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第10巻「神の都の戦い」

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73.役目

 フルートは黒い坂道を駆け上り続けていました。

 苦しくて、胸の中で心臓が張り裂けそうでした。混乱した頭の中に、まるで氷のように冷たく横たわっているのは、青ざめたポポロの顔でした。目を大きく見張ってフルートを見つめています。聞かれてしまったのです。ポポロなんか君にくれてやる、とキースにどなったフルートのことばを……。

 いきなりフルートは行き止まりにぶつかってしまいました。つづら折りになった道を行き過ぎて、道の外れまで来てしまったのです。目の前に黒い岩壁がそびえています。ミコンの町ではどこでもそうなっているように、小さな祠(ほこら)が掘ってあって、その中で蝋燭の明かりが揺れていました。祠の上の岩肌には神の象徴が刻まれています。ユリスナイではなく、商売の神レートの象徴です。レートは道行く人々の守り神でもあるのです。

 その岩壁に両手をついて、フルートはあえぎました。

 心臓が本当に激しく脈打っていました。胸が痛くて痛くて、泣きたくなってきます。フルートは岩壁に突っ伏しました。ポポロ……とつぶやき、そのまま動かなくなります。

 

 夕日は山の向こうに沈みつつありました。

 道を染める赤い光がどんどんまばゆくなっていきます。あたり一面が夕映えに照り輝きます。

 そんな中、フルートはずっと、身動き一つせずにいました。

 人々が自分の家や宿になっている修道院へ戻る時間帯でした。通りを行く人影は少なく、それも家路を急いでいて、道の外れにたたずむ小さな少年に目を向ける人はいません。フルートは、たった一人で岩壁に突っ伏していました。

 やがて、フルートは、ふうっと大きな溜息をつきました。岩壁に自分の額を押しつけてつぶやきます。

「まったく……何をやってるんだ、ぼくは……」

 とても正気の沙汰じゃないよな、と自分で自分を考えます。

 自分がポポロの恋人になってやる、とキースが言ったって、それが本気じゃないことくらい、フルートにはわかっていました。ポポロはキースより六つも年下です。キースが女性としてポポロを見ていないことは、端(はた)からもはっきりわかったのです。フルートがあまり意固地になっているので、フルートを反省させようとして、あんなことを言っただけなのです。それなのに……。

 フルートはまた溜息をつきました。ようやく本当に頭の中が冷静になってきます。考えれば考えるほど、自分の言動がまともでなかったことがわかって、いたたまれない気持ちになってきます。自分はポポロを傷つけたのです。青ざめ、大泣きしそうになっていたポポロの顔がまた浮かんできます――。

 

 謝らなくちゃ、とフルートは考えました。額を押し当てた岩壁は、綺麗に削られていて滑らかです。ひやりとした感触が激情を運び去り、いっそう頭の中を冷静にしていきます。

 謝らなくちゃ、ポポロに……。何度も泣かせちゃってごめんね、と……。君は本当に全然悪くないんだから……。

 とうとうフルートの目から涙がこぼれました。頭の中は冷静なのに、胸の中が熱くて苦しくて、それが涙になってあふれてきたのです。フルートは岩壁に突っ伏したまま、声もなく泣き出しました。早くみんなの所へ帰らなくちゃ、そしてポポロに謝らなくちゃ、と思うのに、どうしても体が動きません。心が動いてくれないのです。ポポロの青ざめた顔が心の中でフルートを見つめ続けています――。

 

 

 すると、急に後ろから話しかけてきた声がありました。

「ご気分でも悪いのですか、勇者殿?」

 フルートは、ぎょっとしました。大司祭長のネッセの声です。どうしてここに!? と考えます。大神殿で白や青の魔法使いと話をしていたはずなのに。

 けれども、すぐにフルートは気がつきました。もう夕刻です。ネッセは魔法使いたちとの話し合いを終えて、大神殿から町に出てきていたのです。

 同時にフルートが思い出したのは、さっきカイタ神殿の広場で聞いた、ユリスナイの声でした。優しく悲しげな女性の声が耳の底によみがえってきます――。

 

 フルートの後ろで、ネッセが静かに話し続けていました。

「あなたもお聞きになったはずですね、勇者殿。ユリスナイ様から、あなたも呼ばれたはずだ」

 フルートは思わず振り向きました。泣き顔をそのままネッセに向けることになりましたが、ネッセはそれには何も反応も示しませんでした。銀の肩掛けをはおった白い長衣姿で、じっとフルートを見つめています。

「どうしてそれを……」

 と思わず言ったフルートに、ネッセは答えました。

「ユリスナイ様が教えてくださったのです。勇者殿に自分の声が届いた、と――。そこで、ユリスナイ様のご意志に従ってくださるよう、お願いに上がったのです」

 ユリスナイの意志? とフルートは繰り返しました。何故だか声が震えました。全身を激しい悪寒が駆け上っていきます。

 ネッセは後ろに数名の司祭や衛兵を従えていました。フルートに向かって話し続けます。

「ユリスナイ様は最初からあなたを招いていらしたのです、金の石の勇者殿。この世界からあらゆる闇を追い払うためには、心から世界と人を守りたいと思う者が淵に力を与える必要があるのだと言われて……。ただ、あなたはまだ子どもだった。その未来を奪うことはできないと言って、初めはマリガ様が、実際には大司祭長が、ユリスナイ様へ身を捧げたのです。彼らはあなたの身代わりだったのですよ、勇者殿」

 フルートは何も言うことが出来ませんでした。身代わり、ということばが迫ってきて、身動きすることさえできません。ただ岩壁に貼り付いて、自分の前に立つネッセを見上げてしまいます。

 ネッセの声は静かでした。以前のような神経質なところが消えて、ちょうど、光に消えていった先の大司祭長のような穏やかさでした。

「昨日、ユリスナイ様に招かれて淵で飛び込んだ若者も同様です。彼はこの世から闇を消すために、喜んでその身を捧げてくれました。ですが、常人にはこの世を守りたいと思う気持ちが足りないのですね。どうしてもすべての闇を消すことができません。大司祭長でさえそうだったのですから、無理はないのでしょうが……。これからも、ミコンには、そしてこの世には、闇の怪物が現れ続けるでしょう。そして、人々を襲うことでしょう。ミコンの信者たちは、本当にユリスナイ様を深く信じる人々です。闇を払うためならば、喜んで光の淵に身を捧げ、ユリスナイ様の聖なる光の力となっていきます。ユリスナイ様は天国での永遠の命を信者に約束してくださるので、誰も死を恐れることはありません。すべてをユリスナイ様のご意志に任せて、ためらうことがないのです――」

 ふっと、ネッセの声がとぎれました。声も出せずにいるフルートを、じいっと見透かすように見つめ、そして、静かにこう続けます。

「ですが――これは本当はあなたのお役目ですね、勇者殿」

 

 フルートは息ができませんでした。まるであたりが空気ごと凍りついてしまったような気がします。その中に捕らえられ、身動き一つできなくなっているのは自分でした。

 役目、ということばが迫ってきます。悲しい定めの勇者、と呼びかける声が聞こえます。澄んだ優しい女性の声です。まるで細い笛の音のような――。

 そして、その笛は、フルートが最後に大神殿の林を立ち去るときに、後ろから聞こえてきた音でした。あの時には不思議な音楽のように感じられたのですが、思わず立ち止まって振り返り、耳を澄ました時には、もう何も聞こえなくなっていました。ただ――感じたのです。誰かが、何かが、自分を呼んでいるのを。ずっと呼び続けているのを感じていたのです。光の淵の方向から――。

 

 フルートは急に正気に返りました。あわてて頭を振ります。

 ユリスナイの声が自分のすぐ周りにあるような気がしました。笛の音のような声が聞こえ始めていたのです。頭を振ることでそれを振り払おうとします。

「だ、だめだ……!」

 とフルートは叫ぶように答えました。

「ぼくは……ぼくは、行けない! 声には従わない!」

 体が震え出すのが、自分でわかりました。青い光の水が輝きながら脳裏に横たわっています。

 ネッセが表情を変えました。顔を歪め、フルートを見つめます。それは怒りの表情ではありませんでした。嘆きの顔です。

 驚くフルートにネッセは言い続けました。

「大司祭長は、私にミコンを委ねてくださいました。大司祭長に成り代わりたい、その座を奪って自分がミコンの長になりたい――そんな醜い想いを私が心に抱き続けていたことを、大司祭長はご存じでした。知っていて、なお、私にミコンを預けてくださったのです。これからはあなたが大司祭長になりなさい、と言って――。私は今、大神殿の長であり、ユリスナイ様の代弁者です。ユリスナイ様のご意志を人々に伝えなくてはなりません。光のため、闇を払うため、その身をユリスナイ様に捧げなさい、と。信者たちは自らの命を捧げることを決して恐れないでしょう。最後の一人になるまで、光の淵に飛び込み続けるのです」

 ネッセが痩せた手を伸ばしてきました。フルートは思わず身を引こうとしましたが、後ろが岩壁で下がることができません。その頬に、ネッセの手が触れました。

「ユリスナイ様は、あなたの身代わりに彼らが身を捧げることをお許しになりました……。一つの命の代わりに多くの命で力を得て、この世界からあらゆる闇を追い払いましょう、と。人々はユリスナイ様の意志に従って光の淵に死んでいきます。ミコンから人の姿が消えていくのです。ミコンは聖地です。世界を守るために人々が尊い命を捧げた場所と、全世界の人々から讃えられるようになるでしょう。ですが――ですが、私は――」

 ふいにネッセの頭が低くなりました。フルートの前にひざまずいたのです。その場所からフルートを見上げる顔は、まるで深い痛みに耐えるように、苦しげに歪んでいました。

「私は――ミコンの市民を死なせたくはないのです。ミコンの長として、人々を守りたいと思うのです。彼らをあなたの身代わりにはしたくない、と――」

 

 フルートは声が出ませんでした。少年の自分にひざまずく男を、ただ見つめてしまいます。膝が激しく震えていて、後ろの岩壁に寄りかかっていなければ、そのまま倒れてしまいそうでした。

 すると、ネッセは顔を伏せました。悲しみを感じさせる声で言います。

「私は光の淵に身を捧げることができません……。ユリスナイ様がお許しくださらないのです。その私が、あなたに向かって命を捧げろ、と命じることもできません。ただお願いするだけです……。五万を超すミコンの市民の命と、あなたの命は同じ重さなのです。どうか、ユリスナイ様のご意志に従って、勇者殿のお役目を果たされますように……」

 

 またどうしようもない悪寒がフルートの背筋を這い上がり、駆け下りていきました。ネッセはフルートに、生け贄になるように、と言っているのです。光の淵に飛び込んで聖なる光となり、ミコンと世界を闇から救うように――と。

 フルートは震える声で言いました。

「そ……そんなことしなくても、ぼくには願い石がある……。ぼくが願えば、闇は消えるんだ……だけど……」

 心の中で、フルートは必死で手を伸ばしていました。初めて大神殿に入って、人々の圧倒的な祈りを聞いたとき、願い石を呼びそうになったフルートを仲間たちは神殿から連れ出してくれました。その時、自分を捕まえてくれたゼンとポポロの手のぬくもりを、懸命に思い出そうとします。

「だめだ。ぼくは行けない――。だって、ぼくは――みんなと約束したんだから――」

 絞り出すようにそう言って、フルートは堅く目を閉じました。寄りかかる壁の岩肌を強くつかみます。

 

 ネッセが立ち上がりました。フルートに一礼してから、こう言います。

「ユリスナイ様は悲しみの中にも希望をお与えくださいます。そして、あなたを待ち続けていらっしゃいます。私もお待ちいたしましょう。勇者殿をただ信じて――」

 ネッセは司祭や護衛たちと一緒に坂道を歩いていきました。頂上の大神殿へ戻っていったのです。

 彼らの足音が遠ざかり、聞こえなくなると、フルートはその場にへたり込んでしまいました。岩壁に寄りかかっているのに、それでもどこかへ引き込まれてしまいそうな気がします。体中が激しく震え続けています。フルートは必死で自分の体を自分で抱きしめると、一つの名前を呼びました。

「ポポロ……ポポロ……」

 けれども、仲違いをして傷つけてしまった少女から、答える声はありません。きっとまだ泣いているのでしょう。悲しくすすり泣く声だけが、遠くに聞こえるような気がします。

 フルートは両膝を引き寄せると、そこに顔を突っ伏してしまいました――。

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