ネッセが一礼して言いました。

「失礼ながら、お支度をさせていただきました。勇者様のお道具は、後ほど仲間の皆様方へ。きっと形見とされることでしょう」

 恐ろしいことをさらりと言ってのけますが、悪意のある表情はしていません。ただ事実を言っているのです。それを聞いたフルートも表情を変えませんでした。静かにうなずき返します。

 先にユリスナイの声に呼ばれた信者たちが、淵のほとりに集まっていました。すでに百人近い人数です。フルートが立ち上がるのを見て、深く頭を下げます。彼らは少年が自分たちに代わって光の淵に飛び込もうとしているのを、知っているのでした。

 

 ネッセが言いました。

「ミコンの五万の市民に代わってユリスナイ様の元へ行かれる勇者殿の、勇気と深い信仰に心から敬意を表します。勇者殿の強い守りの想いは、必ずやユリスナイ様の強力な力となり、この世からすべての闇を討ち払うことでございましょう。人々は心安らかに暮らせるようになります……」

 すでに最後の祈りは始まっていました。フルートはネッセの前に片膝をつき、立てた膝の上で両手を組んで頭を下げていました。それはロムドの戦士が王の前で示す忠誠の姿勢でもありました。静かにネッセのことばを聞き続けます。

「ユリスナイ様は慈悲深いお方です。勇者殿の心から悩みも苦しみも取り去り、迷うことなくお務めが果たせるよう、力をお与えくださいました。ユリスナイ様へ身を捧げ、光となって世を救った後には、永遠の命が約束されています。ユリスナイ様と共に、いつまでも我々を天上の国より見守り続けてくださいますように――」

 フルートがまたうなずきました。ことばは一言も発しません。光の淵のほとりには、人の声も鳥の声も聞こえません。ただネッセが捧げる祈りのことばだけが響いています。

 ネッセは続けました。

「今、ミコンは闇の怪物に襲われ続けています。今この瞬間も、怪物は闇より這い出し、人々を襲っているのです。一刻も早く、ユリスナイ様が人々を闇の恐怖から解放し、真に平和な世界をお築きくださいますように。そのために、勇者殿の尊いその命を、ユリスナイ様にお捧げくださいますように。――どうぞ、勇者殿。光の淵へとお進みください」

 ネッセに手を差し出されて、フルートは何の躊躇もなく立ち上がりました。その上着にも顔にも、淵の放つ青い光が映っています。

 

 ところが、フルートが淵へ進み出るより早く、林の中へ駆け込んできて大声を上げた人物がいました。

「よせ、フルート! 何を馬鹿な真似をしているんだ!?」

 キースでした。トートンとピーナの家で怪物を倒した後、ここまで駆けつけて来たのです。光の淵に集まった人々とフルートの様子を見て、キースはそこで何が始まろうとしているのかを察したのでした。

「フルート――フルート、聞こえないのか!? 生け贄なんか意味はないんだ! そんなもので世界は救えない! やめるんだ、フルート――!」

 ネッセが自分の後ろに並んでいた魔法司祭たちに合図を送りました。彼らが手を向けると、たちまちキースはその場に立ち止まってしまいました。懸命に駆けつけようとするのですが、体がどうしても動きません。魔法で抑え込まれてしまったのです。

「お静かに。大切な儀式の最中です。邪魔をしてはなりません」

 とネッセが言いました。厳かなほどの声です。

「フルート!!」

 とキースは叫び続けました。どんなにもがいても、自分を抑え込んでいる力は振りほどけません。まるで見えない巨大な手にがっちりとつかまれているようです。ただ声だけが出ました。必死に言い続けます。

「やめるんだ! 君には大事な友だちがいるだろう!? みんな、君をあんなに大切にしているじゃないか! それなのに、彼らを置いて行ってしまうのか――!?」

 言いながら、ふいにキースは遠い日の光景を思い出していました。広がる暗い野原と林、ごうごうとうなりながら吹きすさぶ風、風が運ぶ怪物の声。風に波打つ林は、ねじれながら揺れ動いています――。

「やめろ!!」

 とキースは叫び続けました。フルートを引き止めているのか、遠い昔に行ってしまった別の誰かを引き止めているのか、自分でもわからなくなってきます。

「死ぬんじゃない! 生きろ! みんなのために生き続けるんだ――!」

 すると、フルートが答えました。

「ぼくはみんなのために行くんだ。ぼくが行かなかったら、みんな死んでしまうから。それだけは、絶対に嫌なんだ」

 落ち着いた声でした。間に光の淵を挟んで、キースをじっと見つめています。その顔は静かすぎるほど静かです。

 キースはがむしゃらに体を動かそうとしました。あの日と同じです。見えない力がキースの行く手を阻み、それ以上は進めないようにしています。なんとかそれを振り払おうとしながら、キースは心の中で別の人を呼んでいました。あの日、自分の命を救うために、自分を置いて行ってしまった人の名を……。

 けれども、どれほど呼んでも、行ってしまった人は戻ってはきません。

 

 キースは歯ぎしりをしました。もうたくさんだ! と心で叫びます。絶対に、もう誰も生け贄になどするもんか! あんな想いをするのは、自分一人だけで充分だ!

 キースは息を大きく吸い込み、またどなりました。

「帰ってこい、フルート! 帰ってこなかったら、君のポポロはぼくがもらってしまうぞ――!!」

 我ながら芸のない子どもっぽい脅しだと思います。でも、フルートにはこれが一番効果があるはずだ、とキースは確信していました。

 案の定、それまでまったく無表情だったフルートが反応しました。はっとキースを見直します。

 キースはたたみかけるように言い続けました。

「君が行くと言うならそれでもいいさ! でも、ポポロは泣くぞ! ひどく悲しむ! ぼくが彼女を慰めてやろう。新しい彼女の恋人になってね――!」

 怒れ、フルート! とキースは考えていました。怒って正気に返れ! 自分に大切なものを思い出せ――!

 すると、キースが突然後ろへ倒れました。魔法で吹き飛ばされたのです。魔法司祭がキースに手を向けていました。

 その前でネッセが言います。

「勇者殿を誘惑してはなりません。それは闇のささやきです。勇者殿はすでに光の神に心を捧げておられる。それを妨げてはなりません」

 倒れた拍子にキースは全身を強く打っていました。痛みで息が詰まって声が出てきません。

 

 さあ、勇者殿、とネッセが促しました。

 フルートはうつむくように下を見ました。そのまま、じっと足下を見つめ、やがてまた目を上げます。その時には、また元の静かな顔に戻っていました。倒れているキースを見る目にも、もう何の感情も浮かんでいません。

 だめだ、フルート! とキース叫ぼうとしました。正気に返れ! 思い出せ――! やっぱり声が出てきません。魔法で声まで抑え込まれたのです。

 

 すると、そこへ鋭い少女の声が響きました。

「フルート――!」

 ワンワンワン、と大きな犬の鳴き声が重なります。光の淵のほとりへ向かって少女と犬たちが駆けてくるところでした。ポポロとポチとルルです。ポポロは両手を広げ、必死で走ってきます。赤いお下げ髪が狂ったように後ろで揺れています。

「だめ、フルート! だめ! 行ってはだめよ――!」

 ポポロは叫びながら駆けていました。町の坂道を頂上まで駆け上り、さらに大神殿の階段も、中庭までの道のりも、ずっと走り続けてきたはずなのに、それでも声を振り絞って言い続けます。

「フルート! 帰ってきて、フルート――!」

「ワンワン、フルート! だめですよ! 声の誘惑を聞いちゃだめだ!」

「目を覚ましなさい、フルート! それは神様の声なんかじゃないのよ!」

 ポチとルルもポポロの足下を走りながら必死で叫びます。

 ネッセが魔法司祭たちに言いました。

「闇の手の者だ。取り押さえよ」

 魔法司祭たちが手を向けたとたん、キャン、と犬たちが悲鳴を上げました。魔法に弾かれて、その場に転がってしまったのです。見えない手に抑え込まれて、立ち上がろうとしても立てなくなります。

 ところがポポロだけは止まりませんでした。同じ魔法はポポロにも向けられているのに走り続けています。その服が、みるみる色と形を変えていきました。白い巡礼服から、夜の漆黒の長衣へ。その中で星のように美しい光がまたたき始めます。星空の衣が本来の姿に戻ったのです。魔法司祭の魔法を防いでいるのは、その星空の衣でした。

「フルート!!」

 ポポロは必死で手を伸ばしました。光の淵をもう半分以上回っています。淵の向こう側に立つフルートの所までは、あとほんの十メートルほどの距離です。それを駆け抜け、駆けつけ、フルートに飛びつこうとします。

 すると、いきなりポポロの体が後ろからつかまれました。ぐっと引き止められて動かなくなってしまいます。

「お静かに、お嬢さん。儀式が終わるまで邪魔してはなりませんぞ」

 そう言ってポポロの腕を左右から捕まえたのは、見上げるような武僧の衛兵たちでした――。

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