「ザカラス城の地下牢でね、トウガリに言われたんだよ」
とフルートは話していました。
一面に降り積もった雪野原に、朝日が銀にきらめいています。その中に立つフルートの姿は遠いのに、話す声は城壁の上にいる仲間たちの耳にはっきりと聞こえてきます。
「人間には手が二本しかないから、それでつかめる分量は決まっているんだ、って。誰も彼もを助けたいと思っても、絶対に助けきれないんだ――ってね」
フルートの声は静かでした。けれども、その奥に深い悲しみがありました。優しすぎる勇者は、いつでも皆を助けたいと思ってしまいます。たとえ敵でも、どれほど憎むべき相手でも。世界中にどれほどいるのかわからない、すべての人々さえ助けたいと思ってしまうのです。
けれども、ひとりの人間にできることには限りがあります。世界中の人など助けきれないことは、フルートにだってわかっていたのです。
フルートは話し続けました。
「願い石の戦いのときには、本当に、別の道があるんじゃないかって気がしていたんだ――。願い石に願わなくてもデビルドラゴンを消滅させる方法が、どこかにあるんじゃないか、って。だけど、金の石が目覚めて魔王の復活を知らせてきたとき、それを見ながら思い知ったんだよ。何度倒しても、なんどやっつけてもだめなんだ、って。デビルドラゴンがいる限り、また魔王が生まれてきて人々を苦しめる。ううん――君たちを、苦しめるんだ――」
フルートの声がふいに震えました。遠くにいる少年が苦しそうに顔を歪めたのが、仲間たちには見える気がしました。
「いつだって、ぼくたちの戦いは命がけになる。そんなの平気だ、ってみんな言ってくれるけれど、そんなわけない。今回のことだけを考えたって、ゼンは狭間の世界に行った。ポチは人間にされて砂漠で死にかけたし、ザカラス兵の矢で死にそうにもなった。ポポロはデビルドラゴンにつかまって、もう少しで魔王にされそうになった。そんなの――全然平気じゃないよな? ぼくは嫌なんだ。君たちがデビルドラゴンに殺されていくのを見るのは、絶対に嫌なんだ――!」
仲間たちは城壁の上で声もなく立ちつくしていました。胸壁の間から、雪原にたたずむフルートを見つめ続けます。そのすぐ向こうには、赤い炎のようなドレスを着た願い石の精霊が、金の石の精霊と一緒に立っています。
「ぼくの魔法の鎧は、ぼくが大人になるまでは着られない」
とフルートが言いました。声の調子が変わっていました。自分自身の感情を突き放すような、どこか冷めた口調です。
「ぼくは、自分が大人になって強くなるまで、待っていることができないんだ。今のこの自分でできることを見つけて、やらなくちゃいけない。だけど、ぼくの手は確かに二本しかない。その手でみんなを守りきれないなら、ぼくのすべてを――この体も命も全部を使って、守るしかないだろう?」
それは、願い石を使ってデビルドラゴンの消滅を願う、という意味でした。自分自身がこの世界から消えてしまってかまわないから、光になって闇の竜を打ち消し、この世界の人々を守るんだ、ということなのです。
ポチの頭の中が真っ白になっていきました。
「馬鹿野郎!!」
「馬鹿者!!」
ゼンとオリバンが同時にどなります。
ゼンは胸壁から身を乗り出してわめき続けました。
「そんなの――そんなの、絶対に許さねえぞ!! おまえひとりにそんな真似をさせるか!! 行くんなら、俺も連れていけ――!!」
すると、フルートが答えました。
「絶対に連れていかないよ。君はメールと結婚して、次の渦王にならなくちゃ」
笑うような声でした。フルートのほほえむ顔が一同の目の前に浮かびます。
オリバンは自分の肩にしがみついていたルルにどなりました。
「風の犬になれ! あいつのところへ飛んで止めるのだ!」
すると、犬の少女はびくりと大きく身をすくませました。泣き声になって答えます。
「できないわ――! 首輪は――フルートが持っていってしまったの――!」
一同はまた、愕然としました。そうです。風の首輪はありません。ピランから頼まれた、とフルートが預かっていったのです。
すると、フルートが身をかがめました。足下の雪に何かを置きます。
「ごめんね。君たちの首輪はここに置くから、後で取りに来てね」
一同はうめきました。フルートは本当に頭の良い少年です。その彼が本気で仲間たちをあざむこうとしたとき、どれほど周到に準備を整えて実行するのか――。それを彼らは今、初めて目の当たりにしているのでした。
オリバンはポポロを見ました。あいつを魔法で止めろ、と目で言いますが、魔法使いの少女は泣きながら首を振りました。ユギルが言います。
「だめです。ポポロ様は今、魔力を使い果たしていて、魔法がお使いになれません」
「花たち! 花たち――!!」
メールが涙を浮かべて必死で呼びかけています。けれども、城の花はやっぱりメールの元へやってきません。雪におおわれた大地から飛んでくる花もありません。
ユギルは唇をかんでいました。占者としての力が回復していなかった彼は、フルートが実行に移るまで、この危険な計画に気がつくことができませんでした。仲間たちに止める力がないことも、今ならばユギルに先読みされないことも、フルートはすべて計算ずみだったのです。
オリバンは身をひるがえして駆け出しました。
「来い! 下りて止めるぞ!」
と城壁の階段を駆け下りていきます。ユギルがそれに続きます。 けれども、城壁の内側につづら折りになった階段は長く、そこから城壁の外に出る門まではまた距離があります。そして、そこからフルートがいる野原の真ん中までは、さらに相当の距離があるのです。どんなに全速力で走っていっても間に合わないのは、見ただけでわかりました。
ルルがオリバンの肩から飛び降り、また胸壁に駆け戻ってきました。ポポロが泣きながら叫んでいました。
「フルート! フルート、お願い、待って! 行かないで……!」
激しいすすり泣きに声がとぎれてしまいます。
ポポロの魔法使いの目は、フルートの表情を間近に見ていました。本当に穏やかな顔です。仲間たちがどれほど呼びかけても表情を変えません。今、ポポロが涙にむせびながら呼びかけてもそうなのです。フルートは、すでに堅く心を決めてしまっているのでした。
すると、フルートの声が静かに話しかけてきました。
「ごめんね、ポポロ。本当は黙ったままでいくつもりだったんだ。何も言わないで……何もしないで……だけど」
フルートは小さく笑いました。遠い場所にある顔が、優しくポポロにほほえみかけていました。
その瞬間、ポポロは気がついてしまいました。昨夜、城の屋上で雪の中の月を見ながら、暖かく自分を抱いてくれたのは、あれは、フルートのさようならだったのだ、と――。
「フルート!!!」
ポポロは叫びました。普段の彼女からは想像もできないような大きな声で少年を呼びます。
「いやよ、フルート!! 行っちゃいや!! 行っちゃいや――!!!」
けれども、少年は笑顔を変えません。
優しい目で城壁の上の小さな姿を見上げながら、静かに話し続けます。
「ねえ、ポポロ、君はよく自分の魔法に周りの人を巻き込んでしまう、って言って泣いてたけど……、その気持ち、今ではぼくにもよくわかるんだよ」
うつむくようにしながら、自分の胸に片手を当てます。
「ぼくの中にある願い石を狙って、ものすごい数の闇の怪物が襲ってくる。ぼくひとりを食べるならまだいい。だけど、奴らは必ず、ぼくの周りにいる人たちまで襲うんだ。――ぼくはシルの町に帰れない。そんなことをしたら、ぼくを追ってきた闇の怪物が、必ずお父さんやお母さんや、町の人たちを襲うからね。ぼくはそこにいるだけで怪物を呼び寄せるんだ。ぼくはどこにも行けない――。今ここで、願い石に決着をつけるのが、一番いい方法なんだよ」
フルートの声は静かでした。泣くことも嘆くこともしていません。
遠い目で城壁の上を見つめながら、最後にこう言います。
「ごめんね、ポポロ。やっぱり君を泣かせちゃった」
ポポロは両手で口をおおって立ちすくみました。息が止まりそうでした。心臓も停まってしまいそうです。泣きながらフルートを見つめることしかできません。
すると、フルートが背中を向けました。ゆっくりした足取りで、また雪の中を歩き出します。その行く手では、願い石の精霊と金の石の精霊が待っています。
ゼンが胸壁から身を乗り出してどなりました。
「馬鹿野郎!!! 行かせるか!!! 行くな、この馬鹿!!! 行くな――!!!!」
けれども、ゼンがいる場所とフルートの間には、百メートルあまりの距離が横たわっています。フルートは、遠く離れた雪原を歩いています。
ポチはただ茫然としていました。声が出ません。何も考えられません。ただ願い石の精霊へ近づいていくフルートを見つめ続けます。
メールは泣きながら呼び続けていました。花! 花たち! お願いだから飛んできてよ――! 身を切るような風が吹き続ける冬の中、花のすべて枯れ果てた世界へ呼びかけ続けます。
ルルは中庭を走っていくオリバンとユギルを見下ろしました。外に続く門へ向かって走っています。間に合いません。ルルは目をつぶってしまいました。涙があふれてきて止めることができません。
フルートが立ち止まりました。その前には願い石の精霊と金の石の精霊が立っています。
赤いドレスの女性がフルートを見下ろして言いました。
「そなたの願いを語るがいい」
フルートは静かにほほえみ返しました。
「金の石と一緒に光になることを。そして、闇と悪の権化のデビルドラゴンを完全に消滅させて、この世界とみんなを守ることを」
少しのためらいもない声でした――。