ミコンにあるトートンとピーナの家の前で、フルートは道の端に腰を下ろしていました。
そこは黒い岩の丘の頂上から、つづら折りになって下ってくる道の途中でした。道の端は切り立った壁のようになっていて、下の道に面した家々の屋根がすぐ足下まで迫っています。ミコンの家の屋根は平らなので、まるで白い通路のようにも見えます。実際、トートンやピーナはその屋根を駆け抜けて、丘の上から下まで近道したりするのです。
フルートは鎧兜を脱いで私服姿でいました。少し癖のある金髪を風に吹かれながら、眼下に広がる町並みを眺めています。その瞳は鮮やかな空の色です――。
すると、トートンの家からゼンが出てきました。道を横切ってフルートの隣に並んで座ります。こちらも防具や弓矢は外して私服姿です。しばらくフルートと同じように町を眺めてから、おもむろに口を開きました。
「なあ。デビルドラゴンは本当に消えちまったんだと思うか？」
フルートは片膝を抱えました。目は町に向けたまま答えます。
「たぶんね……。あれだけの光が世界中を照らしたんだもの。デビルドラゴンだって存在し続けることはできないよ」
ふーっとゼンは大きな溜息をつきました。こちらは道の端であぐらをかいて言います。
「だけどよぉ、なぁんか信じられねえんだよな。あのデビルドラゴンがだぞ、こんなに簡単に消滅するなんてこと、ありえるのか？ あれだけ大暴れして、世界中でいろいろやってきたヤツなのによ」
フルートは膝に顎を載せました。フルートがそれまでずっと考えていたのも、ゼンと同じことです。でも、口に出してはこう言いました。
「あの光の淵は本当に人が飛び込むことで聖なる光を発することができたんだ。飛び込んだのはミコンの大司祭長だもの。生まれた光だって、すさまじかったんだよ」
「ってことは、あのユリスナイの声ってヤツも実は本物だった、ってわけか。――ほんとかよ？」
ゼンがうさんくさそうに言います。
フルートは空を見上げました。雲が出ていますが、それでも青空ののぞく良い天気です。ユリスナイの象徴だと言われる太陽が、雲の切れ間から明るくミコンを照らしています。
「そう考えるしかないよ……。本当に光の淵は聖なる光を出したんだから」
「そうなんだよなぁ。どうにも腑に落ちねえんだけどよ、本当にものすごい光が世界を照らしたんだもんなぁ」
そう言って、ゼンは考え込みました。フルートも黙って空を見つめます。
大司祭長が飛び込んだ後、光の淵はすさまじい光を放ちました。何もかもを焼き尽くすような聖なる青い光です。実際、淵のすぐそばの岸や、そこに生えていた木々は跡形もなく消え去っていました。強すぎる光に溶かされて、消滅してしまったのです。
司祭の一人も光の中で消滅しました。ギュンターという名の男ですが、フルートたちはまったく覚えがありませんでした。副司祭長のそばにいた魔法司祭の一人で、他の司祭たちと見分けがつかなかったのです。その男が消えるのと同時に、そこから影の竜が離れ、光の中で消滅していきました。魔王にされていたのは、その司祭だったのです。
ふぅ、とフルートも溜息をつきました。
聖なる光は魔王を倒し、デビルドラゴンまで消滅させました。もう魔王が生まれてくることはありません。世界中の人々が苦しむことも、フルートが命を狙われることもなくなりました。世界は永遠に平和になったのです。すばらしいことです。すばらしいはずなのに――
どうにもフルートの心は晴れないのです。
目の前で消えていったはずのデビルドラゴンが、今もどこかに生きていて、彼らに反撃の牙をむく機会をうかがっているような気がしてなりません。空に、町に、物陰に、つい四枚翼の竜の影を探してしまいます。
世界はこんなに天気が良いのに――。
「白さんと青さんはどうしてる？」
とフルートはゼンに尋ねました。二人の魔法使いは家の中にいます。
「地下室で赤や深緑の魔法使いと連絡を取り合ってるぜ。ロムド城のユギルさんに、本当にデビルドラゴンが消えたかどうか確かめてもらうらしい」
デビルドラゴンの消滅を信じ切れずにいるのは、魔法使いたちも同じでした。仲間の魔法使いを通じて大陸随一の占者であるユギルを呼び出し、闇の行方を占ってもらおうとしているのです。
「それで本当にいなくなったってわかったら、どうしようね？」
とフルートは思わず尋ねました。なに馬鹿なこと抜かしてやがる！ とゼンからどなられそうな気がしたのですが、意外にも、ゼンも考え込んでしまいました。
「そうだなぁ……どうするかな。デビルドラゴンを倒す方法を見つけて、絶対にやっつけるんだ！ って意気込んで旅に出てきたけどよ。こうあっさりとヤツが消えちまうなんて想像もしてなかったもんな。なんかこう、肩すかしくらったみたいで、全然信じられねえぜ」
「しかも、あいつを倒したのはぼくらじゃない」
とフルートは言いました。片膝を抱えたまま、またじっと目を空に向けています。
「願い石を使わないで、あいつを倒すつもりだった。そのための方法を見つけにこのミコンに来たはずだったのに、結局、あいつを消滅させたのは、願い石に願うのとまったく同じやり方だった。ただ、ぼくの代わりに大司祭長が行ったってだけのことなんだ――」
フルートの胸の内を苦いものが充たしました。フルートは願い石を使わずにすみました。だから、自分はここにいます。けれども、その代わりに大司祭長がこの世界から消えました。大司祭長はフルートの身代わりになったのです。
ゼンがフルートの服の胸元を見ました。
「金の石はどうした？ 相変わらずか？」
フルートはうなずくと、服の下からペンダントを取り出して見せました。金の石は光の淵が爆発した直後から、光を失って灰色に変わったままでした。音も光も出なければ、精霊の少年も姿を現しません。それを見てゼンが眉をひそめました
「もしかして、こいつも死んじまったんじゃねえだろうな？」
石は石、人とは違うのですから、それを「死ぬ」と言うのはおかしなことです。けれども、金の石を仲間のように感じていた彼らにしてみれば、それが一番近い感覚でした。
フルートは首を振りました。
「前に金の石が言っていたんだ……。魔石は持っている力を使い切って寿命が尽きると、砕けて消えてしまうんだ、って。金の石はまだこうして砕けないでいる。力を使い切ったわけじゃなくて、また眠りについているだけなんだよ。それもきっと、デビルドラゴンがこの世から消えたからなんだ」
「だがよぉ、一言くらい断っていってもいいと思うぞ。何も言わねえで、勝手に眠っちまいやがってよ。おかげでこっちは全然意味がわかんねえだろうが」
ゼンがぶつぶつと行き場のない不満をぶつけますが、それでも金の石は何も答えません――。
すると、そこへ道を下って二十人近い集団がやって来ました。青いマントの聖騎士団やたくましい武僧たちに囲まれて、数人の聖職者たちが歩いてきます。その中央にいるのは、大神殿の副司祭長のネッセでした。おい、とゼンが言いましたが、フルートは動きませんでした。ネッセたちがまっすぐこちらへ近づいてくるのを、道の端に座ったまま、じっと見つめ返します。
ネッセはフルートたちの前で立ち止まりました。痩せた体に白い長衣を着ていますが、その上にまとっている肩掛けは、いつものえんじ色ではなく銀色でした。
「銀の肩掛けがよく似合ってるぜ、副司祭長さんよ」
とゼンがからかうと、たちまち警備隊の隊員がどなり返しました。
「無礼者！ ネッセ殿は大司祭長になられたのだぞ！ 大司祭長様と呼ばんか！」
ところが、ネッセがすぐにそれをたしなめました。
「よい。私はただ先の大司祭長からミコンを預かっているだけなのだからな。それより、今日はおまえたちに伝えたいことがあって来たのだ」
「伝えたいこと？」
フルートとゼンは疑わしい顔になりました。ミコンの全権を握るようになった男を、用心しながら見上げます。
「我々大神殿の司祭長たちの決定だ。ユリスナイ様と大神殿に対して数々の侮辱と破壊行為をしたおまえたちだが、我々はそれを不問とすることにした。おまえたちはユリスナイ様の声を聞くことができなかったために、ユリスナイ様の恵みを信じられなかった。それはいたしかたないことであっただろう。おまえたちの罪を許したユリスナイ様にならい、我々もおまえたちの罪を許すことに決めたのだ」
けっ、とゼンが言いました。勝手に彼らを罪人にして、勝手にその罪を許す、と言っている聖職者たちに、思いきり顔をしかめて見せます。フルートは冷ややかな微笑を浮かべました。
「それはどうも。痛み入ります」
とまるで大人のような返事をします。
副司祭長――いえ、大司祭長になったネッセは、鷹揚にうなずくと、護衛や司祭たちを引き連れてまた歩き出しました。今来た道を大神殿の方へ引き返そうとします。
その後ろ姿にゼンがまた揶揄（やゆ）を投げつけました。
「良かったな、副司祭長様。大司祭長が光に飛び込んでくれたおかげで、念願の大司祭長の肩掛けが着られるようになったんだもんな」
「なんだと！？」
「小僧！ 言わせておけば――！」
たちまち周囲の衛兵たちがゼンを取り押さえようとしました。ゼンの方でも跳ね起きて身構えます。
ところが、ネッセはまた手を振ってそれを抑えました。
「やめなさい……。怒ることではない。彼らの言っていることは、実は正しいのだから」
ん？ と二人の少年はネッセを見返しました。神経質な顔をした痩せた男は、今まで見たこともないような静かな表情をしていました。なんだか雰囲気が違います――。
「私は本当に大司祭長になりたいと願っていたのだ。長い間、密かにそれを祈り続けてきた。むろん、人々をユリスナイ様の元まで導きたい一心からだったが……。大司祭長から、今度は私が代わって大司祭長になれ、と言われたとき、私は隠していたその想いを見抜かれた気がしたのだ。ユリスナイ様も大司祭長も、私が心に隠す醜いものをご存じだった。その上で、私を許し、後を私に委ねてくださったのだ……」
半ばひとりごとのようにネッセはそう言うと、目を空に向けました。そこに何かが見えるように、じっと輝く雲を見つめ、やがて、またフルートたちに言いました。
「あなたたちの仲間の聖騎士団の隊員――名前はキースでしたか？ 彼にも伝えなさい。大神殿も聖騎士団も、彼の罪を許します。ミコンを守るために、また隊に戻ってくるように、と」
それだけを言い残して、ネッセは側近たちと立ち去りました。白い集団が黒い坂道を上っていきます。
けっ、とゼンがまた言いました。
「大司祭長になっちまえば、後はどんなお偉いことも言えるってわけか。ご立派だぜ。ったく――いかにも人間らしいよな！」
ドワーフの少年の声には、痛烈な皮肉と怒りがこめられていました。
