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第8巻「薔薇色の姫君の戦い」

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107.決断

 ゼンは茫然とフルートの声を聞いていました。

 頭の中がしびれてしまったように、何も考えられなくなっています。

 フルートの声だけが、耳の底で繰り返されています。

 金の石と一緒に光になることを。そして、デビルドラゴンを消滅させて、この世界とみんなを守ることを――。

 フルートは願い石に願ったのです。自分の本当の願いを語ったのです。それが、自分にどんな結末を招くか承知の上で。

 占者のユギルが見たという聖なる光が、ゼンにも見えた気がしました。透き通った強い光です。あまりにも強烈で、あまりにも清らかで、その中ではあらゆるものが存在を続けることができません。フルートの姿が光の中に溶け、光とひとつになって影の竜を消し去りに行く幻が見えます。

 恐ろしいほどの空白がゼンに押し寄せてきます。自分自身の半分が、どこかへ消えていこうとしているようです。

 

 そのとき、空にうなりが響き渡りました。デビルドラゴンの咆吼です。声だけが遠い雷鳴のように叫びます。

「願ワセルモノカ――金ノ石ノ勇者! 我ノ消滅ナド願ワセルモノカ――!」

 すると、フルートが顔を上げ、空に向かって叫び返しました。

「おまえには何もできないぞ、デビルドラゴン! おまえは金の石とポポロの聖なる光に焼かれて力を失った! ぼくを止めることは、おまえにはできない!」

 きっぱりした声に、遠い雷鳴が止みました。ドラゴンの声はもう聞こえません。

 城壁を、雪原を、沈黙が包みました。涙をこぼす者たちは、泣き声を上げることさえできません。眼下の中庭をオリバンとユギルが門目ざして走り続けていました。それも音を奪われた遠い映像のようです。

 

 すると、突然ポポロが動き出しました。胸壁に手をかけ、石積みに足をかけてよじ登ろうとします。と、その靴先が雪に滑りました。仰向けに倒れそうになります。

 ゼンはとっさに、それを抱きとめました。無意識です。ポポロを受け止めても、それ以上は何もできません。すると、ポポロは跳ね起きて、また壁に取りつきました。必死で上に登ろうとします。

「お、おい……」

 ゼンが思わず声を出すと、ポポロが振り向きました。

 そのかわいらしい顔に、涙の痕はくっきりと残っています。けれども少女はもう泣いていませんでした。瞳を緑の炎のように燃え上がらせながら、ゼンに向かって叫びます。

「あたしをこの上に連れて行って!」

 ゼンはたじろぎました。いつもおとなしくて泣き虫なポポロです。本当に引っ込み思案で、仲間たちが賑やかに話し合っているときにも、声も出さずに、ひっそりと控えています。その彼女が、今、信じられないほど強い顔と声でゼンに言っていました。

「あたしをこの上に上げてちょうだい! ――早く!!」

 気がつくと、ゼンは言われたままに動いていました。ポポロを抱いて、胸壁の一番高いところまでよじ登っていきます。そこは、城壁の上から、さらに二メートルほど高い場所でした。幅はたった数十センチしかありません。はるか眼下の雪原から、冷たい風が吹き上げてきます。

 その風に黒い衣の裾と袖をはためかせながら、ポポロは声を限りに呼びました。

「フルート――!!!」

 赤いお下げ髪が風に狂ったように舞い踊っています。呼びかける先、一面の白銀の世界の中に、三人の人影が見えます。赤い髪とドレスの願い石の精霊、黄金の髪の小さな金の石の精霊、そして、金色の髪を風に吹かれながら静かに立ち続けているフルートです。フルートは、願い石の精霊を見上げ続けています。

「フルート!!!」

 ポポロはまた呼びました。それでもフルートが振り向こうとしないのを見ると、唇をかみ、突然城壁から下へ身を躍らせようとします。

「危ねえっ!!」

 ゼンが仰天して、とっさにそれを抱きとめました。もう少しで、ポポロは本当に城壁から飛び降りるところだったのです。彼らが立っている頂上から下の雪原までは、十数メートルの高さがあります。落ちれば、とても無事ではすみません。

 すると、それを振りほどこうとしながら、ポポロが叫びました。

「行かせて! あたしを行かせて! フルートを止めなくちゃ――!」

「無茶言うな! ここから落ちたら死ぬぞ!」

 とゼンがどなり返します。

 すると、大人のように太い少年の腕をつかみながら、ポポロが真っ正面からゼンを見ました。

「フルートを止めなくちゃいけないのよ。他の方法じゃ間に合わない。あたしがここから飛べば、必ずフルートは来るわ! 願い石に願いかなえてもらうより前に、絶対に、こっちに来るのよ!」

 ゼンは、愕然とポポロを見つめました。無茶苦茶です。――ですが、ポポロの言うとおりでした。ポポロが城壁から飛び降りれば、フルートは必ず来ます。何があったって、どんなことが起きていたって、フルートはポポロを助けに駆けつけてくるのです――。

 胸壁の下で、ルルとメールとポチが仰天していました。

「やめて、ポポロ! 馬鹿な真似しないで!」

「ゼン、ポポロを止めな!」

「ワンワン、ポポロ、だめですよ――!」

 口々に引き止めます。

 けれども、ポポロはゼンの腕をつかんだまま、はっきりと言いました。

「あたしをフルートのところへ行かせて、ゼン」

 

 ゼンが顔を歪めました。今にも泣き出しそうに目を細めます。心の奥底で、細く細く残り続けていた最後の想いが、ゼンを揺さぶります。ほんの一瞬、ポポロを抱きしめて、そのまま胸壁から城壁の通路へ飛び下りてしまいたい、と考えます。

 けれども、ゼンは顔を上げ、雪原を見ました。フルートが精霊たちと一緒に立っています。その姿はなんだか本当に神話めいて見えていて、とても現実のものとは思えません。そのまま、フルートが彼らと一緒に姿を消していきそうな気がします。

 ゼンはぎりっと奥歯をかみしめました。遠い親友の姿をにらみつけながら、低い声で言います。

「わかった。フルートのところに行かせてやる――」

「ゼン!?」

 胸壁の下でメールたちがまた仰天しました。その目の前、高い場所で、ゼンがポポロの小柄な体に両腕を回して抱き上げました。まるで重さを感じていないように軽々と頭上まで差し上げると、雪原に向かって大声を上げます。

「フルート!! フルート、戻ってこい!! ポポロをここから落とすぞ――!!!」

 

 

 願い石の精霊は、フルートの願いを聞き終えると、隣に立つ少年に目を移しました。なんの感情もこもっていない声で言います。

「デビルドラゴンを消滅させる願いは、そなたたち二人が揃って初めてかなう夢だ。そなたの願いも語るがいい、守護の」

 と、黄金の髪と瞳の小さな少年を見下ろします。少年は、小柄なフルートよりももっと背が低くて幼い姿ですが、ひどく年取った人のような、不思議なまなざしをしていました。その目を、願い石の精霊ではなく、フルートに向けて尋ねます。

「本当にいいのか、フルート?」

 フルートは苦笑を揺らしました。

「今さら確認するなよ。半年もの間、ずっと話し合って決めたことじゃないか。ぼくらは光になって、デビルドラゴンを消滅させに行く。それが、金の石の勇者として、ぼくが最後にすることだ」

「あんなに、君の友だちが呼んでいるのに?」

 と金の石の精霊はまた尋ねました。城壁からフルートを呼ぶ声は、彼らが立っている場所まで響いてきます。もうなんと言っているのかまでは聞き取れませんが、確かにフルートを引き止めようとしています。

 フルートは今度は微笑しました。それには答えずに、代わりにこう言います。

「君はぼくの願いを拒めないよね、金の石。君は守りの魔石だ。ぼくが世界を守りたいと言ったら、君には、絶対にそれを拒否することはできないんだ」

「ぼくに命令するつもりか?」

 精霊の少年が金の目に強いものをひらめかせました。口調がきつくなります。フルートは穏やかに笑いました。

「石に命令することはできないさ。でも、石は自分の役目に従わなくちゃいけない。そうだろう? 聖守護石」

 自分の本当の名前で呼ばれて、金の石の精霊は、じっとフルートを見つめました。確かめるように、また言います。

「本当にいいんだな、フルート? 本当に、後悔しないな?」

「しないよ」

 フルートは笑顔のまま首を振って見せました。

 

 雪原に仲間の呼び声は響き続けています。ポポロがフルートを呼んでいます。ゼンの声や、ポチの吠える声も聞こえています。けれども、フルートはもう振り向きませんでした。願いかなうその瞬間まで、フルートはもう振り向くつもりがなかったのです。

 代わりに城壁を見たのは、金の石の精霊でした。黙ったまま、少しの間そちらを眺めていましたが、急にその金色の目を見張りました。

「え……?」

 めったに感情を見せない精霊の少年が、はっきりと、驚いた表情をしていました。

 それにつられて、フルートもつい城壁を振り向いてしまいました。

 ロムド城は、斜めからの朝の光を浴びてそびえていました。その城壁の上に、人の姿があります。ゼンです。凹凸の繰り返しになった胸壁の上に仁王立ちになって、フルートの方を見ています。その両腕が、何かを高く差し上げています。雪原を吹き渡り、城壁に沿って吹き上げる風に、黒いものが激しくはためていています。

 それが何なのかわかったとたん、フルートは愕然としました。フルートの隣で金の石の精霊も驚いて立ちつくしています。それは人間でした。黒い衣と赤いお下げ髪を風に吹かれた、ポポロだったのです。

 ゼンの声が雪原に響きました。

「フルート、戻ってこい!! ポポロをここから落とすぞ――!!!」

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