ジャックとロキは目の前の壁をたたきました。
本当に、まったく何も見えません。ただずっと夕暮れの野原が広がっているようなのに、二人はどうしてもそれ以上進むことができないのです。ジャックが体当たりを始めましたが、それでもやっぱり壁を越えることができません。
ロキは必死で壁をたたき続けました。
「フルート兄ちゃん! フルート兄ちゃん!!」
金の石のペンダントはロキの手の中にあるのです。早く渡さなければ、と焦ります。
すると、ふいに声が聞こえてきました。
「コレデヨウヤク舞台ハ整ッタ。金ノ石ノ勇者ガコノ世ヲ去ル日ガ来タノダ――」
地の底からわき起こってくるような不気味な声です。ロキは真っ青になりました。
「デビルドラゴン!?」
同じ声は戦うフルートと盗賊の首領にも聞こえました。二人共が、思わず剣を止めます。
「デビルドラゴン――まさか!」
とフルートは空を見上げてしまいました。夕暮れは進み、鈍い赤に染まった雲が黒く縁取られています。まるで空全体に闇が流し込まれたようなどす黒さです。けれども、その中に影の竜は見当たりませんでした。ただ声だけが響きます。
「ココダ、勇者。私ハココニイルゾ」
今度はずっと近い場所から聞こえてきます。フルートのすぐ目の前です。はっと振り向くと、盗賊の首領の肩の上に黒い鳥のようなものが羽ばたいていました。小さな鳩ほどの大きさをしたそれには、コウモリのような四枚の翼がありました。
愕然とするフルートに、首領がまたにやりと笑いました。
「仮面の魔王に取り憑いていたのはこいつだったんだってな……。仮面の野郎は消えちまったが、こいつはこうして残っている。勇者の坊主に恨みを持つのは俺と同じってことでな、手を結んで貴様を殺すことにしたのよ」
フルートは後ずさりました。闇の竜は首領のそばで羽ばたき続けています。それを見つめたまま、後ろに向かって呼びかけます。
「金の石――!!」
けれども、金の光は輝きませんでした。石を持っているロキやジャックの声も聞こえません。思わず振り向くと、立ち止まって必死で何かをたたく恰好をしている二人が目に入りました。叫び続けているのが口の動きでわかります。けれども、その声もこちらへは少しも聞こえてこないのでした。
「彼ラハ私ノ結界ノ中ダ」
とデビルドラゴンが言いました。
「金ノ石モ向コウ側ニアル。オマエヲ守ルコトハデキナイ。オマエハ一人ダ、ふるーと」
フルートは剣を強く握って身構えました。
今、この場所にゼンや仲間たちはいません。金の石も闇の結界に閉じこめられています。同じ場所に囚われたロキとジャックは人質です。フルートは、どこからの助けもないまま、たった一人で敵と向き合っていました。闇の竜が最初からこの状況を狙っていたのだと悟ります。
最初から――ひょっとしたら、仮面の怪物に取り憑いて魔王にしたその時から。
すると、盗賊の首領がデビルドラゴンに尋ねました。
「よう。その願い石とかいう代物は本当に大丈夫なんだろうな? そいつはまだ、こいつが持ってやがるんだろう?」
「心配ハイラナイ。ふるーとト金ノ石ヲ別ノ場所に置キサエスレバ、連中ハ大イナル光ヲ呼ブコトガデキナイノダ」
「はぁん?」
首領は要領の得ない声を出しました。そもそも願い石というものがよく理解できていないのです。少しの間、考えていましたが、それ以上質問することはやめて別のことを言い出しました。
「あそこに捕まえているガキどもを、ちぃとかわいがっておいた方がいいんじゃねえのか? また何か悪さを始めるかもしれねえぞ」
と見えない結界の中のロキとジャックを顎で示します。フルートはさらに青ざめて叫びました。
「やめろ! 彼らに手を出すな!」
デビルドラゴンが冷静に答えていました。
「ソレモ無用ナ心配ダナ。アノ結界ヲ彼ラガ破ルコトハデキナイ。金ノ石モマダ回復シテイナイ。彼ラニ手ヲ出セバ、逆ニふるーとヲ本気ニサセルダケダ。仮面ノ魔王モ言ッテイタ通リ、彼ハ守リノ勇者ダカラナ」
「へっ。こんなガキと一対一で俺が負けるとでも言うのかよ」
と首領はあざ笑い、再び刀を振り上げました。
フルートは自分の剣を構え直しました。それは銀に光るロングソードでした……。
「兄ちゃん! 兄ちゃん! 兄ちゃん!!」
ロキは見えない壁を死にものぐるいでたたき続けていました。小さな拳に血がにじみ、握っている金の石がそれを癒していきます。それでもたたくのをやめないので、ジャックが見かねて止めました。
「無駄だ、こいつは俺たちには壊せねえよ。こうなったら、あいつに期待するしかねえだろう。あいつは金の石の勇者だ。あんななりでも、強さだけは本物だからな」
フルートは首領と戦い始めていました。振り下ろされてきた刀を、鋭い一撃で跳ね飛ばします。
ロキは首を振りました。
「ダメなんだ――ダメなんだよ! 兄ちゃんは勝てないんだ! だって、あいつは人間なんだもの――!」
「どういうことだ?」
とジャックがけげんな顔になります。ロキは涙さえ浮かべながら、必死で言い続けました。
「フルート兄ちゃんは人間の敵が一番苦手なんだよ! 人間が相手だと本気で戦えなくなるんだ!」
ジャックはまた驚いた顔になりました。フルートの握っている剣が炎の剣ではなく、なんの魔力もない普通の剣なのに気がついて、思わず声を上げてしまいます。
「なんでだよ!? あいつは極悪非道の盗賊だぞ! 情けをかけるような相手じゃねえだろうが!」
「そんなの、フルート兄ちゃんだって充分わかってるんだよ! だけど、兄ちゃんは倒せないんだ! どうしても人間の敵が殺せないんだ! フルート兄ちゃんは優しすぎるから――!」
とうとうロキは泣き出しました。見えない壁に拳を打ち付けたまま、兄ちゃん! とまた叫びます。
フルートは必死で戦い続けていました。少年とは思えないほど強い太刀筋です。けれども、その勢いが鈍っていました。優しい顔が大きく歪められています。まるで自分自身が傷つけられているような表情です。
ふふん、と盗賊の首領が鼻で笑いました。自分の刀を必死で受け止め、こらえているフルートを見下ろします。
「相変わらずだなァ、勇者の坊主。覚えているか? 三年前、おまえが初めて北の街道で俺たちに出くわした時、おまえは俺の首に刃を突きつけやがった。本当にチビのガキだったくせにな。もうだめかと観念したんだが、おまえは俺を殺さなかった。闇の怪物のふりをして、俺たちがびびって逃げ出すのを見て笑ってやがったんだよな。まったく立派な勇者だ。反吐が出るぜ――! あの時、俺を殺さなかったおかげで、俺はこうしてまだ生きている。あれからもずいぶん人を殺したぜ。仮面の魔王と手を組んでからは、北の街道中の住人を片っ端から血祭りに上げてきた。結局、てめえのそのお優しい情けが、何百人もの連中を殺していったのよ。大した勇者だよなァ、え、坊主?」
フルートはこれ以上できないというほど青ざめました。歪んだ顔が今にも泣き出しそうな表情になります。唇をかみ、首領に向かって切りつけます。剣の柄を握りしめる手は冷たく汗ばんでいます。首領の隙を突いて剣を突き出そうとするのに、どうしても寸前で切っ先が鈍ります――。
首領の後ろで鳥のように羽ばたきながら、デビルドラゴンが言いました。
「優シイ勇者ニハ人間ヲ殺スコトガデキナイ。ソレドコロカ、傷ツケルコトサエ、タメラウノダ。ふるーとニ勝算ハナイ。同ジ人間ノ手ニカカッテ死ヌガイイ」
闇の竜の声は低く暗く、そして、底知れない残酷さをはらんでいました――。