森の上空から盗賊の首領に放り出されたロキを、フルートたちは追いかけました。まだ一歳半にしかならない幼いロキです。地面に落ちたら間違いなく即死してしまいます。
風の速さで急降下するポチの背中で、フルートは精一杯にロキへ手を伸ばしました。青い服を着た小さな体を捕まえようとします。ポチがうなりながら叫びます。
「ウゥ……もう少し!」
ポポロはその背中にしがみついて体を低くしていました。フルートがロキを助ける邪魔をしないようにしていたのです。と、ふいに鋭く息を呑みます。
「闇だわ――!」
落ちていく子どもの周りに闇が広がり出したのです。これまで見なかったような、濃く深い闇でした。まるで底なしの暗い井戸が突然口を開けたように、ポポロの目には映ります。
ロキが闇の中に呑み込まれ始めました。夕暮れ時のような薄暗がりに、小さな姿がぼんやりかすみ始めます。
「ロキ!!」
とフルートとポポロとポチは叫びました。すぐ後ろで、ルルに乗ったゼンとメールも叫んでいるのが聞こえます。
それと一緒に、遠くからユギルの声も聞こえていました。
「いけません、罠です――」
けれどもフルートたちは止まりませんでした。いっそうスピードを上げてロキに突進します。ロキはかげろうのように揺れながら見えなくなっていきます。それへ夢中で手を伸ばし続けます。
そうしながら、フルートは心で叫んでいました。
見失うもんか! もう二度と、絶対に、ロキを死なせるもんか――!!
伸ばした指の先で、ロキが消えていきます。
フルートは声に出して叫びました。
「追え、ポチ!!」
「ワン!」
ポチは濃い闇の中へ飛び込みました。周囲の空が暗くかすんでいきます。それでも彼らは止まりません。
「ルル、行け!」
とゼンもどなり、ルルも闇に飛び込みました。やはり、周囲から空が消えていきます。
そこは暗がりの中でした。幾重にも重なった黒い紗(しゃ)のカーテンをくぐっていくように、どんどん暗さが増していきます。
その中をロキが落ち続けていました。行く手は真っ暗闇で、何も見通すことができません。
すると、ついにフルートの指先が青い服に触れました。ぐっと握りしめると、手応えがあって、腕に体重が伝わってきます。
「捕まえた!」
とフルートは歓声を上げました。夢中でロキを引き寄せ、腕の中に抱きしめます。
その時、ポチは暗闇の中にぼんやりした赤い色を見ました。不気味な光が下によどんでいます。とっさに急停止しようとして、停まりきれなくて大きく身をかわします。
「危ない!」
ロキと一緒にポチから転落しそうになったフルートを、とっさにポポロが支えました。
そのすぐ隣でゼンとメールを乗せたルルも速度を殺し、赤い光をよけようとしていました。二匹の風の犬はもつれるように飛び、うなりを上げながら身をひるがえして、光すれすれのところでまた舞い上がりました。
その時、赤い光の正体が見えました。それは花の群れでした。血のように紅くどす黒い色をした花が、一面に咲き乱れています。そこに地面があったのです。気がつかなければそのまま全員が激突するところでした。
ポチとルルは速度を落とし、静かに地上へ下りていきました。暗闇の中、花の大群がぼんやりした光を放ち続けています。本当に、ひどく毒々しい不気味な色と光です。なんだかその中には下りる気になれなくて、犬たちは上を飛び続けました。花の咲いていない場所を見つけて、そこへ舞い下ります。
真っ先に地面に降り立ったのはゼンでした。用心しながら足下を確かめ、あたりに鋭く目を配ります。咲き乱れる花の外側には、得体の知れない暗がりがよどんでいて、夜目の利くゼンにも見通すことはできません。ただ、足下に広がる地面には、しっかりした感触がありました。
「よし、降りても大丈夫そうだ」
とゼンが言ったので、仲間たちは次々に風の犬から降りました。メール、ポポロ、ロキを腕に抱いたフルート……。ポチとルルが犬の姿に戻り、全員ひとかたまりになって、周囲の景色を見回します。
すると、メールがゼンに身を寄せてきました。いつも勝ち気な彼女が震えているので、ゼンは驚きました。
「どうしたんだよ?」
「この花さ……」
とメールは答えました。彼女は花を自在に操って思い通りのものを形作れる花使いです。いつもなら花を見たとたん歓声を上げるのに、ここに咲く花には、喜ぶどころか、おびえた顔をしていました。
「こんな気味の悪い花、見たことないよ……。あたいたちをものすごく憎んで怒ってるんだ。なんか、今にもあたいたちに襲いかかってきそうだよ」
「花がか? おまえが操ってもないのに?」
とゼンは聞き返しましたが、メールはもう何も言いませんでした。青ざめたままゼンの肩にしがみついてしまいます。
ポチは鼻をあげて、くんくんとあたりの匂いをかいでいました。
「ワン、確かに強い憎悪の匂いがしますね。花からだけでなく、この場所全体から匂ってくるんです」
「闇の気配がものすごいわよ。ここは闇のまっただ中ね」
とルルも言います。
フルートもあたりを見渡しました。赤い花畑のところどころに細い木が生えていますが、花が咲いていない場所は、むき出しになった石ころだらけの地面です。風も吹かなければ鳥の声も聞こえてこない全くの静寂の中、ただ花だけが圧倒的に咲き誇っていて、見ていると、なんだか息が詰まるような気がしてきます。そして、彼方は暗闇に包まれていました。そこに何があるのか、まったくわかりません。まるで闇の壁が周囲を取り囲んでいるようでした。
その時、フルートの腕の中でロキが大きく身をよじり始めました。下へ降りたがったのです。フルートは、こんな不気味な場所へロキを置きたくはありませんでしたが、抱かれているのを嫌がってますます暴れるので、しかたなく地面に下ろしました。
自分の足で立ったとたん、ロキはまた黄色いボールを地面に投げました。ころころとボールが転がり、リンリン、と鈴の音が響きます。ロキはその後を追って、いつもの遊びを始めました。
それを少しの間、苦笑で見守ってから、フルートはまた目を上げました。改めて周囲の景色と、その彼方の闇を眺めます。本当に、ここがどこなのか、闇の向こうがどうなっているのか、まったく知ることができません。
フルートはかたわらに立っていたポポロに言いました。
「ここから出る道を見つけなくちゃ。魔法使いの目で探してもらえるかい?」
ポポロはうなずくと、遠いまなざしになりました。花畑の向こうに広がる闇をゆっくりと見渡し始めます。他の仲間たちは黙ってそれを見守りました。彼らには出口がわかりません。ポポロの能力に頼るしかないのでした。
ポポロはずいぶん長い間、何も言いませんでした。緑の宝石のような瞳で遠くを見ながら、やがて、いぶかしそうな表情になっていきます。それが次第に焦りの表情に変わり、ついには泣き出しそうな顔になっていったので、仲間たちは驚きました。
「どうしたの、ポポロ?」
とフルートが尋ねると、ポポロは突然両手で顔をおおって泣き出してしまいました。
「見えないのよ……。ずっと遠くまで見通すのに……どこまで行っても、何もないの。ただ闇の中に赤い花が咲いてるだけ……。本当に、ただそれだけなのよ……」
ポポロは全身を震わせて泣き続けていました。おびえきっていたのです。フルートは思わずそれを抱きしめ、ゼンやメールと顔を見合わせました。メールも、おびえた顔でいっそう強くゼンにしがみついています。
彼らの足下では、二匹の犬たちが緊張していました。周囲に渦巻く闇と憎悪の気配に背中の毛を逆立てています。
フルートは泣きじゃくるポポロを抱き寄せ、胸の上のペンダントを眺めました。金の石はここに来て、いっそう光を失い、灰色の石ころ同然になっていました。心の中で何度呼びかけても、精霊の少年も姿を現しません。
「どうにも面白くねえな」
とゼンがうなるように言いました。
「俺たち、やばい場所に来ちまったような気がするぞ。ほんとに、ここはどこなんだ?」
「わからないよ」
とフルートは答えました。なんとなく、黄泉の門の戦いの時に訪ねた狭間の世界に似ているような気もします。どこかに死者の国へ続く黒い門が隠れているのかもしれません――。
すると、その時、誰かが言いました。
「ここは闇の結界の中だよ。おいらたち、魔王が作った闇に閉じこめられたんだ」
少年の声でした。えっ、と彼らは驚きました。フルートやゼン、ポチの声ではありません。
いっせいに振り向くと、そこに一人の小柄な少年がいました。黒い服を着て、両手を腰に当てて一同を見ています。その髪は黒、大きな瞳は灰色をしています。
フルートたちは目を疑いました。知っています。彼らは、この少年を知っているのです。
フルートが、つぶやくように言いました。
「ロキ……?」
遠い北の大地で出会って別れてきた闇の少年が、あの時の姿そのままで、そこに立っていたのでした――。