魔法使いのジーヤ・ドゥはザカラス城の中を走り回っていました。
城を繰り返し襲っていた揺れは収まって、代わりにいたるところに緑の蔓草と花が絡みついています。蔓草が城全体を包み込み、今にも崩れそうになっていた城を押さえたのです。金の光が城中にあふれたとたん、ジーヤ・ドゥが犬に襲われたときの怪我も治ってしまいました。どれもこれも、金の石の勇者たちのしわざに違いありませんでした。
通路や壊れかかった部屋に、城に務める家臣たちが何人もいました。皆、夢でも見ているような顔で城と蔓草を眺めています。命拾いした安堵感に、座り込んで動けなくなっているのです。ジーヤ・ドゥはいっそういまいましい気持ちになると、闇のよどみそうな場所を探して走り続けました。黒い衣の袖と裾がはためきます。
すると、ふいに声が話しかけてきました。
「我ハココダ、じーや・どぅ」
崩れかけ、びっしりと蔓草におおわれた階段の陰に、黒いものが羽ばたいていました。実体を持たない四枚翼の影の竜です。相変わらず小鳥ほどの大きさをしていますが、その姿は半ば透き通っていました。以前より、ずっと影が薄れてしまっているのです。
「ど、どうしたのだ!?」
とジーヤ・ドゥは驚いて尋ねました。
「守リノ光ハ聖ナル光ダ。我ヲ打チ消スチカラヲ持ッテイル」
とデビルドラゴンが答えました。姿は小さく薄らいでいても、地の底から這い上がってくるような声の調子は変わりません。
「消滅してしまうのか!? 天下のデビルドラゴンが!? そんな馬鹿な!!」
とジーヤ・ドゥはわめきました。デビルドラゴンに食ってかかります。
「貴様は約束したではないか! わしをこの世界の王にすると! ザカラス王より偉大で力ある王にすると! わしは天下を取るのだ! わしのこの強大な魔力で、世界中の人間をわしの足下にひれ伏させるのだ! そのために貴様に協力したのだぞ!」
「オマエ程度ノ魔法使イナラバ、世界中ノアチコチニイル」
と冷ややかにデビルドラゴンは答えました。
「我ガホシカッタノハ、ぽぽろダ。見ロ。タッタ一度ノ魔法デ、コウシテ城ヲ崩壊サセルコトモ、ソレヲ食イ止メルコトモデキル。コノチカラヲ、我ハ求メテイタノダ。ダガ、勇者ニ阻止サレタ――」
デビルドラゴンは、ふと口をつぐみました。何故あの娘は、あそこまで追い詰められながら自分を拒絶できたのだろう、と考えます。
愛する男を救うために、身も心も、自分の命さえも捧げる女というのは、デビルドラゴンがこれまで何度も見てきた一つのパターンでした。人間、特に女は、そんなふうに愛する者の方を攻められると、たちまち崩れるのです。男を救いたい一心から、それが誤りだということも承知の上で、闇の竜さえ受け入れてしまいます。
ポポロも、金の石の勇者を救うために自分から心を差し出すはずでした。強大な魔力ごとデビルドラゴンのものになるはずだったのに、ぎりぎりの瀬戸際でポポロは立ち止まったのです。今の自分のままでフルートの元へ行きたい、と言って。
フルートが何かしたわけではないのはわかっていました。フルートはただ、追い詰められて戦っていただけです。少女を助けに行けない自分を悔しがって、ぶざまに泣いていただけなのです。
ソレナノニ、何故――
悪の権化の竜には、人の心の醜さや残酷さと言った、闇の部分しかわかりません。ポポロの気持ちに訪れた変化は、どんなに頑張っても理解することはできないのでした。
ジーヤ・ドゥがわめき続けていました。怒りのあまり真っ青な顔色になっています。
「消滅など許さんぞ、デビルドラゴン! 貴様はわしを世界の王にするのだ! そう契約したのだからな!」
一度手が届きかけた夢を、もう一度手の中につかむことだけに必死になっています。
影の竜はつまらなそうに答えました。
「我ハ消滅ナドシナイ。ドレホド聖ナル光ガ強クテモ、コノ世カラ悪ガ消滅シナイヨウニ、私モマタ存在シ続ケルノダ」
そう。金の石がどんなに強く輝こうとも、デビルドラゴンを焼き尽くすことはできません。先のハルマス戦でポポロの光の魔法に焼かれ、今また金の石の光に再び焼かれて、力の大半を失ってしまっただけです。闇の竜を消滅させられるのは、不可能を可能にする願い石だけでした。
「ポポロはもう一度わしが捕らえてやる! わしを世界の王にしろ!」
とジーヤ・ドゥは繰り返しました。すでに正気を失いかけて、声も顔も笑うような調子になっています。黒い衣の袖をむやみにひらひらと振り回します。
デビルドラゴンは階段の下の暗がりで羽ばたき続けていました。
「今ハ不可能ダ。ソノタメノ、チカラガ足リナイ」
「力か! どうすれば貴様に力を与えることができる!? わしにできることならば、なんでもしてやるぞ!」
「ナンデモカ?」
と竜が聞き返しました。何故か、その声にはほくそ笑むような低い響きがありましたが、ジーヤ・ドゥは気がつくことができませんでした。甲高く笑って、こう答えます。
「そう、なんでもだ! 何が必要だ――生き血か!? 生け贄か!? 国中から何百人でもかき集めてきてやるぞ!」
「トリアエズ、一人アレバ、ソレデイイ」
答えた闇の竜の頭に、きらりと二つの赤い光が浮かびました。デビルドラゴンが目を開けたのでした。
とたんに、ジーヤ・ドゥは仰天しました。突然体が動かなくなったのです。何を――!? と聞き返そうとしましたが、声も出なくなっていました。
そんな魔法使いにデビルドラゴンは薄笑いの声で言いました。
「チカラハ、オマエカライタダクゾ、じーや・どぅ。我ニ吸ワレテ我ノ一部トナリ、契約通リ、我ト共ニ恐怖ノ王トナレ」
ことばと同時に、小さな竜の体から何十本もの闇の触手が飛び出しました。目の前に立つジーヤ・ドゥを突き刺し、その先端から生気を吸い取っていきます。
老人の体が激しく震えました。両手を突き出してデビルドラゴンにつかみかかろうとしますが、相手は実体を持たない影の竜です。指先が影の中をすり抜けます。
その痩せた体がみるみる細くなっていきました。しわの寄った皮膚にいっそう細かい深いしわが寄り、やがて、かさかさに乾いた木の枝のようになっていきます。それでもなお、老人は細くなっていきます。
と、耐えきれなくなったように、その体が形を失って崩れました。細かい砂になって床に広がり、そのまま消えていってしまいます。後には黒い衣だけが残りました。無数の触手に突き刺されたのに、衣には穴も傷も、まったく残っていませんでした。
さっきより少し影の濃くなった体で、竜は触手を収めました。四枚翼で羽ばたきながらつぶやきます。
「作戦ノ練リ直シダナ。マタ闇ノ心ヲ見ツケナクテハ」
デビルドラゴンは音もなく姿を消していきました。