禍霧がユギルたちの足下へ押し寄せてきました。生き物を包み込んで溶かしてしまう闇の怪物です。金の石が力を失った今、それを防ぐものは何もありません。ジャックは声もなく立ちすくみ、ロキは逆に泣き叫びながらユギルにしがみついていました。
「食われる! 食われちゃうよ! もうダメだ――!」
けれども、ユギルは一人冷静な顔で空を見上げ続けていました。
「大丈夫です」
と、ひとこと言います。そこへ舞い下りてきたのはルルでした。彼らの周囲でごうっと渦を巻き、黒い霧を跳ね飛ばしてしまいます。
「ごめんなさい。ちょっと遅れたわ」
と言いながら、風の体で彼らを巻き込み、全員をすくい上げました。――ルルはジャックも風の背中に乗せることができました。
「ありがとうございます、ルル様」
とユギルは礼を言い、再び舞い上がった空から森を見下ろしました。地上は黒い霧でいっぱいです。特に濃い霧が大蛇の形をとっています。とぐろを巻く中央にフルートとゼンとオリバンが立っていて、押し寄せる霧をフルートが炎の剣で追い返していました。他の二人には手出しすることができません。
離れた場所から盗賊たちもそれを見ていました。彼らを魔王が作る闇の障壁が包んでいます。禍霧はその中までは入り込んできません。
盗賊の首領が腕組みしながら白い仮面に話しかけました。
「いつまでもちこたえるだろうな、あの坊やは」
「人間の体力には限界がある。じきに疲れ果てて炎が撃ち出せなくなるだろう。その時が彼らの最後だ」
と仮面の魔王が答えます。
すると、盗賊たちが森の奥を指さして騒ぎ始めました。
「また何か現れましたぜ、お頭!」
「怪物だ――!」
不気味な闇の怪物たちが、また新たに姿を現していました。その数はどんどん増え、たちまち百匹以上の数になってしまいます。
仮面の魔王が言いました。
「金の石が力を失ったから、怪物どもが姿を見せ始めたのだ。もっと増えていくだろう」
ところが、霧に踏み込んだ怪物たちが、いきなり大騒ぎを始めました。黒い霧が怪物の体に這い上がり、包み込んでしまったのです。怪物たちが悲鳴を上げて倒れ、霧の中で崩れていきます。
「おいおい。共食いしてやがるぞ、あいつら」
と首領があきれると、仮面がまた答えました。
「禍霧は貪欲だ。相手が何者であっても、自分に触れたものは餌にしてしまうのだ。さすがの怪物たちも禍霧の中には近づけないだろう。このうえ怪物など必要ないのだが、だめ押しにはなる」
怪物たちは霧を取り巻くように立っていました。それはちょうど、禍霧が倒されたときのために待機する、第二陣のように見えました。
ジャックはユギルたちと一緒に空からその様子を見下ろしていました。仮面がなくなった顔は驚きと恐怖で青ざめています。
「どうしてだよ!?」
と尋ねます。
「どうしてあいつにはいつも、あんなに闇の怪物が集まってくるんだ!? 昨日も馬鹿でかい怪物と戦ってたじゃねえか。今だって、あいつを食いたいって言いながらあんなに集まってきて――。なぜなんだよ!?」
「勇者殿は内に願い石をお持ちです。どんな不可能なことでも可能にする魔法の石です。闇の怪物たちはそれを狙って集まってきているのです」
とユギルが答えました。
「なんでも可能にする石――? じゃあ、そいつを使って怪物どもを追い払えばいいじゃねえか。なんでやらないんだよ。魔王だって倒せるんじゃねえのか?」
ジャックの疑問は当然でしたが、とたんにロキが鋭く叫び返しました。
「馬鹿言うな! そんなことしたらフルート兄ちゃんが死んじゃうじゃないか!」
「死ぬ?」
ますます驚くジャックに、ユギルは静かに話し続けました。
「勇者殿が闇を倒すことを願い石に願えば、石は引き替えに勇者殿の命を奪います。いえ、命だけではありません。その存在すべて――魂までもが燃え尽きて、光に変わってしまうのです。勇者殿は、死んで黄泉の門をくぐり、天国で安らぎを得ることもできなくなります。完全に消滅なさるのです」
目を見張ったジャックに、ロキは怒った声で言い続けました。
「金の石の勇者ってのはね、そんなふうに、自分を犠牲にしてみんなを助けろ、って言われるんだよ! そういう運命になってるんだ! 魔王から狙われて、闇の怪物からも狙われて、金の石や願い石からは死んでみんなを守れって言われて――フルート兄ちゃんはものすごく優しいから、本当にそうしようって考えちゃうんだよ。ゼン兄ちゃんたちがいなかったら、絶対にそうしてる。みんなが必死で止めてるから、なんとかやらずにすんでるんだ。――そんなでも、やっぱり自分が金の石の勇者になりたいって思うかい、ジャック兄ちゃん!?」
ジャックは何も言えなくなりました。絶対に涙を見せなかったフルートが、泣きながらジャックに言ってきたことばが思い出されてきます。
「君は人としての幸せ全部を捨てて消えていくことができる? 他の誰にも、この役目はさせられないよ――」
と……。
彼らの下でルルが言いました。
「霧の怪物がフルートたちに近づいているわ。助けに行かないと」
あせる声です。黒い霧のとぐろが狭まって、地上の三人のすぐそばまで迫っていました。霧の蛇の鎌首が、隙を見て襲いかかってこようとしています。
それを鋭い目で見つめて、ユギルが声を上げました。
「火をお使いください! 霧に燃える炎は消せません!」
その声は三人にも届きました。
「火を使えって言われたってよ……」
とゼンは困惑しました。炎の剣を持つフルートはともかく、ゼンやオリバンに使える火はここにはないのです。
けれども、オリバンはすぐに頭上を見上げて言いました。
「フルート! あの枝を切れ!」
彼らの上には森の木々が枝を伸ばしています。フルートは一瞬、えっ? という顔をしましたが、すぐに理解してうなずきました。怪力の親友に言います。
「ぼくを上げろ、ゼン!」
「はぁ?」
何がなんだかわかりませんが、ゼンはすぐに両手を組み合わせました。そこにフルートが飛び乗ると、力任せに上へ放り上げます。フルートの小柄な体が高々と宙に飛びます。
フルートは剣を左右に振りました。太い木の枝が二本、すっぱりと切れて、切り口から火を吹きながら落ちていきます。それをオリバンとゼンが受け止めました。松明です。
ガシャン、と音を立ててフルートが地上に落ちてきました。高い場所から落ちてきても、魔法の鎧が衝撃を吸収するので平気です。すぐに跳ね起きて、霧へ炎を撃ち出しました。ざざーっと霧がまた後退します。
別の方向から襲ってきた霧の鎌首へ、オリバンが松明を突きつけました。火を嫌って霧が下がります。なぁるほど、とゼンはやっと納得しました。同じように松明の炎で霧を追い返し始めます。
「ゼンたちががんばってる。でも、あれじゃ長くはもたないよ」
とメールがポチの背中で言っていました。霧は確かに火を嫌いますが、蛇の鎌首になった部分が、目にも留まらない早さで攻撃を繰り返しているのです。いつか隙を突かれてしまいそうでした。
ワン、とポチは困ったように口を開きました。
「ルルが助けに行こうとしてるけど、ルルにあれ以上人が乗るのは無理ですね。ユギルさんとジャックが乗ってるんだもの。みんな一緒に落ちちゃいます。こっちに乗せるしかないんだけど――」
ポチの上にも、すでにメールとポポロが乗っていました。そこにフルートとゼン、さらに人一倍大柄なオリバンが乗れば、こちらも重量オーバーになるのは目に見えていたのです。
ところが、次の瞬間、ポチは振り向きました。自分の背中から、一つの感情の匂いがはっきりと伝わってきたからです。強い決意の匂いです。
「ポポロ?」
と尋ねると、魔法使いの少女は緑の瞳をきらめかせながら、きっぱりとうなずきました。
「ええ、やるわ――。また、あたしの力を送り込んであげる」
「ワン。でも、金の石は霧のど真ん中です。とても近づけませんよ」
とポチは地上を見下ろしました。そこは水のように揺れる一面の霧です。金の石はすっかり力を失い、霧におおい隠されて姿も見えません。ポポロが金の石に力を渡そうにも、拾い上げることもできませんでした。
すると、ポポロが言いました。
「ううん、今度は金の石に渡すんじゃないの……。メール、頼まれてくれる?」
「え、あたい?」
とメールは目を丸くしてポポロを見返しました――。