フルートたちは若い母親に抱かれた子どもを見つめました。子どもの顔の中に、彼らが知っている少年の面影を捜します。
茶色の髪と灰色の瞳は、北の大地のトジー族と同じです。けれども、耳は普通の人間の大きさですし、顔立ちも北の大地で出会ったロキとは少しも似ていません。むしろ、その子を抱いている母親にそっくりです。
すると、子どもが母親の腕の中で身をよじりました。ことばは一言も発しません。ああ、と母親が子どもを地面に下ろすと、そのままよちよちと駆けていって、地面に転がっていた黄色いボールを拾い上げました。ぽーんと自分の先に放り投げると、リンリンと鈴の音を立てて転がって行く後を追いかけて拾い上げ、またぽーんと投げます。……見つめるフルートたちの方は、ちらりとも見ようとはしません。
なんとなくとまどう少年少女たちの中から、ポチが進み出ました。男の子のすぐ目の前まで行って、白い尻尾をぱたぱたと振って見せます。
ところが、子どもは子犬にまったく関心を示しませんでした。相変わらずボールを転がしては拾う遊びを続けます。
ポチはちょっと驚きました。小さくて真っ白なポチはとてもかわいいので、犬が苦手な子どもにさえ好かれます。こんなふうに完璧に無視された経験など、ほとんどなかったのです。
今度はフルートが男の子の前にかがみ込みました。灰色の瞳をのぞき込みながら、優しく話しかけます。
「こんにちは――ロキ」
ところが、やっぱり子どもは関心を示しませんでした。灰色の視線はフルートを素通りして、また黄色いボールを追いかけます。まるでフルートなどそこにいないようです。ゼンがフルートの隣から子どもをのぞき込もうとしましたが、やっぱり完全に知らん顔をされてしまいました。
すると、子どもの母親が言いました。
「ごめんなさいね、ロキはまだ話せないのよ。あのボールがお気に入りで、ずっと夢中で遊んでいるの。よく飽きないものだと思うんだけどねぇ」
すると、剣や弓矢を手に集まっていた男たちが母親に文句をつけました。
「そんな悠長なことを言ってないで、いいかげんあれをやめさせたらどうだ。朝起きてから寝る時までずっとあればかりやっているじゃないか。あんなことをさせているから、ロキはいつまでも話し出さないんだぞ」
「盗賊が近くにいるんだ。あの音を聞きつけられたら我々まで見つかるかもしれないぞ。冗談じゃない」
すると、母親が言い返しました。
「あんたたち、あの子からあれをとりあげてごらんよ。それはものすごく泣いて、一キロも先まで聞こえるような声で騒ぐんだからね。それのほうが盗賊に気づかれて危ないじゃないのさ。いいから、あたしたちにはかまわないで。ロキはちょっと口が遅いだけさ。そのうちちゃんと話し始めるんだから」
フルートたちはなんだか何も言えなくなってしまいました。男の子は、黄色いボールを転がしては拾いあげることを、本当に飽きることもなく繰り返しています。リンリンリン……という鈴の音が通りにいつまでも響きます。
その時、そのすぐ近くで突然大きな音がしました。路上に倒れて重なっていた丸太が転げ落ちたのです。少しも危険はありませんでしたが、子どもはびくりと飛び上がると、母親の元に飛んで帰りました。片手には黄色いボールを握ったまま、もう一方の手でしっかりと母親のスカートを握りしめます。
それを見たとたん、少年たちは言いようのない切なさに襲われました。ロキという名の小さな男の子。名前は同じですが――もしかしたら本当に、北の大地のロキの生まれ変わりなのかもしれないのですが――ここにいるのは、まったく別の男の子なのだと痛感させられてしまったのです。
よしよし、と母親が子どもを抱き上げました。
「びっくりしたねぇ、ロキ。大丈夫よ。さ、パパのところに行こうね。ロキがいなくなったから、パパも心配して捜しているのよ」
一言も口をきかない息子に優しく話しかけながら、来た方向へと戻っていきます。
フルートとゼンとポチは、黙ってそれを見送りました。オリバンが近づいてきて声をかけます。
「大丈夫か?」
ぶっきらぼうな中に心配する響きがあります。
フルートは小さく苦笑しました。
「初めからわかっていたことです。あの子はぼくたちのロキじゃないから……」
そこまで言ってフルートはまた黙り込みました。切ない目で母子が消えた横道を眺め続けます。ポチはしょんぼりと耳と尻尾をたらし、ゼンは仲間たちの誰にも表情を見られないように顔を伏せていました。
少年たちがなぜそんなにしょげているのか、集まっている町の男たちにはわけがわかりません。不思議そうに少年たちとオリバンを見比べています。
すると、ポポロがフルートの前に来ました。フルートの顔を見上げながら、そっと話しかけます。
「でも……ロキは狙われているわ。守ってあげるわよね……?」
フルートは少女を見ました。悲しい目で、それでもにっこり笑って見せます。
「もちろんさ……。魔王になんて手出しさせないよ」
気がつけば、いつの間にかポチのわきにはルルが、ゼンの隣にはメールが立っていました。何も言わずに少年たちのすぐそばにいます。
オリバンは思わず溜息をつきました。少年たちの気持ちは痛いくらいわかる気がするのですが、どうしてやることもできません。しかたがないので、また町の男たちに話しかけました。
「おまえたちの隠れ家には町長もいるな? 会わせてくれ」
「は、こちらです」
町の男たちが先に立って歩き出しました。町の中を抜け、裏門から町の外に出て森へ向かいます。オリバンとユギルがそれに続き、フルートたちも馬を引きながら後についていきました――。
フルートは夢を見ていました。
広がっているのは、どこまでも続く白い氷原と、日差しを返して光る氷の頂の光景です。頭上に広がるのは雲を浮かべた青空。白と青以外の色はまったく目に入りません。北極点に広がる大陸、北の大地の風景でした。
灰色の巨大なトナカイの背に、フルートたちは乗っていました。キタオオトナカイの姿のグーリーです。凍りついた白い大地を、ひたすら北に向かって走り続けています。
と、急に空が灰色に曇って雨が降り出しました。北の大地に雨が降ることは希有(けう)です。北の大地を溶かして全世界に天変地異を起こそうとしている魔王の仕業でした。
フルートは自分の目の前に座る小さな少年に、自分のマントを外して着せかけようとしました。雨から守ろうとしたのです。
すると、少年が怒った顔で振り返りました。白い毛皮の服を着ていて、大きな灰色の瞳をしています。フードからのぞく髪は茶色、フードの両側から突き出ているのも、茶色い毛におおわれた長い耳です。北の大地の厳しい自然に適応してきたトジー族は、敵から身を守るために、ウサギのような耳をしているのでした。
「マントを脱いじゃダメだよ、フルート兄ちゃん。この寒さだぞ。濡れたら凍傷になるじゃないか」
まだ十かそこらの年齢に見えるのに、少年はいっぱしの言い方をしていました。フルートは困ったように首をかしげました。
「でも、君が濡れちゃうじゃないか。ぼくは魔法の鎧を着てるから平気なんだよ」
「その鎧が不調なんだろ! いいから着てなよ!」
怒ったように言いますが、そのウサギのような耳は雨にすっかり濡れて震えていました。彼が着ている毛皮の服は雨を防ぐのには向いていません。長い毛がしっとりと濡れていきます――。
フルートは自分のマントを広げて、その中に少年をくるみ込みました。驚いた顔をする少年に笑って言います。
「これならいいだろう? ぼくも君も、どっちも濡れなくなるんだから」
少年は真っ赤な顔になってうつむき、やがて、ぴったりとフルートに体を寄せてきました。
その様子を見て、フルートの後ろからゼンが笑いました。
「甘ったれめ、小さな子どもみたいだぞ、おまえ」
少年はまた赤くなりました。マントから頭を突き出して、いーっとゼンに顔をしかめて見せます。ゼンはいっそう大声で笑い出し、ポチがそれをたしなめるように言いました。
「ワン、いいんですよ。ロキは本当にまだ子どもなんだから。無理して大人なふりなんて、しなくていいんです」
大トナカイは北のサイカ山脈目ざして走り続けていました。北の大地の空気は身を切るような寒さですが、マントの中は暖かです。
「フルート兄ちゃんって、なんか父ちゃんみたいだな……」
とロキが言って、フルートの鎧にもたれかかってきました。フルートの胸に体重がかかってきます。フルートは人よりも小柄ですが、マントの中の少年は、それよりもっと小さくて頼りなげです。
そんな様子をフルートとゼンとポチは見守り続けました。マントの隙間からのぞくロキの顔は、安心しきったように目を閉じていました。
守ってあげよう、とフルートたちはことばには出さずに考えました。ロキを。厳しい世界の中で必死に生きてきた、この小さな少年を。
北の大地に広がる雪と氷の景色は、どこまで行っても目もくらむような白一色です――。
そのとき、ふいにゼンの声が聞こえました。
「起きろ、フルート! 襲撃だ!」
フルートはたちまち目を覚まして跳ね起きました。
そこはコネルアの町のすぐ外に広がる森の中でした。山の斜面に掘られた洞窟の入り口で、フルートは土壁にもたれて眠っていたのです。同じように仮眠を取っていたメールやポポロ、ポチやルルも飛び起きます。
外に飛び出した一行の目の前で、空が真っ赤になっていました。今は真夜中です。朝焼けが空を染める時刻ではありません。
森の木々を透かした向こうで、石壁に囲まれた町が激しく燃え上がっていました。炎が火の粉と黒煙を噴き上げながら空を焦がしています。
コネルアの町が炎上していたのでした。