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第8巻「薔薇色の姫君の戦い」

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90.夜明け

 ルルは、ザカラス城の中を大急ぎで引き返していました。

 ポポロの気配をたどって進んでいたルルですが、フルートが後をついてきていないことに気がついたのです。最後にフルートを見た場所まで戻って通路に鼻を押し当てます。

 フルートの匂いは、それ以上先へは進んでいませんでした。他の場所へ行った匂いも残っていません。

「来た道を引き返したんだわ……」

 とルルはつぶやいて、彼らが城に侵入してきた方向を眺めました。

 城を奥へ進むにつれて、ルルにはポポロの気配がはっきりとつかめるようになりました。心で呼びかけても相変わらず返事はありませんが、それでも、ルルにはポポロが確かにそこにいるのだと感じられます。

 もう少しなのに、何故フルートは引き返したりしたのか。トウガリが裏庭の地下牢に捕らわれていることを知らないルルは、困惑して通路に立ちつくしてしまいました。

 

 すると、出し抜けに男の声に話しかけられました。

「おまえを主人の元へ行かせるわけにはいかんな、化け犬」

 ルルは、びくりと飛び上がりました。鋭い聴覚や嗅覚であたりの気配を探っていたのに、こんな近くに人がいたとは感じられないでいたのです。

 それでもルルはすぐに気持ちを立て直しました。声の主へ鋭く言い返します。

「フルートは私の主人じゃないわ! それに、私は化け犬なんかじゃないわよ! 誰!? 姿を見せなさいよ!」

「わしか? わしはここだ――」

 通路の曲がり角の先から声がしていました。相変わらず人の気配はしません。それでも、ルルは一瞬で風の犬に変身すると、ごうっとうなりを上げて飛んでいきました。角を曲がるなり、風の牙で襲いかかります。

 とたんに、チーッと鋭い悲鳴が上がりました。茶色い翼の鳥です。ルルの風の牙の間でバタバタと羽ばたき、すぐにぐったりとなって通路へ落ちていきます。

「え、なに……?」

 ルルは目を見張りました。通路の陰に人影はありません。ただ、今かみ殺した鳥が絨毯の上に落ちているだけです。

 すると、突然また後ろから声がしました。

「こっちだ、犬!」

 はっとルルが振り向いたとたん、全身に稲妻のような激しい衝撃を食らいました。床にたたきつけられて、風の犬から普通の犬の姿に戻ってしまいます。あわてて跳ね起きましたが、もう一度変身しようとしても姿が変わりません。

 ルルの後ろに老人が立っていました。黒い長衣を着た痩せた男で、頭には一本の髪の毛もありません。年はとっていますが、妙にぎらぎらした鋭い目つきと表情をしています。肩の上には、ルルがかみ殺したのとそっくりの鳥を留まらせています。

 ルルはにらむように老人を見上げました。

「おまえが魔法使いのジーヤ・ドゥね。私に何をしたのよ」

「風の犬に変身する力を打ち消した。これでおまえはただの犬ころだ。ここで死ぬがいい」

 男の肩から、ばっと鳥が飛び立ちました。伝声鳥の片割れです。ジーヤ・ドゥは一羽の鳥に向かって言ったことばを、もう一羽の鳥の口を通じて遠くへ伝えていたのですが、その大事な鳥をおとりにして、ルルの能力を封じたのでした。

 

「風の犬じゃなくても私は強いわよ」

 とルルは言い返しました。低く身構えて牙をむきます。ルルは間もなく十六歳です。体も大人と同じくらいの大きさになって、犬としての戦闘能力も上がっていたのです。

 ジーヤ・ドゥが笑いました。

「寝言を言うな。わしはこのザカラスで最も強力な魔法使いだぞ。間もなく魔王の主となり、世界の王になる。犬ごときに何ができるというのだ」

 とたんに、ルルは何かを思い出す顔になりました。一瞬黙ってから、また言い返します。

「目を覚ましなさいよ、ジーヤ・ドゥ。魔王の主になるだなんて、そんなこと人間にできるわけがないじゃない。デビルドラゴンにそそのかされて、いいように利用されているだけよ」

「わしは奴と契約を結んだのだ!」

 と魔法使いは宣言するように高らかに言いました。

「あの竜は、わしを世界の覇者にすると約束し、わしはその代わりにあいつの望むものを捕らえると約束した! 闇の竜であっても、契約には縛られるのだ! わしは約束通りポポロを捕らえた。今度は、奴がわしを王にする番だ!」

 ルルはまた少しの間、黙りました。自分の内側からわき上がってくる痛みに目を細めて耐えます。ジーヤ・ドゥのことばが、そのまま遠い日の自分自身の声のように聞こえたのです。

 ルルは世界の覇王になろうとは思いませんでした。ただ、自分から大切なポポロを奪われるような気がして、フルートを憎み、人を憎み、フルートもすべての人間もこの世から消し去りたいと考えてしまったのです。ソレヲカナエテヤロウ、ぽぽろヲ取リ戻サセテヤロウ、というデビルドラゴンのささやきに負けて、魔王になりかかった記憶がよみがえってきます。それは、ルルが死ぬ日まで消えることのない、深い罪の刻印でした。

「馬鹿よね、本当に」

 とルルはつぶやくように言いました。

「そんな契約、デビルドラゴンに通用するわけないのに――」

 けれども、ジーヤ・ドゥは耳を貸しません。黒い衣の袖を広げるようにして、両手を高く差し上げました。

「行くぞ、化け犬!」

 ルルは、きっと頭を上げました。

「私はルルよ! 化け犬なんかじゃないわ! 金の石の勇者の一員なのよ!」

 激しくそう叫んで、ルルは黒い魔法使いに飛びかかっていきました――。

 

 

 白み始めた空を、二頭のペガサスと花でできた鳥が飛び続けていました。

 ペガサスに乗っているのは占者のユギルと装備を整えたゼン、花鳥に乗っているのはメールとポチです。ポチは今は風の犬に変身することができません。間違って落ちることがないように、ペガサスから花鳥の背中へ乗り移ったのでした。

 彼らはひたすら急ぎ続けていました。夜明け前の冷たい大気は風となって彼らのかたわらを吹きすぎ、うなり声をたてています。ユギルの長い髪が、明るくなっていく空の中にひらめきます。

 すると、ふいに占者が行く手を指さしました。

「あちらの方向へ――! 殿下です!」

「ユギルさん、占えるようになったの!?」

 花鳥の上からメールが聞き返しました。

「いいえ。占うための象徴はまだ見えません。ですが、予感がいたします。あちらへ。きっと殿下がいらっしゃいます」

 とユギルが断言します。間もなく、そのことばの通り、行く手の空にもう一頭のペガサスが見え始めました。背中に鈍い銀色に輝く鎧兜を着た、大柄な人物が乗っています。オリバンでした。

「戦ってるよ!」

「ワン、ものすごい数の怪物だ!」

 メールとポチが驚いて声を上げます。

 行く手の空は怪物の大群で真っ黒になっていました。そこだけにはまだ夜の闇が黒くよどんでいるようです。その最後尾にいた怪物たちが、オリバンとペガサスを取り囲んで襲撃しています。オリバンが聖なる剣をふるって応戦していますが、敵の数があまりに多すぎて、いくら倒してもきりがありません。

「んなろぉ」

 ゼンはペガサスと共に飛び出しました。背中から弓を外して矢をつがえます。久しぶりのエルフの弓矢でした。大きく引き絞り、狙いをつけて放つと、矢は流星のように飛んで、今まさにオリバンに食いつこうとしていた怪物を貫きました。怪物が悲鳴を上げながら空から落ちていきます。

 オリバンが振り向いて歓声を上げました。

「ゼン! ユギル――!」

 ヒヒヒーン、とオリバンを乗せたペガサスもいななきました。ゼンとユギルを乗せたペガサスが、それにいななき返して速度を上げます。戦っているオリバンたちの元へ駆けつけていきます。

 

 ゼンは近づきながら、次々とエルフの矢で怪物たちを射落としていきました。白い石の丘のエルフからもらった魔法の弓矢です。狙ったものは決して外すことがなく、どんな混戦の中でも誤って仲間に当たることもありません。矢も矢筒の中で増え続けます。たちまちオリバンの周囲から怪物が減り始めました。

 今度は花鳥に乗ったメールが前に出ました。鳥の背中で両手を上げながら呼びかけます。

「お行き、花鳥! 怪物たちをつついておやり!」

 キィィーッと花の鳥が鳴きました。ぐん、と速度を上げて怪物の群の中に飛び込むと、くちばしで襲いかかっていきます。花でできていても鋭い攻撃です。怪物たちが頭を抱えて散りぢりになっていきます――。

 すると、オリバンが叫びました。

「フルートが先にザカラス城へ行った! もう城内に入ったはずだ!」

「こんなところで手間取ってらんねえな」

 とゼンは言うと、自分の胸当ての中からペンダントを引っ張り出しました。聖なる金の石がその先で光っています。

「おら、金の石! フルートがやばいんだ! とっとと闇の怪物を片づけろ!」

「うるさい。命令するな」

 どこからか、むっとしたような精霊の少年の声が聞こえてきて、魔石が金色に輝きました。驚くほど強力で大きな光が広がって、群がる怪物たちを照らします。みるみるうちに怪物は溶け始め、あたりは怪物の絶叫でいっぱいになります。

 光が収まったとき、あれほどたくさんいた怪物は半分以下になっていました。光の届く範囲の闇の怪物をことごとく消滅させたのです。

 

 けれども、光の先を行く怪物たちは無傷でした。闇の中に翼を広げながら、まっしぐらにザカラス城へ向かっていきます。

 ユギルが、はっとしたように叫びました。

「ザカラス城は怪物を防げません! 勇者殿たちが危険になります――!」

 再び予感がしたのです。一同はいっせいに顔色を変えました。

「急げ!」

 オリバンがどなり、ペガサスと花鳥は精一杯の速度でザカラス城を目ざしました。

 やがて近づいてきた城は、山の中腹にそびえていました。その前庭へ、中庭へ、屋上へ、窓を突き破って直接城内へ、闇の怪物たちが続々と入り込んでいきます。やがて、城内のあちこちから悲鳴や叫び声が上がり始めました。闇の怪物が城内の人々を襲い始めたのです。

「どこへ下りればいい、ユギル!?」

 オリバンが再びどなりました。城の内外で怪物と人がもつれ合い、大勢の人々が逃げまどっているのが見えます。城中が大混乱に陥っていて、どこへどう向かえばいいのか、彼らには見当がつかなかったのです。

 ユギルは一瞬ためらいました。象徴はまだ見えてきません。占いの力は戻ってきていないのです。

 けれども、次の瞬間、ユギルは色違いの目で城を見下ろしました。半ば独り言のように言います。

「勇者殿はいつも、最も危険な場所でぎりぎりの戦闘をなさる。一番危険な予感がする場所が、勇者殿のおられるところだ――」

 ユギルは、まっすぐ城の裏庭を指さしました。

「あちらへ。勇者殿はあの近くにおいでです」

 裏庭には、トウガリとフルートがいる地下牢の入り口がありました。ルルがジーヤ・ドゥと戦っている通路へ続く入り口もあります。占者は、予感だけで見事に彼らの居場所を言い当てたのでした。

「よし、行くぞ!」

 とオリバンは一同に言いました。

 

 そのとき、東の地平線から朝日が昇ってきました。夜明けです。空を渡ってきた日の光が山を頂上から明るく輝かせ、中腹のザカラス城を照らします。暁城の名前の通りに城が赤く染まります。

 すると、その城壁に得体の知れない光が走りました。閃光です。ぱぱぱっと石の壁に光の筋が走り、やがて、城全体から不気味な地響きが聞こえ始めます。その音が次第に大きくなります。

 ペガサスが空中で二の足を踏んで言いました。

「下りては危険だ。城が崩れるぞ」

 一同はまたいっせいに顔色を変えました。ゼンがどなります。

「ペガサス、行け!! 俺たちを下ろせ!!」

 メールも叫びます。

「お行き、花鳥!!」

 鳥が裏庭に急降下しました。城がたてる地響きは、耳をふさぐほどの轟音になっています。と、その壁が大きな岩の塊になって庭に落ちてきました。

「花たち!」

 とメールが手を振ったとたん、花鳥が崩れて花の天井になり、岩からメールとポチを守りました。

 ずしん、どどーん、と城の中から音が聞こえ始めました。壁や天井が至るところで、ゆっくりと崩れ出しています。メールもポチも、ペガサスと降り立ったゼンやオリバンやユギルも、茫然とそれを眺めてしまいます。城の中からは、さらにたくさんの悲鳴が聞こえてきます。

 すると、ふいにポチが叫びました。

「ワン! フルート、ポポロ――ルル!!」

 子犬は花の天井の下から飛び出すと、崩れ出した城の裏口へ走り、中へ駆け込んでいきました――。

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