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第10巻「神の都の戦い」

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72.激情

 カイタ神殿の広場を夕日が照らしていました。

 神殿の大理石の壁が赤く染まり、広場の上に長々と柱の影を落としています。

 その広場の端にフルートとゼンが並んで立っていました。夕日に染まるミコンの町並みを見下ろしながら話しています。

「夜が来るな。また闇の怪物どもが町を襲うかもしれねえぞ」

 と言うゼンに、フルートはうなずきました。

「昼間、聖なる光がまた町を照らしたから、かなりの怪物が消えたはずだけど、まだ影の中に怪物が残ってるかもしれないからな……。町の人たちが、どこかに集まって備えていてくれるとありがたいんだけど」

 フルートの声は困惑していました。信者が光の淵に身を投げたとたんに聖なる光が輝き、大神殿の怪物たちを消滅させたことは、もうミコン中に知れ渡っていました。かなりの人数の住人が、あのとき大神殿に居合わせていたのです。人々はユリスナイの起こした奇跡に感謝して、闇が襲ってきても自分たちは守られているのだ、と安心してしまいました。フルートたちがどれほど呼びかけても、どこかに避難したり、怪物の襲撃に備えたりしようとしなかったのです。

「ったく。誰が何を信じようが本当に構わねえけどよ、ここまでくると正気じゃねえよな。またあの人面トカゲや怪物が現れたらどうする気だよ。ユリスナイに感謝しながら食い殺されるってのか?」

 ゼンはしかめっ面です。そう話し合う彼らは防具を身につけ、剣や弓矢を身につけて、完全装備でいます。夕日はどんどん沈んでいきます。間もなくまた夜が来ます。闇の怪物が出現しやすい時間が訪れるのです――。

「白さんと青さんはまだ戻ってこないね」

 とフルートは振り返って後ろを見上げました。そびえるカイタ神殿の背後には丘になった町があり、その頂上に大神殿が見えていました。二人の魔法使いは、ユリスナイの声の正体を確かめるために、ネッセ大司祭長たちに会いに行っているのでした。

 大神殿の尖塔は夕日に屋根を赤く光らせていました。間もなくやってくる夜の闇を前に、華やかなほどまぶしい輝きです。

 それを眺めながらフルートはなんとなく落ち着かない気持ちでいました。人面トカゲを大神殿に送り込んだ犯人が、今もまだ大神殿に潜んでいるような気がしたからです。

 

「ゼン――!」

 広場の隅に張ったテントからメールが呼んでいました。おう、とゼンが答えて歩き出します。

 そちらを眺めたフルートは、どきりとして、あわてて目をそらしました。メールに続いてポポロがテントから出てきたからです。星空の衣が変わった巡礼服を着たポポロは、相変わらずとても小柄で、そして、ひどく悲しそうに見えていました。今も、フルートが目をそらす瞬間に、はっと青ざめたのが、遠くからでもわかりました。

 棘が刺さったような痛みと共に、フルートの胸に浮かんできたのは、昼間、大神殿の中庭で見たポポロの泣き顔でした。大きな瞳にいっぱい涙をためて、ポポロはフルートを見ていたのです。そのかわいらしい顔は、フルートに向かって尋ねていました。どうして何も言ってくれないの? どうして怒っているの? わけを話して、と。

 フルートは唇をかみ、そっと視線を広場の入り口の方へ向けました。

 そこにはキースが一人で立っていました。神殿の外の通りを見張っているのです。町の下の方から吹き上げてくる風が、キースの長い黒髪と青いマントを揺らしていきます。夕日に照らされた姿は細身ですが、剣士らしく鍛え上げられた、筋肉質な体つきをしています。美しく整った顔も、男らしい凛々しさを漂わせています。

 フルートは思わずキースからも目をそらしました。鎧兜を着ても小柄で華奢な自分自身を見つめてしまいます。その兜の奥の自分の顔を思い出します。誰からも女の子のようだ、と言われてしまう優しい顔立ちです……。

 ゼンはフルートと同じくらい小柄ですが、もう大人のように太い腕や広い肩をしていました。でも、フルートには、そんな男らしいたくましさはありません。背丈は少しずつ伸びてきています。でも、やっぱり相変わらずフルートの体型は線が細いのです。すると、今度はトートンたちの家の前に座るポポロとキースの後ろ姿が浮かんできました。小柄な少女を守るように寄り添っていたのは、大人の男の広い背中でした。どう頑張ってもフルートには出すことができない頼もしさです。

 

 フルートはいっそう強く唇をかみました。

 不和の原因は自分だけにありました。ポポロは何もしていません。本当に、ポポロには何一つ落ち度はないのです。キースだって悪気があるわけではありません。ただ、フルートだけが一人で嫉妬して、すねて、意固地になっているのです。

 ぼくがもっと男らしかったらなぁ、とフルートは自分自身を見ながら考えました。もっと大きくて、もっとたくましかったら。ポポロと並んで見劣りがしないくらい、頼もしい姿をしていたら――そしたら――そうしたら――。

 けれども、どれほど願っても自分の姿は変わりません。華奢で小柄で、そして、少女のように優しい顔をしているのです。「もしも」が実現することなどないのだから、その先のことを思ったって無駄でした。

 フルートはとうとうあきらめの溜息をつきました。もういい加減にしなくちゃ、と考えます。

 いつまでもこんな態度を取っていたら、ポポロはわけがわからなくて、もっと泣いてしまうでしょう。そっけなくした理由をどうやったら説明できるのか、自分でもさっぱり思いつきません。でも、ポポロには謝らなくちゃならないのです。ごめんね、ポポロ、君は何も悪くないんだよ……と。

 

 人が近づいてくる気配がしていました。確かめるようにそっと歩いてくる控えめな足音は、間違いなくポポロのものです。ポポロが勇気をふるってフルートのそばまで来ているのです。

 フルートはそれを振り向こうとしました。心の棘は相変わらず痛んでいます。あんまり苦しくて、なんだか泣き出したくなるくらいです。

 でも、フルートはポポロに笑って見せるつもりでした。ポポロはきっと、今にも泣きそうな顔をしているでしょう。早く安心させてあげなくちゃ、と考えます。優しくほほえみかけ、優しい声で名前を呼んであげて――。

 

 

 その時、突然フルートに声が聞こえてきました。

 若い女性の声です。何故か細い笛の音のようにも聞こえます。

 その声はフルートに話しかけていました。

「私の元へおいでなさい、金の石の勇者。あなたのするべきことを見せてあげましょう――」

 フルートは、はっとしました。今まで一度も聞いたことがない声です。

 女性の声は、意外なほど優しく柔らかく響いていました。すぐ隣にいるように、近い場所から聞こえてきます。

「いらっしゃい、小さな勇者。私の元に、私のこの膝の上に。あなたの定めは誰よりも重く悲しい。だから、せめて、その重さを減らしてあげましょう。あなたや、残された人たちが、これからも悲しみに耐えていけるように……」

 フルートは息を呑みました。

 声の主はどこにも姿が見えません。声も本物ではありません。フルートの頭の中だけに響いてくるのです。ただ優しく、ただ穏やかに。ユリスナイの声に間違いありませんでした。

 おまえは何者だ!? とフルートは聞き返しました。実際の声には出さずに、心の中だけで尋ねたのです。

 すると、女性の声が答えました。

「あなたにはもうわかっているはずですよ、小さな勇者。私はユリスナイ。この世界を司る光の女神です――」

 フルートは懸命にその声の中に邪悪な響きを探しました。どんなに美しく聞こえていても、ユリスナイの声は怪しいのです。きっとどこかに気配がするはずだと考えます。

 声は言い続けていました。

「疑うのですか、小さな勇者。私はあなたをずっと見ていました。ずっとずっと――あなたが金の石と巡り会うより、もっと前から。あなたが背負っている定めは、あなたが生まれたときから担っていたもの。世界が定めた運命です。光と正義の神である私にも、それを取りのけてあげることはできません。ただ慰めをあげましょう。定めに耐えられるだけの強さと希望をあげましょう。私の元へいらっしゃい。私は光の中にいるのです」

 ぞくり、とフルートの全身で鳥肌がたちました。自分が呼ばれているのをはっきりと感じます。ユリスナイはフルートを招いているのです。自分の元へ――あの光の淵の元へと――。

 

 そんなわけはない! とフルートは激しく心で叫び続けました。これは神の声なんかじゃない! この声は闇の声と同じだ! ぼくを破滅に導こうとする声だ――!

 すると、どこかでユリスナイがほほえむ気配がしました。姿も顔もまるで見えないのに、何故だか悲しく優しい笑顔が思い浮かびます。それは慈しむような目でフルートを見ていました。

「信じられるようになったらおいでなさい、定めの勇者。私はいつでもここにいますから。ここにいて、ずっとあなたを待ち続けていますから――」

 ふうっと声が遠ざかっていきました。同時にユリスナイの気配も離れていきます。フルートの頭上にそびえる大神殿の方角へ遠ざかっていくのを、はっきりと感じます。

 同時に、頭の中にしびれるような感覚が訪れました。急に何も考えられなくなって、立ちつくしてしまいます。ユリスナイの声が聞こえなくなったことを、残念に思ってしまいます。とても綺麗で優しい声でした。寄り添うような、暖かい声でした。幼子が母の声を探すように、もう一度聞きたいと思ってしまいます……。

 

 

 とたんに、すぐそばで、わあっと少女の泣き声が上がりました。

 驚いてフルートが我に返ると、目の前から少女が駆けていくところでした。両手で顔をおおい、泣きながら走り去ります。赤いお下げ髪が揺れています。

 わけがわからなくてフルートが茫然としていると、いつの間にかそばに来ていたポチが言いました。

「ワン、どうしたんですか、フルート!? らしくないですよ。そんなに無視するなんて!」

 無視? とフルートはまた驚きました。無視などした覚えはありません。何が起こったんだろうと周りを見回すと、すぐ近くに仲間たちが集まっていました。ゼンが、メールが、ポチが、ルルが、フルートを見つめています。その目はフルートを無言で責めています。

 ポポロが泣きながら駆けていきます。激しいすすり泣きの声に、メールとルルがあわててそれを追いかけます。

 フルートはようやく気がつきました。ポポロはずっとフルートに話しかけていたのです。ただ、ユリスナイの声を聞いていたフルートは、それに気がつきませんでした。何度話しかけてもフルートが返事をせずに別の方向ばかり見ているので、とうとうポポロは耐え切れなくなって、泣いて逃げ出してしまったのでした。

 

 キースがフルートに駆け寄ってきました。フルートがはおったマントの襟元を乱暴に引き寄せてどなります。

「君はいつまでそんなに意固地になってるんだ! 彼女が何をした!? 彼女を無視して、あんなに泣かせて――それが男のすることか!?」

 とたんに、フルートは、かっと顔を赤くしました。しまった、と本当に後悔していたはずなのに、その気持ちが一瞬で吹き飛んでしまいました。自分をつかむキースの手を乱暴に払いのけてどなり返します。

「どういう態度をとろうと、ぼくの勝手だ!!」

 おい、フルート、とゼンがかたわらで目を丸くしていました。ポチも足下で驚きます。あまりにもいつものフルートらしくないことばでした。

 キースも驚き、すぐにフルートに負けない激しさでまたどなってきました。

「ポポロは君に一生懸命話しかけてたじゃないか! 君に謝っていたのに――! 彼女が何をした!? 何も悪いことなんかしてないじゃないか! いい気になるな! 君には彼女の恋人を名乗る権利なんかないぞ!」

 フルートはますます、かっとなりました。怒りに頭の中が白くなっていきます。思わず大声でまた言い返します。

「ぼくはポポロの恋人なんかじゃない!!」

 そう――フルートはポポロの恋人などではないのです。ポポロはフルートを好きだと言ってくれたけれど、フルートはそれに返事をしていなかったのですから。

 優しいポポロが自分に想いを寄せてくれるのは、泣きたいくらいに嬉しいことでした。そう言ってもらえることを、ずっと夢見てきたのです。あきらめようとしても、あきらめきれなくて、ずっと……。

 だけど、いざ本当にそう言ってもらったとき、自分には何もしてあげられないような気がして――いつも守って助けてくれるポポロに、自分は何も返せないような気がして――どうしても、ぼくも君が大好きだよ、とは言ってあげられなかったのです。ただ、君がいてくれて嬉しい、と態度で示し続けました。やっぱりそれも、ことばにはできなかったから――。

 

 キースは本気で怒った顔をしていました。ポポロのために怒っているのです。フルートをどなり続けます。

「ポポロの恋人じゃない!? そうか! じゃあ、誰が彼女をさらっていっても構わないって言うんだな!? では、ぼくがいただこう! 今日からぼくが彼女の恋人だ!!」

 フルートの頭の中が完全に白くなりました。自分でも気がつかないうちに、こう叫び返しています。

「好きにすればいいだろう!! ポポロなんか君にくれてやる!! 勝手に仲よくしていろ――!!」

 胸の奥で棘がどうしようもなく痛んでいました。心が深い傷を負って血を流し続けます。痛くて苦しくて泣き出してしまいそうです。

 すると、そんなフルートを、突然誰かが後ろへ引っ張りました。力ずくでキースから引きはがします。ゼンでした。怖いくらい厳しい顔でフルートを見て言います。

「落ち着け、馬鹿。自分が何を言ってるか考えろ」

 フルートは我に返りました。

 足下でポチが本当に驚いたように自分を見上げていました。キースも呆気にとられてフルートを見ています。フルートの返事に、怒るより先にあきれてしまったのです。そして、そのすぐ後ろに、メールとルルに付き添われて、ポポロが立っていました――。

 フルートに無視されて一度は泣いて逃げ出したポポロですが、メールたちに引き止められ、フルートとキースが喧嘩を始めたのを見て、また戻ってきていたのです。フルートを見つめたまま、真っ青になって立ちすくんでいます。

 フルートの顔から血の気が引きました。自分は激情に任せてなんと言ってしまったのでしょう? ポポロに何を聞かれたのでしょう? 何を……

 フルートは唇をかみました。ポポロから目をそらし、全員から顔をそむけてその場を逃げ出します。フルート! とゼンやポチの声が追いかけてきましたが、フルートは立ち止まりませんでした。そのままカイタ神殿の広場から飛び出していきます。

 

 広場から見える町並みの向こうでは、山脈の峰々を染めて、夕日がゆっくりと沈んでいくところでした。オレンジがかかった赤い光は、山の上の雲を染め、輝きながら次第に闇の暗さをはらもうとしていました――。

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