小さなロキの両親は、ポポロが魔法使いの目で見たとおり、木漏れ日の差す森の中に座っていました。
顔をおおって泣いているお母さんをお父さんが抱き寄せ、そのまま目を閉じてしまっています。疲れ切った悲しげな姿が、フルートたちの胸を苦しくします。
ロキが言いました。
「二人ともこっちを見てない。ちょうどいいや。フルート兄ちゃん、金の石をおいらに当ててよ」
両親に聞こえないように声を潜めていますが、落ち着いた口調です。フルートはためらいました。ロキは黒髪に黒い服の闇の民のような姿ですが、幻のように透き通っていて、金の石など使わなくても、もうすぐ消えてしまいそうです。
そんなロキを、ゼンやメールやポポロ、犬たちがじっと見つめ続けていました。誰も何も言いません。ただ涙をこらえて、ロキの姿を目の奥に焼き付けています。
「早く」
とロキがまた言いました。
フルートは首からペンダントを外しました。何度かためらい、思い切って魔石をロキに押し当てます。淡い金の光がロキの全身に広がり、薄れたロキの姿をいっそう薄くしていきます。もうすっかり色をなくして、輪郭が薄く残るだけになります。
ロキはうなずきました。
「もういいよ、フルート兄ちゃん。これ以上消えたら、母ちゃんたちのところへ歩けなくなるもんな。じゃ、行くね――」
けれども、そう言いながら、ロキはすぐには歩き出しませんでした。名残を惜しむようにフルートたちをもう一度見回し、にっこり笑って見せます。
「おいらが行くところを見ててよね。おいら、元の姿に戻ったって――兄ちゃんたちのことを忘れて思い出せなくなったって――それでも、ちっちゃなロキの中にいるから。ずっとそこにいて、兄ちゃんたちと一緒にいるから」
フルートとゼンはうなずきました。ポポロはもうとっくに泣き出しています。メールも大粒の涙をこぼし、ルルも両目の下の毛並みを濡らしています。けれども、少年たちだけは泣きませんでした。ロキとの約束を守って涙をこらえ続けます。
ポチが空気のようなロキの足に体をすりつけました。黒い瞳で見上げて言います。
「ワン、気をつけて」
ロキはうなずきました。淡いほほえみが木漏れ日のように揺れます。
そして、少年は歩き出しました。
幻のような姿が離れていきます――。
ふいに、黄色いボールが地面の上に落ちました。
リンリンリン……と鈴の音を立てながら転がっていきます。
フルートたちは、はっとしました。
思わずボールを追った目を戻すと、もうそこに透き通った少年の姿はありませんでした。青い服を着た、小さな男の子の後ろ姿だけが見えています。少しおぼつかない足取りで、とことこと両親に向かって歩いています。
少女たちは思わず息を呑みました。フルートが唇をかみ、ゼンが両手を拳に握りしめます。ポチが身じろぎもせずに見送り続けます。
男の子は、振り向くこともなく歩き続けます。
リンリンリン、とボールは転がり続けていました。ロキは闇の少年の姿でいた間、ボールをポケットの中にしまっていたのです。元の小さな姿に戻った時、ポケットは消え失せ、ボールが地面に落ちたのでした。
その鈴の音に、ロキの両親が顔を上げました。信じられないように音の方を振り向き、自分たちに向かって歩いてくる子どもの姿を見つけて飛び上がりました。
「ロキ!」
「ロキ――!!」
悲鳴のような声と共に駆け寄り、小さな息子に飛びついて行きます。堅く腕の中に抱きしめた母親を、父親が息子ごと抱きしめます。
「ロキ、ロキ! ああ良かった! 無事でいたんだね! ロキ――!」
嬉し涙にむせびながら無事を喜び、神に感謝します。
そんな親子の姿をフルートたちは黙って見つめ続けました。どの目にも優しさと悲しさとが入り混じっています。
すると、ロキの父親がこちらを見ました。嬉し泣きで濡れた顔を手でぬぐうと、笑いながら近寄ってきます。
「息子を助け出してきてくれてありがとう。君たちは本当にぼくたち親子の恩人だよ――」
感謝の握手をしようと、手を差し出してきます。フルートは何も言わずにほほえみました。泣くよりも悲しい笑顔が広がります。
その時、母親の腕の中でロキが声を上げました。
「マァ……マァマァ……」
えっ? と母親は息子を見つめました。ママ、と呼ばれたような気がします。初めてのことです。
すると、ロキが灰色の瞳で母親を見上げながら、また言いました。
「マーマ……ママァ……」
母親はまた大きな歓声を上げました。夫を大声で呼びます。
「あんた!! ロキがしゃべったわ! ママって――確かにそう言ったわよ――!」
父親も驚いて駆け戻り、息子の顔をのぞき込みました。ママ、とまたロキが言うのを聞いて、夢中になって自分を指さして見せます。
「ロ、ロキ――お父さんだぞ! パパだ、パパ! 言ってごらん!」
「そんなあんた、急に無理だよ。ロキは今初めてしゃべったところなのに――」
と母親が泣き笑いしながら言いかけると、男の子は、今度は父親の顔を見ながら、はっきりと言いました。
「パパァ」
両親はまた悲鳴のように歓声を上げ、息子を抱きしめました。また嬉し涙にむせびます。彼らは、一言も話そうとしない息子がいつか自分たちを呼んでくれる日を、ずっと待ち続けていたのです。
フルートたちはそっとほほえみました。ゼンは苦笑いの顔です。ったく調子のいいヤツだな、とつぶやきながら目をそらします。
喜び続ける親子の上に、木漏れ日は明るく降りそそぎます。フルートは、目の前の優しい風景から頭上へと目を移しました。森の中、木立の隙間からのぞく青空は、本当に綺麗に晴れ渡っています……。
すると、少し落ち着いてきたらしい母親が、ふと気がついて言いました。
「あら、ロキ。あんた、大事なボールをどこにやったの?」
母親はボールがないと息子がどんなに大騒ぎするかよく知っていました。たちまち心配顔になってあたりを見回します。
黄色いボールは、フルートたちと親子の間の地面に落ちていました。フルートはすぐにそれを拾い上げて近寄りました。
「はい、どうぞ、ロキ」
と青い服の男の子にボールを差し出します。
小さなロキは、母親に抱かれたまま、それを受けとりました。少しの間フルートを見つめてから、ふいっと視線を外してボールを眺め、それきりもう、フルートの方は見ようともしません。フルートは黙って優しくほほえみました。その目の奥を悲しいものが流れていったことに、ロキの両親は気がつきませんでした。
小さなロキが母親の腕の中で身をよじりました。下におりたがったのです。母親はすぐに息子を地面に下ろしてやりました。ロキは手の中に黄色いボールを抱えています。地面に投げては転がる後を追いかける、いつもの遊びを始めるのだろう、と誰もが考えました。
ところが、ロキはボールを投げませんでした。じっとボールを見つめ続け、やがて、それを抱えたまま、ととっと歩いてフルートの前までやってきます。大きな灰色の瞳に見上げられて、フルートはとまどいました。なんだろう? と考えていると、小さなロキが両手を前に突き出しました。
「ドージョ」
え? とまたフルートはとまどいました。ロキは黄色いボールをフルートへ差し出したのです。
すると、ロキが前よりもはっきりと言いました。
「ハイ、ドージョ」
はい、どうぞ、と言っているのだと、フルートたちは気がつきました。たった今フルートが言ったこと、やったことを、小さなロキは真似しているのです。あらまぁ、とロキの両親がまた驚いていました。これも初めてのことだったのです。
フルートは、にっこりしました。かがみ込んでロキと同じ視線の高さになると、笑顔でボールを受けとりました。
「ありがとう、ロキ」
手の中で、黄色いボールがリンリン、と音を立てます。それをすぐにまたロキの手に戻してやります。
「はい、どうぞ。これは君の宝物だからね」
黄色いボールを抱く小さな男の子を、愛おしく見つめてしまいます。
すると、ロキがまたボールをフルートに手渡してきました。
「ハイ、ドージョ」
小さな子どもはそんなふうに、何かができるようになったときに何度もそれを繰り返すことがあります。フルートはまた笑顔でボールを受けとると、はい、どうぞ、ともう一度ロキに返してやりました。まるでロキとキャッチボールをしているようです。
三度目にボールを差し出してきたとき、ロキが言いました。
「ハイ、ドージョ……ドージョ、フルートニイチャ……」
フルートはびっくり仰天しました。
小さなロキはフルートの名前を言ったのです。どうぞ、フルート兄ちゃん、と……。
思わずまじまじとロキを見つめたフルートに、声を聞きつけた仲間たちが駆け寄ってきました。一緒になってロキをのぞき込みます。
すると、ロキがその顔を一つ一つ見回しました。確かめるように見つめていった後、ゆっくりとこう言います。
「フルートニイチャ……ゼンニイチャ……ポチ……」
たどたどしい口調です。発音もはっきりしてはいません。けれども、ロキは確かに少年たちの名前を呼びました。少女たちの名前も呼びたそうでしたが、発音が難しかったのか、もうそれ以上口が回らなくなったのか、声にはなりませんでした。代わりに、男の子は少年少女たちに笑いかけました。えへっ、と小さな笑い声をたてます。
フルートたちは信じられませんでした。ロキは、元の姿に戻ってしまったら、もうフルートたちのことはわからなくなるのだと言っていました。忘れてしまって、もう思い出せなくなるのだ、と。けれども、小さなロキは彼らの名前を言っています。彼らを覚えているのです。
「ロキ! わかるんだな!? 俺たちのことが――ちゃんとわかるんだな!?」
どなるように尋ねたゼンに、ゼンニイチャ、とロキがまた言います。ゼンは歓声を上げました。
フルートは夢中でロキを抱きしめました。小さな小さなロキです。けれども、確かな手応えがそこにあります。ロキは確かにここにいるのです。
その腕の中でロキがまた笑いました。幸せそうな、嬉しそうな、明るい笑い声が響きます。
その時、ポポロは、あたりに淡い光が満ちているのに気がつきました。透き通った清らかな光です。日の光と共に天から降ってきます。
光を追って見上げたポポロの目に、巨大な空飛ぶ国が飛び込んできました。実際には、森の梢の陰に隠れているのですが、ポポロの魔法使いの目にははっきりと見えたのです。天空の国が、彼らの頭上まで来ていたのでした。
「天空王様……」
とポポロはつぶやきました。誰がこの奇跡を起こしてくれたのか、はっきりと知ったのです。嬉し涙がどっとあふれてきて、止めることができません。ポポロは顔をおおって泣き出しました――。
「まあまあ、ロキったら……すっかり話せるようになっていたのね。話し出したら、あっという間だろうとは思っていたんだけど。でも、本当にびっくりしたわ」
とロキの母親が言いました。笑いながら感心しています。ロキの父親も笑顔で言いました。
「君たちに助けられている間に、すっかりなついてしまっていたんだね。ぼくたちはこの後、シルの町へ行くつもりなんだ。ぼくが働いていたぶどう園や畑は盗賊にすっかり焼かれてしまったから、家内の実家の牧場で働くことにしたんだよ。君たちがシルの町に戻ったときには、また会えるね」
勇者の少年少女たちは、いっそう笑顔になりました。小さなロキに向かって口々に言います。
「また会いに行くからねっ、ロキ!」
「ワン、約束ですよ!」
「なんでもいっぱい食うんだぞ。大きくなれねえからな――」
ロキがまた笑います。その小さな姿に向かって、フルートは言いました。
「約束するよ。ぼくたちは必ず、この世界を平和にしてみせる。君や、君のお父さんやお母さんが安心して暮らせるように――必ず、世界を守ってみせるからね」
すると、ロキがまた手の中のボールをフルートに差し出しました。
「ドージョ、フルートニイチャ」
その様子にロキの母親が笑って言いました。
「どうやらロキは本当にそのボールを上げたいみたいね。古ぼけたボールだけど、良かったらもらってやってくれる、フルート? ロキが誰かに何かを上げるなんてこと、それこそ生まれて初めてなのよ」
フルートは、にっこりと笑いました。ロキの小さな手から黄色いボールを受けとります。
「ありがとう、ロキ」
リリン、とボールの中でまた鈴が鳴りました……。
ロキは両親と共に森の奥の避難所へ戻っていきました。何度も頭を下げて感謝する母親の腕の中で、小さな手を一生懸命振っています。バイバイ、と回らない口で言っているのが聞こえます。フルートたちもそれに手を振り返しました。もう誰の目にも涙はありません。
親子の姿が完全に見えなくなると、少年少女たちは顔を見合わせました。誰からともなく笑い始め、やがて全員が声を合わせて笑い出します。
「ワン、ロキたちがシルの町に行くんなら、もう心配はありませんね。シルは泉の長老が守ってくれているんだもの。ロキがデビルドラゴンや魔王に狙われるようなことは、もうなくなりますよ」
とポチが尻尾を振ると、フルートはうなずきました。
「さあ、ぼくたちも帰ろう。オリバンやユギルさんたちが待ってるからね」
「ジャックのヤツも絶対に待ってるぞ。心配してな」
とゼンがにやにやしながら言います。
「次はどこに行くんだっけ、あたいたち?」
とメールが尋ねると、ポポロがそれに答えます。
「ミコンよ。神の国に一番近い都って言われている宗教都市」
話しながら彼らは森からまた野原に引き返し、ポチとルルはそこで風の犬に変身しました。白い幻のような体が長々と伸びます。
「ワン、乗って乗って」
「オリバンたちがいる北の森までひとっ飛びするわよ」
せかされて彼らは風の犬の背中に乗りました。ルルの上にはフルートとポポロが、ポチの上にはゼンとメールが、と当然のことのように分乗します。
そして、フルートは声を上げました。
「さあ、行こう! 次は神の都ミコンだ――!」
ひゃっほう! という歓声を残して、彼らは空に舞い上がりました。空にもう天空の国の姿はありません。ただ一面の青空に白い雲だけが流れています。
彼らは友人たちの待つ北の森を目ざして、青空の中を飛び始めました――。
The End
(2008年4月5日初稿/2020年3月23日最終修正)