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第8巻「薔薇色の姫君の戦い」

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88.王と間者

 婚礼の日、花嫁姿のメノア王女はそれは美しく愛らしく見えました。

 裾の長い純白のドレスに身を包み、しずしずと祭壇の前に進んでいきます。その手に抱えているのは、王女が花の中でも一番愛しているピンクのバラの花束です。夢見るような色をした花は、花嫁の長いベールも飾っていました。

 王女の夫になるロムド王は祭壇の前で待っていました。正装をして宝冠をかぶった姿は若々しく、とても王女と三十もの年の差があるようには見えません。賢王の呼び名通り、思慮深いまなざしで、近づいてくる花嫁を見つめています。

 花嫁に付き添っていたのは、ロムド王と先の王妃の間に生まれたシア王女でした。先日誕生日が来て、八つになったばかりです。弟のオリバンも同じ付き添い役をすることになっていたのですが、結婚式の直前に風邪を引いて熱を出してしまい、その日は結婚式に参列していませんでした。

 シア王女はとても緊張していました。新しく父王に嫁いできた女性は、亡くなった母親よりもずっと若くて、なんだか母というより姉のようです。どう接していいのかわからなくて、とにかく付き添いという大役を果たそうと、それだけに一生懸命になっていました。

 すると、緊張のあまり、絨毯の上でつまずいてしまいました。王女の足にドレスの裾が絡みつき、前にのめって転びそうになります。この結婚式には、外国からも大切な客人が大勢参列しています。こんなところで転んでしまってはロムド国が大恥をかいてしまう、と幼い王女は必死で踏みとどまろうとしました。参列者たちもそれを見ていっせいに緊張します。

 すると、ばさりと音を立ててバラの花束が床に落ちました。代わりに白い長い手袋をはめた両手が、シア王女の体を支えます。花嫁が小さな王女をとっさに抱きとめたのです。おお……と参列者の間から声が上がりました。

 シア王女は花嫁を見上げました。花嫁がにっこりほほえんでいるのを見ると、思わず真っ赤になって顔を伏せ、放り出された花束を見ました。

「あの、お花が……」

「大丈夫よ。まだ綺麗に咲いているわ」

 と花嫁は言って花束を拾い上げました。なんでもなかったようにまたそれを抱えて、祭壇に向かって進み始めます。

 シア王女はますます赤くなりました。あわてて花嫁について行こうとすると、花嫁がまた振り返りました。

「ゆっくりまいりましょう。大丈夫、神様も皆様もちゃんと待っていてくださるから」

 柔らかな声でささやいて、優しい微笑みを王女に向けます。シア王女もつられて思わず笑顔になりました。その瞬間、王女はこの新しい母が大好きになっていました。実の母が亡くなって以来ずっと淋しかった胸の中に、喜びがあふれてきます。

 そして、そんな花嫁と小さな王女を、参列している人々全員が笑顔で見守っていました。ロムドの貴族も重臣も、外国からの賓客も、ほほえましい光景に自然と顔をほころばせています。その中には、祭壇の前で待つロムド王もいました。優しい目で、新しい妻と、娘の姿を見ています。

 

 トウガリはそれを参列席の隅で眺めていました。

 美しい花嫁が夫になる王に腕を取られたとたん、トウガリは急に息が苦しくなりました。花嫁と花婿が神の前で誓いの口づけをかわすと、胸の中がかきむしられるように熱くなります。

 けれども、陽気な化粧をした道化の顔を見て、そんな気持ちを見抜く者はありません。

 切なさを心の奥深くに隠しながら、トウガリは自分に言い聞かせ続けました。

 大丈夫。大丈夫だ。この国ならば、メノア様は王妃としてきっと幸せになっていかれる――と。

 

 そんなトウガリがロムド王から呼び出しを受けたのは、結婚式から一週間後のことでした。

 トウガリは間者として、密かにロムド城で活動を始めていました。城の中の人間関係をつかみ、その中に、新しいロムド王妃に悪意を持つ者がいないかどうか探っていたのです。

 トウガリは王妃付きの宮廷道化として、ロムド城で人気者になっていました。道化としての自分が有名になればなるほど、正体を見破られる心配は減っていきます。間者の腕前にも自信があります。そんな矢先の突然の呼び出しだったので、トウガリはとまどいました。ばれたのだろうか、いやまさか――と自問自答しながら、王の執務室へ向かいます。

 そこにいたのは、ロムド王とリーンズ宰相、ロムド軍の総司令官であるワルラ将軍、それに王の護衛役を務める貴族のゴーラントス卿と、背の高い少年でした。少年は灰色の長衣を着て、頭からフードをすっぽりとかぶっています。ゴーラントス卿と少年は別としても、ロムド国の最重要人物が部屋に勢揃いしていたので、トウガリは緊張しました。いったい何が始まるのだろう、と警戒しながら、口ではいつものように流暢に話し始めます。

「これはこれは、賢王の誉れ高い国王陛下。わたくしのような卑しい宮廷道化をお呼びいただいて、わたくしは光栄に身震いの止まらぬ想いでおります。本日はこのトウガリめになんのご用でございましょう。陛下のおんためならば、わたくしトウガリは命を投げ出しても――」

 

「そんなこと言ってると、本当に死ねって言われるぞ、あんた」

 とふいに乱暴な声がさえぎりました。灰色の長衣を着た少年が口をはさんできたのです。フードを外した下から、びっくりするほど美しい顔が現れます。その肌は浅黒く、肩の下まで伸びた髪は輝く銀髪、瞳は右が青、左が金色の不思議な色合いをしています。

 ところが、少年の口調はそんな容姿とは裏腹でした。トウガリに向かってぞんざいに言い続けます。

「なにしろ、あんたはザカラスの間者だからな。これがみんなにばれれば、あんたはたちまち死刑だ」

 トウガリの身の内が、さっと冷たくなりました。

 目の前にいる少年は、ロムド王が新しく召し抱えた占者です。非常に優秀だと聞いていましたが、実際にはロムド王の小姓にすぎない、という噂も流れていました。トウガリ自身も、この少年の能力は信じていませんでした。何度か姿を見かけていましたが、少年があまりに美しすぎたので、容姿に目のくらんだ人々が過大評価をしているのだろうと思っていたのです。それはとんだ誤りだったのだ、と身をもって思い知ることになります。

 すると、ロムド王が重々しく口を開きました。

「ここにいるユギルは、まだ年若いし、ことばづかいも荒いが、この城の事実上の一番占者だ。ユギルの占いは決して外れぬ。その彼が、そなたをザカラスの間者だと見破った。この件に関して申し開きしたいことはあるか?」

 トウガリはすばやく部屋の中を見回しました。この場から逃げ出す道を探しますが、室内には勇猛なことで名高いワルラ将軍と、剣の名手のゴーラントス卿がいます。出口にたどり着く前に、二人に切り伏せられてしまうに違いありません。

 トウガリはうなだれました。逃げられません。申し逃れもできないのです。王が大声で警備兵を呼び、処刑を命じる瞬間を、身を固くして待ちます――。

 

 ところが、ロムド王は警備兵を呼ぶ代わりに、こう続けました。

「ユギルはこうも言っているのだ。トウガリはザカラスの間者だが、やがて我が国で活躍するようになる、とな。どうであろう、トウガリ。仕える主人を変えるつもりはないか? ロムドはザカラスよりもそなたを優遇するぞ」

 トウガリはあっけにとられました。

 ロムド王はトウガリにロムドの間者になれ、と言っています。ザカラス人で、ザカラス王に仕えている自分に、です。冗談か皮肉を言っているのだろうかと王を見直しますが、王の表情は大真面目でした。

 トウガリは思わず言いました。

「何故そのようなことを? わたくしがロムドの間者になったふりをしながら、相変わらずザカラスのために働き続けるとは考えないのですか?」

 自分がザカラスの間者であることを認めることになってしまっても、尋ねずにはいられませんでした。

 すると、ロムド王は言いました。

「わしは、王妃を守る者が欲しいのだ。我々はロムド王妃としてメノアを歓迎している。だが、この国には、新しい王妃を敵国の回し者と疑う者も少なくない。王妃にそのような悪意がないことは、見ればわかる。だが、それがわからぬ者たちも、この国内には大勢いるのだ。その者たちから王妃を守りたい。そのために、そなたに協力してもらいたいのだ、トウガリ」

 道化の姿をした間者は、息が止まりそうになりました。あまりにもできすぎた話でした。王は知っているのだろうか――すべてを見抜いて知っているのだろうか、と心の中でうろたえます。

 すると、占者の少年が、別の世界を見るまなざしで言いました。

「あんたは裏切らないよ。あんたは王妃を守り続ける。メノア王妃はあんたにとって、命よりも大切な女性だからな」

 トウガリは本当に呼吸ができなくなりました。全身に冷たい汗が噴き出してきます。少年は、トウガリの心の中まで見事に言い当てたのでした。

 王の后に恋心を抱くことは、どの国でも死刑に当たる大罪です。トウガリは覚悟を決めました。どのみち、メノア王女と出会うまでは生きていることも感じられなかった人生です。今ここでその命を失うことになっても、何も惜しいことはない気がします――。

 

 けれども、そっとロムド王へ目を戻して、トウガリは愕然としました。王はまったく表情を変えていなかったのです。王だけではありません。居合わせている家臣全員が驚くことも憤ることもしていません。全員が、トウガリの想いを知っていたのです。

 ロムド王がまた言いました。

「人の想いはその人自身のものだ。誰にも奪うことはできん。わしはただ王妃をこの国の誤解から守りたい。そのためには、そなたが最適なのだ。そなたならば、王妃のそばにいて、王妃に害をなそうとする者を必ず見抜くであろう」

「それを知らせてもらえば、わしが必ずその者を捕まえる」

 とワルラ将軍が突然口をはさんできました。日に焼けた顔に紺の鎧のがっしりした男です。

「王妃様を守り続けることは、ひいてはこのロムド国を守り続けることにもなります。ご協力を、トウガリ殿」

 とリーンズ宰相も言います。

 トウガリは、ますます面食らって立ちすくみました。ロムド国の要人全員が、敵の間者のはずの自分に、協力しろ、ロムドの間者になれ、と言ってくるのです。とても信じられない状況でした。

 すると、占者の少年がまた口を開きました。相変わらず、この世ならない遠い場所を見る目で言います。

「あんたは協力するさ、トウガリ。あんたがいなければ、王妃様は疑心暗鬼の連中の手にかかって殺されるからな……」

 トウガリはたちまち厳しい表情になりました。思わず少年に尋ねてしまいます。

「おまえにはメノア様を狙う人物が誰かわかるというのか!?」

「わかる。でも、俺にはそれを実証することはできない。そのために、あんたの力が必要なんだ」

 淡々と答える少年の口調は、本当の年齢よりずっと年老いた人物のようです。

 トウガリは両手を拳に握りました。自分を見つめ続ける人々を見つめ返します。ロムドの要人たちは、自分の返事を待っています――。

 トウガリはロムド王の前にひざまずき、握りしめた片手を胸に当てて頭を下げました。

「メノア様のため、そして、ロムドの国王陛下のため、わたくしは今日から生まれながらの自分の名を捨て、トウガリとしてロムドにお仕えいたしましょう。この命に替えても、必ず王妃様をお守りし続けます」

「頼むぞ、トウガリ」

 とロムド王はうなずきました。

 トウガリの胸の奥に、切ない想いは横たわり続けます。それでも、トウガリは幸せでした。大切な女性を守り続けることを、王から保証されたのです。これ以上の幸せは、トウガリにはありませんでした――

 

 遠いどこかから、トウガリを呼ぶ声が聞こえました。

 繰り返し、繰り返し、トウガリの名前を呼んでいます。

 目を開けると、乳白色にかすむ世界に人影が見えました。金色の髪をしています。

 メノア王妃様? とトウガリは尋ねようとしました。けれども、咽から声は出てきません。激痛が遠くから潮騒のように押し寄せてきます。痛みに全身を打ちのめされて思わずうめくと、それは声になりました。鉛のように重い体が激しく震えます。

 すると、トウガリの顔に、はらはらと冷たいものが降りかかってきました。涙です。

 痛みの波が通り過ぎると、トウガリはまた目を開けました。自分を見つめて涙をこぼす人物を見上げます。メノア様、お泣きなさるな。お笑いください――。声にならない声で話しかけます。

 

 すると、かすむ人物が言いました。

「トウガリ……」

 トウガリは正気に返りました。それはメノア王妃の声ではありませんでした。自分の上に見える金髪の人物へ目をこらします。

 それは、フルートでした。金の髪と見えたのは、少年が身につけている金の兜です。

 フルートはトウガリをのぞき込んだまま、大粒の涙をこぼしていました。落ちた涙がトウガリの顔を濡らしていきます。

 どうした、フルート、とトウガリは言おうとしました。なんで泣いている?

 けれども、やっぱり声は出てきません。自分のものとも思えないうめき声が漏れただけです。ことばの代わりにフルートの頭をなでようとしましたが、その手も動きません。どこか遠いところで、自分の腕が少し動いたような気がしただけでした。

 フルートがかがみ込みました。トウガリの片腕を抱いて涙を流し続けます。

「すみません……トウガリ。もっと早く来られなくて、すみません……」

 フルートが抱く腕には力がありません。痩せた手は手首の先でだらりと下がっています。その指はどれも、あり得ない方向に曲がっていました。指を一本残らずへし折られ、手首の骨も砕かれているのです。それだけではありません。腕も足も肋骨も――トウガリは全身の骨を拷問で折り砕かれていました。処刑の話を聞いて引き返したフルートは、地下牢で身動きできずに横たわる彼を見つけたのでした。

 トウガリの服は無惨に裂けていました。生々しい傷が全身をおおい、血と膿を流しています。腫れ上がった顔は、元の形もわからないほどです。

 悔し涙にむせびながら、フルートは言いました。

「行きましょう、トウガリ。ここを脱出しなくちゃ」

 トウガリはかすかに首を振りました。自分がもう助からないことはわかっていました。行け、と言うと、それはようやく声になってフルートに届きました。

 フルートは頭を振りました。トウガリをここに見捨てていくわけにはいきません。夜明けには処刑されてしまうのです。身動き一つできないトウガリを、小柄な体で抱きかかえようとします。全身を激痛に襲われて、トウガリがまたうめき声を上げます。

 

 すると、地下牢の入り口の外からザカラス兵の声が聞こえてきました。

「くせ者だ!」

「侵入者だぞ!」

「地下牢だ――!!」

 大勢が地下への階段を駆け下りてくる足音が響きます。鎧や剣がぶつかり合う、ガチャガチャという音が迫ってきます。

 フルートはトウガリを抱いたまま、青ざめた顔で入口を振り返りました――。

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