けれども、フルートは金の石を大司祭長に向けることができませんでした。
居並ぶ聖職者たちの間から進み出てきた大司祭長が、自分からフルートに近づいたからです。緊張した顔で自分を見つめ続ける少年を見て、穏やかに話しかけます。
「その表情。今度は私を魔王だと疑っているようですね、勇者殿?」
なんと! と副司祭長が声を上げました。周囲の人々も、いっせいに気色ばみます。自分たちの最高指導者であり、ユリスナイに一番近いと信じられている大司祭長を侮辱したフルートに、いっせいに憎悪が集まります。
フルートは自分にしがみつくポポロをそっと背後にかばいました。彼女は白の魔法使いを助け出すために今日の魔法を二度とも使い切っています。ミコンの信者たちに襲いかかられたら、身を守ることができません。同じ危険を感じて、青の魔法使いも前に出てきました。ゼンが、きりっと音を立てて弓を引き絞ります。まだ下に向けていますが、弓には矢がつがえてあります。
すると、大司祭長が手を伸ばしてきました。フルートの右手を無造作に取って、握っていたペンダントに触れたので、フルートはびっくりしました。仲間たちも同様です。思わず大司祭長を見つめてしまいます。魔王は闇のものです。闇のものにとって、聖なる金の石は猛毒と同じ存在で、触れることも近づくこともできないはずなのに――。
大司祭長がペンダントをフルートの手の中に押し戻しながらほほえみました。
「これで私の疑いも晴れましたか、勇者殿? 私もネッセも魔王ではありません。ですが、我々はそれを怒ることはいたしません。あなた方はこの世界を闇から守る戦士たちだ。その務めに忠実でいらっしゃるだけなのですからね」
穏やかなことばは、周囲の人々の怒りを鎮めていきました。だが! と副司祭長だけが不服そうな声を上げましたが、大司祭長は静かに首を振って見せました。
「ユリスナイの声は尊い命令です。ですが、彼らの言うとおり、嫌がる者に無理やり身を捧げさせるようなことをしてはならないのです。ユリスナイはそんなことは望まれません。喜んで自らを捧げる者でなければ、ユリスナイに力を与えることはできないのですから」
大司祭長の声は、同時に何か別のことも言っているように聞こえました。副司祭長が不思議そうな顔になって、大神殿の長を見つめます。
すると、大司祭長が言いました。
「私にもとうとうユリスナイの声が聞こえたのですよ、ネッセ。ユリスナイは、私に尊い務めをお与えくださった。私は喜んでそれに従おうと思います」
人々は息を呑みました。副司祭長が悲鳴のように叫びます。
「あなたが光の淵へ身を捧げると言われるのですか!? そんな――大司祭長のあなたが――!?」
フルートたちはまた愕然としました。立ちすくんでしまって、誰も声も出せません。
大司祭長がまた静かに笑いました。
「大司祭長だからこそです、ネッセ。私こそが、その務めにふさわしいのです。私は世界中の人々にユリスナイの存在を教えていく役目にある者です。信者たちの手本となるべき存在でもあります。その務めを果たせ、とユリスナイは私に話しかけてくださった。淵へ身を捧げ、ユリスナイの力となるのは、この私なのです」
「大神殿はどうなさいます!? ミコンは!? 大司祭長のあなたなしで、我々はどうしていったらよいのか――!」
副司祭長が叫び続けます。他の司祭たちも大司祭長の周りにひざまずき、思い直してくれるよう懸命に懇願します。白の魔法使いには身を捧げろ、と迫るのに、自分たちの上司は必死で引き止めるのですから矛盾しています。
大司祭長は言いました。
「闇の竜が消えれば、世界は平和になります。何の不安も心配もない、真の神の都が世界に実現されるのです。ミコンを案ずることはありません。ユリスナイが守ってくださいます。不安がる信者のために、これからはあなたが大司祭長になりなさい、ネッセ。これもユリスナイのお告げです」
副司祭長はまた息を呑みました。蒼白な顔でひざまずき、手を合わせて深く大司祭長を拝みます。
「すべては――ユリスナイ様のご計画のままに――。ユリスナイ様と大司祭長のご意志は、しかと受け止めました。ユリスナイ様のご意志がこの世界に真の平和をもたらしますように」
副司祭長の声が震えました。泣いているのです。他の司祭たちも、涙を流しながら大司祭長の足下で手を合わせていました。
馬鹿な! とフルートは叫ぼうとしました。あれはユリスナイの声なんかじゃない! 光の淵に身を投げても、世界に平和なんか訪れない! デビルドラゴンの罠なんだ! と叫ぼうとします。
すると、それより早くキースが叫びました。
「生け贄なんか何の役に立つ!! ただの無駄死にだ!! やめろ!!」
誰もが驚くほど激しい声でした。フルートも驚いてしまって、一瞬声が出なくなります。キースは激しい怒りの目で大司祭長をにらみつけていました。固く握りしめた拳が震えています……。
すると、大司祭長はほほえみました。ゆっくりと光の淵に向かって歩き出しながら言います。
「人はその目で見なければ信じられないことが多いものです。疑いの心、不信の心。人はいつも罪深いものですね。私はあなた方に見せて差し上げましょう。これが神の恵みです。そのすばらしい力を目の当たりにして、ユリスナイの慈愛と意志を強く感じるのです――」
伸ばした手の先から神の象徴が落ちました。大司祭長が首から外して淵の中に投げ込んだのです。先に白の魔法使いがやったのと同じことでした。
白の魔法使いは真っ青になり、思わずよろめいて青の魔法使いに支えられました。光の淵の中で、神の象徴が溶けて消えていきます。
「やめろ!」
とフルートは駆け出しました。一瞬遅れて、キースも飛び出します。淵へ飛び込んでいこうとする大司祭長に飛びつき、引き止めようとします。
その目の前で、大司祭長が最後の一歩を踏み出していました。何もない空間を踏んだ体が、そのまままっすぐ青い光の中へ落ちていきます。
フルートは必死で飛びつきました。大司祭長の白い衣を捕まえ、力一杯引き止めようとします。が、相手は大きな大人です。小柄なフルートにはとても止めきれません。大司祭長の重さに引きずられて、フルートまでが光の淵に転落しそうになります。
「危ない!」
キースが叫んで後ろからフルートの体を捕まえました。フルートの手の中から、白い衣がちぎれて抜け落ちていきます。青い光の水に、大司祭長の姿が沈んでいきます――。
とたんに、静まりかえっていた光の淵が、激しく動き始めました。青い光が渦を巻き、みるみるその輝きを増していきます。
淵の岸に座り込んで、フルートとキースは目を見張っていました。他の者たちも驚いて淵を見守ります。光はさらに激しく流れていきます。ついには青い輝きそのものになってしまいます。
すると、いきなり何かがフルートに飛びつきました。勢いよく地面に押し倒します。
次の瞬間、淵は激しい光を放ちました。先に金の石が放った光の、何千倍も強い輝きです。あたりを真っ青に染め、その光の中に包み込んでしまいます――
強すぎる光は、まるで青い闇のようでした。目の前のものでさえ、何も見えなくなってしまいます。
ただ激しくきらめき、何もかもを焼き尽くすような光の中で、フルートは遠くを見ていました。青一色の世界の中に、まったく別の色が見えていたのです。それは赤い炎でした。燃えるようなドレスを着た女性が、じっとフルートを見つめています。
フルートは女性に向かって叫びました。
「違う! 違うよ! あれはあの人の役目じゃない! あれをするのは、このぼくだ――!!」
すると、炎の女性が答えました。姿は遠く離れて見えるのに、声ははっきりと聞こえてきます。
「この光は私が呼んだものではない。離れなさい。そなたまで光に焼き尽くされるぞ」
そのまま遠く消えていく女性を、フルートは必死で追いかけようとしました。手を伸ばし、願い石! と呼ぼうとします。
ところが、体が動きませんでした。金の鎧兜に何かがしがみついています。華奢な二本の腕と背中です。赤いお下げ髪の頭がフルートの胸に顔を埋めています――。
フルートは我に返りました。ポポロが自分にのしかかるようにして、しがみついていました。白い巡礼服がいつの間にか黒い星空の衣に変わっています。その後ろでは青い光が燃え立つようにわき起こっていました。たった今までフルートがいた岸は、光の輝きに包まれてしまって、もう何も見えません。
ポポロが助けてくれたんだ、とフルートは気がつきました。フルートが青い光に巻き込まれる前に、飛びついて押し倒してくれたのです。
彼らの後ろでキースが叫んでいました。
「下がれ! もっとこっちへ! 光が強すぎて危険だ!」
フルートはさらに正気に返りました。降りそそいでくる青い輝きの中、地面の石や草が色を失いつつありました。強すぎる光は影を焼き尽くします。影をなくしたものが消滅しようとしているのです。
ポポロの星空の衣が光をさえぎるように輝き続けていました。黒く鮮やかな衣は、冬の星座を思わせるきらめきを放っています。
フルートはあわててポポロを抱きしめました。身を起こし、後ずさるようにしながら淵から離れます。淵からわき起こる青い光が、渦を巻きながら空に立ち上っていきます。まるで光の竜巻のようです……。
すると、突然ずっと後ろの方で声が上がりました。地の底から聞こえるような声が響き渡ります。
オォォオォー……オオォォォォー……
デビルドラゴンの咆吼です。
ぎょっと振り向いた人々の目の前で、一人の男が姿を失いつつありました。居並ぶ魔法司祭の一人が、降りそそいでくる青い光を浴びて、溶けるように消えていきます。やがて、そこから巨大な影が飛び立ちました。四枚の翼を持った影の竜です。
「ギュンター!?」
すぐ近くにいた副司祭長が仰天して、溶けていく男を呼びました。男はもう返事ができません。燃え尽きた蝋燭のように消滅していきます。
そして、男から離れた影の竜も、空をおおうきらめきの中で消えていこうとしていました。薄く薄く、形を失っていきます。
「デビルドラゴンが消滅します!!」
と空を見上げて白の魔法使いが叫びました。青の魔法使いもその隣に立って空を見上げていました。
ゼンが、メールが、ポチが、ルルが――そして、抱き合ったまま地面に座り込むフルートとポポロが、茫然と空を見上げます。
青いきらめきが空に広がっていくのがわかります。遠く遠く、どこまでも、まるで光の波動のように伝わっていきます。夜におおわれた空が、真昼のように青く輝きます。
すると、世界の遠くから、次々と悲鳴のような声が伝わってきました。うめき声、呪詛の声……闇の怪物たちが青い光の中で消えていく声でした。世界中から闇の悲鳴が押し寄せてきます。
その声の中、ひときわ大きな咆吼がまた上がりました。
オオォォーー……オォォォーーーー……
デビルドラゴンが青いきらめきに呑み込まれていくところでした。四枚の翼が消え、長い首と頭が消え、大きな体が見えなくなっていきます。それでもきらめきは止まりません。
ついに、デビルドラゴンは消えました。
青い光はそれでもまだ空に立ち上ります。世界中へと広がっていきます。闇を焼き、闇を消し――長い間、光ときらめきで世界中を照らし出し――
やがて、ようやくそれも終わりを告げました。
彼らの目の前で、光の竜巻が細く小さくなって、吸い込まれるように淵へ下りていきました。青い光の水になります
空を光が渡っていった後に、また夜が戻ってきました。黒い空が広がり、その中で星がまたたき始めます。
誰も、何も言えませんでした。ただ茫然と夜空を見上げ続けます。その空に、四枚翼の影の竜はもう見当たりません……。
すると、フルートの胸の中でふいにポポロが、あっと叫びました。ポポロは金のペンダントを見つめていました。フルートもそれを見て息を呑みます。
ペンダントの真ん中で、金の石が灰色に変わっていました。金の輝きはまったくありません。
「金の石……?」
フルートは呼びかけました。声でも、心の中でも。
金の石――金の石!?
けれども、返事はありませんでした。魔石は、ただの冷たい石ころのように、灰色に黙り込んでいました。