大神殿の中庭の林には、すでに三十人あまりの人々が集まっていました。
夜が来て、光の淵はいっそうその輝きを増しています。淵に立つ人々を青く照らし、周囲の木々を頼りないほど淡く揺らめかせます。
人々はひざまずいて手を組み、淵に向かって祈っていました。その水面に、今は人の姿はありません。ただ青い光が静かに横たわっているだけです。
人々の前に大司祭長のネッセが立っていました。その白い衣や銀の肩掛けの上にも、淵が放つ聖なる光は青く映っています。ネッセは片手を上げ、人々のために祈っていました。これから光の淵に飛び込んで身を捧げようとする人々の、勇気と信仰を讃えるための祈りでした。
その祈りの間にも、林には人が集まり続け、当然のことのように祈りに加わっていきました。三十人が、たちまち四十人、五十人と増えていきます。
「皆様はこれからユリスナイ様の元へまいります――」
とネッセは厳かに言い続けました。
「すべての痛みと苦しみから解き放たれ、光に変わり、ユリスナイ様と共に闇の怪物たちを倒しに行くのです。ユリスナイ様はその後の天国での新しい命をお約束くださっています。この世での生が終わっても、何も案ずることはありません。すべては、ユリスナイ様のご意志のままになりますように」
祈る人々が深く頭を下げました。青い光の水に変化はまったく現れません。
すると、そこへフルートが駆けつけました。息を弾ませながら大声で言います。
「やめろ――! 馬鹿な真似はするな――!」
息が切れて、それ以上は言うことができません。フルートは林の木につかまって、ぜいぜいとあえぎました。本当に全速力でここまで駆けてきたのです。
ネッセは静かにそちらを見ました。
「これは勇者殿――。ユリスナイ様はここにいる人々をお呼びになりました。彼らは心からの信仰を持つ人たちで、喜んでその身をユリスナイ様に捧げようとしています。その務めは尊いものです。我々にそれを止めることはできません」
「だめだ!!」
とフルートはまた叫びました。
「そんなことをしちゃだめなんだ――! その人たちにだって家族はいる! 友だちもいる! その人たちを残して生け贄になったりしちゃいけないんだ――!」
「ですが、誰かは闇を払いに行かなくてはなりません」
とネッセは静かに言い続けました。
「それは彼らか、それとも、別な誰か一人か――。一人が行かなければ、多くのものが行くだけなのです。ユリスナイ様は呼び続けていらっしゃいます。彼らは、その呼びかけに喜んで応じた人々なのです」
フルートは息ができなくなりました。また、ぞおっと全身を悪寒が駆け抜けます。遠くに願い石の精霊の姿が見え、また消えていきます――。
何も言わなくなったフルートを、ネッセは黙って見つめました。どこか悲しげに見えるまなざしです。やがて、その目を閉じ、片手を光の淵へと差し出しました。その手の中に美しいグラスが現れます。中には青い光が水のようにたたえられています。
ネッセは目を開け、信者たちに向かって言いました。
「これはユリスナイ様との契約の杯です。この中に充たされているのは、ユリスナイ様の光です。今はまだ心のどこかに恐怖があったとしても、この杯を飲み干せば、その闇の想いは溶けて消え去り、ためらうことなく務めを果たせるようになります。ユリスナイ様の慈愛は限りありません。恐れに苦しむことなく、皆様方は旅立つことができるのです」
フルートは思わず飛び出しました。ネッセから杯を受けとろうとする信者に駆け寄り、その手から払い落とします。グラスが地面に落ち、砕けて青い光に変わります。光が小さく渦を巻いて消えていきます――。
「やめろ!!」
とフルートはまた叫びました。もっと他のことを言いたいと思うのに、出てくることばはまったく同じでした。
「やめろ! だめだ!」
「契約の杯を私たちにお与えください」
と信者の一人が言いました。ついさっき、フルートが怪物から助け出した若い女性でした。地面にひざまずき、手を組み合わせ、澄んだ瞳でネッセを見上げています。その顔に、もう恐怖の表情はありませんでした。
「私たちは喜んでユリスナイ様の元へまいります。その誓いのために、ユリスナイ様の光をお与えください。私たちがユリスナイ様と共に光になれるように」
再び差し出したネッセの手の中に、また青いグラスが現れました。フルートは声もなくそれを見つめました。
遠いどこかから声が聞こえていました。
優しい声。悲しい声。細い笛の音のような女性の呼び声です。
声はフルートに言い続けていました。
「小さな勇者、私の元へおいでなさい。あなたはこの世界で生き続けるには、あまりにも心が優しすぎる。あなたの本質は私と同じ光。この世に留まるには、あなたの心は美しすぎるのです。あるべき場所へおいでなさい。あなたは、そのために選ばれてきた勇者なのですから――」
それは、頭の中で思い出している声ではありませんでした。確かにまたフルートの耳の底に響いていて、繰り返し呼びかけているのです。おいでなさい、勇者。私の元へおいでなさい、と。
フルートは、必死で思い出そうとしました。大事な何かを置いてきているのです。それがフルートを呼び戻そうとしています。行くな、自分たちを置いていくな、と――。
けれども、それはあまりにもかすかな声でした。実際には、光のほとりは静かです。ネッセも信者たちも何も言いません。夜の鳥の声さえ、林の中には聞こえてきません。
フルートは、ふいにひどく淋しい気持ちになりました。なんだか妙に自分の腕を軽く感じてしまったのです。いつもそこにあって、抱きしめてくれていたものが消えていました。何が消えたんだろう……とフルートは考えましたが、もう思い出すことはできませんでした。ただ、空っぽの自分の腕を淋しく眺めてしまいます。
光の勇者、とユリスナイの声は呼びかけていました。
急ぎなさい、勇者。あの者たちは正義のために、その身を光に捧げようとしていますよ。それは、あなたの役目なのです。役目を果たしなさい、フルート――
声は完全にフルートを捕らえていました。もう引き止める声は聞こえませんでした。フルートの胸の中にあるのは、ただ、ここにいる信者たちを自分の身代わりにさせてはいけない、という想いだけです。
フルートは進み出ました。ネッセの手の中から青い光のグラスをつかみ取ります。
驚いたように自分を見たネッセに、フルートは、はっきりと言いました。
「ぼくが行きます」
そのまま、ひと息でグラスの中身を飲み干してしまいます。光がフルートの中に流れ込み、全身に広がっていくのを感じます――。
グラスが地面に落ち、青い光の渦になって消えました。
続いて、フルートも地面に倒れました。ガシャン、と金の鎧兜が音を立てます。
そのまま、光のほとりはまた静かになりました。誰の声も、なんの物音も聞こえなくなります。
ネッセが手を合わせ、フルートに向かって言いました。
「世界に神の栄光あれ。すべてはユリスナイ様のご意志のままに」
夜は音もなく深まっていました――。