ゼンが城壁の上に立っていました。両手で高くかかげているのは、ポポロの華奢な体です。戻ってこい、ポポロをここから落とすぞ、と叫んでいます。
何か考えるより早くフルートは動き出していました。真っ青になって、城壁へ駆け戻り始めます。高い城壁の上に、何も守るものもなく立つゼンとポポロの姿は、強い風にあおられて、今にも転落しそうに見えます。
と、フルートは転びました。降り積もった雪に足を取られたのです。すぐに雪を跳ね飛ばして立ち上がり、また駆け出します。大声で城壁に向かってどなります。
「ゼン――! 馬鹿な真似はやめろ、ゼン――!!」
「来た」
雪原をこちらに向かって駆け出したフルートを見て、ゼンが言いました。頭上高く持ち上げたポポロに向かって言います。
「あいつが来たぞ、ポポロ。見えるか?」
「うん」
とポポロは答えました。高い城壁の、さらに一番高い場所で、ゼンに高々とかかげられながら、ポポロはフルートを見つめ続けていました。フルートはこちらへ走ってきます。何度も雪の中に転びながら、それでも、必死で駆けつけてきます。その姿が次第に近づいてきます。
「あたしを落として」
とポポロは言いました。泣いていません。ただ緑の瞳でフルートを見つめ続けながら、しっかりした声で言い続けます。
「大丈夫よ。フルートはきっと助けてくれるわ。心配ない。だって――それがフルートだもの」
彼らのいる場所から地上までは二十メートル近くあります。たとえ下で受け止めてもらったとしても、ポポロもフルートも絶対に無事ではすまない高さです。それでも、ポポロの信頼の声は揺らぎません。
ゼンは泣き出しそうな顔を力一杯歪めて、にやりと笑い顔になりました。ああ、と答えます。
「あの馬鹿は助けに来るさ。それに、金の石だって、おまえを放っておきゃしねえ。あいつはフルートが誰を大切にしてるか知ってるからな……。いいか、ポポロ。必ずあいつを止めろよ」
「うん」
ポポロはまた言いました。迷いも恐怖もない声です。強い風にあおられながら、フルートを見つめ続けます。フルートはもう、城壁のすぐ近くまで駆けつけていました。真っ青になったその顔もはっきり見えるようになっています。
ポポロは、ほほえみました。ゼンに言います。
「落として」
ゼンはポポロを抱いた腕を大きく動かしました。華奢で小柄なポポロです。怪力のゼンにしてみれば、木の葉のような軽さです。ポポロを宙に大きく放り出します。
それを後ろから見ていたメールとルルとポチが、いっせいに悲鳴を上げました――。
フルートは息が止まりそうになりました。
見上げるような城壁の上に立つゼンが、本当にポポロを投げ落としたのです。ポポロの長い衣と袖が風にはためいて、黒い翼のように宙に広がるのが見えました。
少女が落ちてきます。空から急降下してくる鳥のように、まっすぐに墜落してきます。その瞳は、じっとフルートを見つめ続けています。
フルートは両手を伸ばしました。ポポロを受け止めようと、必死で走り続けます。ポポロが落ちていく地点が見えます。そこまではまだ、数メートルの距離があるのです。走りきれません。間に合いません。
すると、フルートの後ろに、ふいに金色の少年が姿を現しました。淡い光に包まれたまま宙に浮いています。走るフルートの肩越しに片手を突き出して、短く叫びます。
「はっ!」
とたんに金の光がふくれあがりました。フルートの胸元でペンダントの金の石が輝いたのです。落ちてくる少女を包むように広がります。
すると、何か見えない力の抵抗を受けたように、ポポロの墜落する速度が鈍りました。停まってはいません。落ち続けています。ただ、それがゆっくりになりました。
その間にフルートはポポロの落下地点に駆け込みました。両腕を広げて、落ちてくる少女を受け止めます。その腕と胸の中に少女の体が飛び込みます。広がった黒い裾と袖が、羽をたたむように下りていきます。
とたんに、フルートはひっくり返りました。支えきれなかったのです。少女を抱いたまま仰向けに倒れてしまいます。そんな二人を降り積もった新雪が受け止めます――。
フルートは、がば、と跳ね起きました。腕の中の少女をのぞき込みます。
「ポポロ! ポポロ、大丈夫――!?」
すると、少女が顔を上げました。怪我はありませんが、その宝石のような瞳は涙でいっぱいになっていました。黒い袖に包まれた両腕を広げて、いきなりフルートの首に抱きつきます。
面くらうフルートに、ポポロが言いました。
「行かせない――絶対に、行かせない! 絶対に、願い石のところになんか行かせないんだから――!」
ポポロは泣き出しました。頬を次々と伝っていく涙が、押し当てたフルートの頬も濡らしていきます。
「あたしは――あたしは、フルートのそばにいたいの。フルートが誰を好きだってかまわない。あたしのことを好きでなくてもかまわない。でも、あたしはずっと、フルートと一緒にいたいのよ!」
それは、フルートのそばにいさせてもらいたい、という遠慮がちな言い方ではありませんでした。そばにいたい、という主体的なことばです。ポポロの強い気持ちそのものでした。
大きな瞳から涙をこぼし続けながら、ポポロはフルートの目をのぞき込みました。少年は驚いて信じられないような顔をしています。少女は泣きながら笑って見せました。
「フルート。あたしはあなたが好き。あなたが誰よりも好き――。だから、行かないで。消えてしまわないで。あたしはずっと、あなたのそばにいたいの。フルートが消えてしまったら、あたしは、あなたのそばにいられないわ――」
ついに声が震えました。ポポロは感極まって、わあっと泣き出してしまいました。フルートの胸で激しく泣きじゃくります。その両腕はフルートの背中に回されていました。放すまい、決して行かせまい、と強く抱き続けています。その手や腕に触れるのは、暖かなフルートの体です。堅い鎧の手応えではありません……。
その様子を、ゼンは胸壁の上に立って見下ろしていました。雪の中でポポロがフルートにしがみつき、泣きながら引き止めています。
すると、ゼンの後ろで、ふいにメールが歓声を上げました。
「来た! 花たちだ――!」
城の大広間に飾られていた大量の花たちが、メールの呼びかけに応えて、ようやく駆けつけてきたのです。城の扉を押し開け、窓を突き破って、虫か鳥の大群のように、うなりながら飛んできます。
「花鳥!」
とメールは叫びました。花たちが空を飛びながら寄り集まり、巨大な鳥へと形を変えます。メールと犬たちはその背中に飛び乗りました。ゼンも、胸壁の上から花鳥の上に飛び移ります。そのまま、城壁の下へ舞い下ります。
花鳥が着地するより早く、ゼンは地面に飛び降りました。雪の中に座り込んでいるフルートとポポロのすぐそばに立ちます。
とたんに、フルートが、かっと顔を赤くしてゼンをにらみました。怒ったのです。泣いているポポロを押しのけ、ゼンに飛びついて拳を握ります。
「何を考えてる、ゼン!? ポポロを本当に投げ落とすなんて――! ポポロを殺す気だったのか!?」
ゼンの襟首をつかみ、本気で殴りつけようとします。その腕に後ろからポポロが飛びつきました。
「違うの、フルート! 違うのよ! あたしがゼンに頼んだの! フルートのところまで行かせて、って――!」
フルートは驚いて、目の前の友人を改めて見ました。
ゼンは口を一文字に結んで立っていました。両手はたらしたままで、殴ろうとしたフルートに応戦する様子もありません。その明るい茶色の瞳が、ぼろぼろと大粒の涙をこぼしているのを見て、フルートはあわててしまいました。ゼンが泣いてます。涙があれほど嫌いなゼンが、涙を隠すこともせずに、フルートを見つめて泣いているのです。
と、食いしばった歯の奥から、ゼンがすすり泣く声を上げました。ゼンの顔が歪み、ますます大量の涙が頬を伝っていきます。思わず声が出なくなったフルートに、ゼンは肩を震わせながら言いました。
「どうして……どうしていつまでもわかんねえんだよ、おまえは……。ワジに刺されて死にかけた俺を、絶対に死なせねえ、って言って、黄泉の門の前から連れ戻したんだろう? 俺たちが死ぬのは、絶対に嫌なんだろう……? どうして、俺たちがおまえに同じ気持ちでいるって、考えられねえんだよ? 俺たちだって、おまえが死ぬのは嫌なんだぞ。そんなのは絶対に嫌だから――だから、おまえと一緒に戦ってんだぞ――」
ゼンはまた短いすすり泣きの声を上げました。
フルートは、茫然とそんなゼンを見つめ続けました。こんな泣き方をするゼンを見るのは初めてです。なんと答えていいのかわからなくて、うろたえてしまいます。
すると、ふいにゼンが手を伸ばして、フルートの両手首をつかみました。目の前に持ち上げて言います。
「おまえに手は二本しかない。確かにその通りだよ!」
と乱暴な口調に変わって言うと、フルートの手首を放して、今度は自分の手を広げて見せます。
「でもな、俺にだって手は二本ある! 世界を守るのに手が二本じゃ足りねえって言うんなら、俺の手を貸してやる! 俺の手だけで足りないってんなら、メールだってポポロだって手を貸すぞ。ポチやルルなら、手の代わりに牙や風の体を貸してくれらぁ! だから――だから、フルート――」
ゼンはまたすすり泣く声に戻りました。おしゃべりで、いつもあんなに口の立つ彼が、想いをことばにできなくなっています。うなだれて、また涙を流します。
「行くなよ、フルート……行くな……。俺たちを置いていくなよ……」
同じことばを繰り返すことしかできません。フルートよりほんの少し背が低いだけの彼が、身長よりも、ずっと小さくなってしまったように見えます。
「ゼン……」
友人の名前をつぶやいた瞬間、フルートの胸に言いようのない想いが、どっとあふれてきました。熱いものが心をいっぱいに充たし、外にこぼれだしてきます。
それは、ゼンやポポロにも負けないくらい大粒の涙でした――。