闇の結界には果てがありませんでした。飛んでも飛んでも、眼下には延々と赤黒い花畑が続いているだけです。
その中に花の咲いていない場所を見つけて、フルートが言いました。
「いつまでもこうしてるわけにはいかないな。あそこに下りよう」
彼らは風の犬に変身したポチとルルに乗っています。このまま飛び続ければ、じきに二匹の犬たちが疲れ切ってしまうとわかっていたのです。
空き地は闇の花に取り囲まれていました。先にいた場所よりは広く、地面もむき出しではなくて、わずかに草が生えています。花畑から小川が流れて出て空き地を横切っていますが、その水は黒っぽくにごっていて、いかにも毒々しく見えます。そんな中へ、一行は用心しながら舞い下りました。
「――よし、大丈夫だ。ここの花どもは襲いかかってこねえ」
と先に下り立ったゼンが言ったので、他の仲間たちも次々地面に下りました。ポチとルルが犬の姿に戻ります。
「本当に嫌な場所ねぇ。闇の気配で息が詰まりそうだわ」
とルルが鼻の頭にしわを寄せて言いました。まるで悪臭の立ちこめる中にいるような顔をしています。
ポチがそばを流れる小川を見ながら言いました。
「ワン、間違っても飲んじゃだめですよ。さわってもだめです。毒が流れてるから」
「闇の国はこんな場所ばかりだよ。どこもかしこも呪われてんだ」
とロキが言いました。吐き捨てるような口調です。
ロキは闇の国で生まれ育っていません。八つの歳になるまでずっと北の大地で暮らしていて、自分をトジー族だと信じていたのです。両親の死後、闇の民の親族に正体を知らされ、闇の国に連れていかれましたが、そこは呪いと恨みと身勝手があふれる場所で、まったく好きになれませんでした。今また、その闇の国から作られた結界に放り込まれて、本当に不愉快そうな表情をしています。
「川や花に近づかないようにしよう。みんな、離れないようにね」
とフルートが言い、全員が空き地に寄りかたまりました。少女たちはおびえた顔をしています。周囲に充満する悪意を肌で感じているのです。特にメールは人を襲って食う闇の花を気味悪そうに眺め続けていました。花使いの姫は花の声を聞くことができるので、花たち延々と繰り返す呪詛(じゅそ)が、嫌でも耳に入ってくるのでした。
すると、ゼンがメールに何かを差し出しました。
「そら、おまえの分だ」
それは干し肉でした。一緒にビスケットのような乾いたパンも手渡してきます。
「ロムド軍の野営地で朝飯食ってから後、何も食ってなかったからな。腹が減ってちゃいい考えも浮かばねえし、何より元気が出ないぞ。まずは食え、だ」
他の者たちは荷物をすべて馬と一緒に森の中に置いてきてしまっていましたが、ゼンだけは荷袋を腰に下げていたのです。そこから携帯食を取り出して配っていきます。革の水筒まで出てきたので、全員は思わず歓声を上げました。皆、空腹もさることながら、咽が渇いてたまらなくなっていたのです。
「さすがだね、ゼン」
とフルートが感心すると、ドワーフの少年は笑いました。
「俺は猟師だからな。山の中で猟をするうちに馬とはぐれることもあるから、いつも必要最低限の荷物は持ち歩くんだ。ま、猟師の常識ってとこだな」
仲間たちはまた感心しました。本当に、生きることに関してはたくましいゼンです。
干し肉とパンを食べ、水を飲むと、一同は本当に元気になってきました。この気味の悪い場所からなんとか脱出しよう、という前向きな気持ちになってきます。
ポポロが周囲へ目を向けながら言いました。
「あたし、もう一度あたりを探ってみるわ。ここが閉じられた結界なら、必ずどこかに外の空間に近いところがあるはずなの。森の上空にこの結界が一度開かれたんだから、きっと森につながる場所があるはずなのよ」
ポポロが言うのがどんな場所なのか、他の仲間たちにはわかりません。それは魔法使いにしか感じることができないものなのです。
「方向か――」
とフルートはつぶやきました。さっき、ポポロは外へ出るための方向がつかめないのだと言っていました。あと一回しか残っていない魔法で外への出口を開くために、魔法を使うべき方向を見つけ出そうとしているのです。小柄な少女が遠いまなざしでまた周囲を眺め始めるのを見守ります。
「金の石の精霊が出てくりゃいいんだけどな」
とゼンが言いました。
「ここが狭間の世界と似たようなもんだとしたら、あいつの力で外への出口が開けるかもしれねえんだ。黄泉の門の戦いの時、狭間の世界まで来たポポロやフルートを、現実の世界に送り返したんだからな」
すると、ルルが首をひねりました。
「それは難しいでしょうね。ここは本当に闇が濃いから、金の石はほとんど力を奪われてるもの。精霊の姿で出てくることなんてできないはずだわ。まして、外の世界へ出口を作るなんてのは不可能よ」
「花があればなぁ」
とメールが歯ぎしりをしました。ここには一面闇の花が咲いていますが、彼女に使える花はまったく咲いていません。もちろん、花が使えても結界の出口まで作れるわけはないのですが、戦士を自負する花使いの姫は、この状況で何もできない自分に、たまらない歯がゆさを感じていたのでした。
すると、フルートが言いました。
「焦るな。ここから脱出する方法が何かしらあるはずだ。焦らずにそれを見つけよう。――絶対に諦めずに」
いつも穏やかな少年の顔が、別人のように強い表情を刻んでいました。黄泉の門の戦いの時、大砂漠で何度も絶望しそうになったポチに、繰り返し言い聞かせてくれた時の顔です。仲間たちは、なんとなく驚きながら改めてその顔を見つめました。見つめるうちに、本当に焦りの気持ちが消えていきます……。
しばらくの間、誰も何も言いませんでした。
ポポロは魔法使いの目で結界の中を探り続けています。フルートとゼンは剣を構えて周囲に警戒を続けていましたが、まだ闇の怪物は現れず、闇の花もただ静かに咲いているだけでした。ロキが言っていたとおり、闇の花は攻撃されれば襲ってくるのですが、こちらが手を出さなければ自分からは何もしてこないのです。
やがて口を開いたのはロキでした。フルートを見上げて尋ねます。
「ねえ、兄ちゃんはさっき願い石がなんとか、って言ってたよね。それってどういうこと?」
フルートが願いの魔石を内に持つようになったのは、北の大地の戦いの後のことでした。願い石と聞いても、ロキには何のことかさっぱりわからなかったのです。
そこで、フルートは願い石の戦いのことを話して聞かせました。その後、数え切れないほどの闇の怪物に狙われるようになり、フルートがもう少しで魔石たちとこの世界を去っていきそうになったことは、ゼンが怒りを込めて話して聞かせます。
聞き終わると、ロキはあきれたように肩をすくめました。
「フルート兄ちゃんったら! ほんとに相変わらずだなぁ。全然自分を大事にしないんだから!」
と自分より年上の少年を叱りつけます。
「おいらは願い石のことは知らなかったけどさ、闇がらすなら知ってる。闇の国で一番騒々しくて迷惑なヤツさ。あいつに吹聴されたんなら、闇の国の連中の大半がもう兄ちゃんや願い石のことを知ってると思って間違いないだろうな。やっかいなヤツに見込まれちゃったね、兄ちゃん」
その闇がらすが、薔薇色の姫君の戦いの際に、魔獣使いの幽霊の青年ランジュールの怒りに触れ、自ら命を落とすはめになったことを、彼らはまだ知りません。
すると、急にポポロが、ふぅ、と溜息をつきました。その場に座り込んでしまいます。
「ごめんなさい、まだ出口は見つからないの。ちょっと休憩ね……」
その疲れ切った様子に、フルートは心配そうにかがみ込みました。大丈夫? と尋ねます。
ロキが首をかしげるようにして言いました。
「当然だよ。透視は疲れるもんな。おいらも闇の民の時には透視ができたから、よくわかるぜ。おいらの姉ちゃんは透視力がものすごかったから、ちょっとやそっとじゃ参らなかったけど、それでも、当てのないところを探るのは大変だ、っていつも言ってた。ここは閉じられた空間だけど相当広いもんな。無理すると疲れ切って動けなくなるぞ、ポポロ姉ちゃん」
すると、ポポロがしゃがみ込んだまま答えました。
「平気よ……。あたしは魔法でしかみんなの役に立てないんですもの。こんな時くらいがんばらなくちゃね……」
そして、心配して見つめているフルートに、にっこり笑い返して見せました。輝くような笑顔に、フルートが思わず顔を赤らめます。
彼らの周囲は静かでした。闇の怪物の気配もまだ感じられません。闇の花だけが、見渡す限りどこまでも咲き続けていました――。