ロムド国の王都ディーラは夜の静けさに包まれていました。大通りを昼間のように明るく照らしていたかがり火も、夜半には数が少なくなり、距離を置きながら、ぽつりぽつりと燃えているだけになります。家々は灯りを消して寝静まっています。夜通し街を守る警備兵だけが起きていて、時折かがり火の中に薪を放り込みます。
そんな街の上を、二つの輝きが走っていました。まるで大きな明るい流星のようです。みるみるうちに高度を下げ、街の家並みのすぐ上まで下りてきます。
それは二頭の白い馬でした。たてがみと尾は金色、瞳は青く、大きな二枚の翼があります。その背中には青年と少年少女たちと一匹の子犬を乗せていました。
「ちくしょう。ずいぶん時間くっちまったぞ」
とゼンが歯ぎしりをしていました。その腰にしがみついたメールが言います。
「国境のあたりですごい逆風が吹いたもんね。間に合うといいんだけど」
「ラヴィア夫人の屋敷はあそこです」
と先を行くペガサスからユギルが指さしました。その前では、紺色のドレスを着たメーレーン王女が、黙ってペガサスのたてがみにしがみついています。
よっしゃ、とゼンは声を上げました。
「行け、ペガサス! もう少しだ!」
二頭の天の馬が、一軒の屋敷の中庭に急降下しました。翼をいっぱいに広げて、ふわりと枯れた芝生の上に舞い降ります。ゼンはその背中から飛び降りました。
「ユギルさん、ラヴィア夫人はどこだ!?」
「こちらです!」
少年と青年が屋敷に向かって駆け出し、ポチとメールと王女がそれを追いかけます。深夜だというのに、ラヴィア夫人の屋敷にはこうこうと灯りがともっていて、ただごとでない状態にあることを周囲に知らせていました――。
老婦人はいまわの際にいました。
すでに九十近い高齢です。優秀な魔法医にも、弱っていくその体に魂を留めることはできませんでした。しわだらけの顔が、次第に透き通るように白くなっていくのを見守るだけです。それは、死者の顔色でした。夫人はこの世での人生を終え、静かに死者の国へと旅立とうとしているのでした。
枕元に、夫人にゆかりのある人々が集まっていました。孫やひ孫、親戚といった人々は夫人との別れをすませて別室へ行き、夫人の娘夫婦と、ロムド国王、そしてリーンズ宰相の四人だけが残っています。国王と宰相にとってラヴィア夫人は恩師です。最後の最後まで、夫人のそばについていたのでした。
夫人が横たわるベッドの脇には、白い衣の魔法医が立っていました。夫人の呼吸が次第に浅くとぎれがちになっていくのを、黙って見守っています。それが止まるのも、もうじきなのだと、魔法医には経験からわかっていました。その瞬間を見届けることが、医者としての最後の仕事でした。
同じく静かに夫人を見守っていた国王が、ふと口を開きました。
「ユギルはとうとう間に合わなかったな」
「左様でござますね」
と宰相が低く答えました。もうひとりの愛弟子が後でどれほど悲しむのだろうと考えて、また黙り込んでしまいます。普段、めったに感情を見せることもない占者ですが、本当は誰よりも夫人を大切に思って愛おしんでいることを、二人は知っていました。せめて最後の別れをしたかっただろうに、と考えます。
すると、そこへ静けさを破って騒々しい足音が響いてきました。外の通路を駆けてくる人々がいます。
と、部屋の扉が勢いよく開いて、ひとりの青年が飛び込んできました。長い銀の髪を乱し、顔を紅潮させて息を弾ませています。全速力で駆けつけてきたのです。
「先生――! 先生はまだご存命ですか!?」
「ユギル」
ロムド王は目を細めて笑いました。どうにか間に合ったな、と声をかけようとします。
ところが、そのすぐ後ろから、もうひとりの人物が飛び込んできました。小柄な人影です。ユギルを追い抜いて、突進するような勢いでベッドへ走ります。
「ばあちゃん! まだ生きてんだろ、ばあちゃん! くたばるんじゃねえぞ!」
ゼンでした。
あっけにとられてそれを見つめたロムド王とリーンズ宰相は、同時に、はっとしました。ゼンはその右手に金色に光るペンダントを握りしめていたのです。駆け寄りざま、夫人の体にそれを押し当てます――。
とたんに、奇跡が起こりました。
今にも止まりそうになっていた夫人の呼吸が、みるみるうちに規則正しく力強くなっていったのです。白い顔に血の気が通い始め、厳かに見える死者の表情が薄れて消えていきます。夫人の痩せた胸にかけられた布団が、呼吸に合わせて大きく上下を始めます。
魔法医は、とっさに夫人の腕をつかんで脈をとりました。弱くかすかになっていた脈動が、今ははっきりと指先に伝わってきます。
すると、ラヴィア夫人が目を開けました。薄いトビ色の瞳で自分をのぞき込む人々を眺めて、驚いたような表情になります。
「まあ――これはいったい何ごとです!?」
以前と同じ、叱りつけるようなラヴィア夫人の声でした。
そこへ、開け放してあった扉から子犬と長身の少女が遅れて駆け込んできました。ワンワン! とポチが吠えます。
「良かった! 間に合いましたね!」
「あぁ、良かったぁ!」
とメールも声を上げます。袖無しのシャツと半ズボンの上に長い上着を着込んだ格好で、膝に両手を当てて、ぜいぜいとあえぎます。彼らは本当に全速力で駆けてきたのです。そこにさらに少し遅れて、メーレーン王女も部屋に飛び込んできました。長いプラチナブロンドの髪を吹き流し、顔を真っ赤にほてらせています。
「メーレーン!」
驚きの声を上げたロムド王へ、王女は駆け寄りました。広げた腕の中へまっすぐ飛び込んでいきます。
「お父様! お父様!!」
ラヴィア夫人はますます驚いた顔でベッドの上に起き上がりました。小柄な体ですが、しゃんと頭を上げて、一同を見回します。
「何がどうしたのですか? この騒ぎはいったい――」
言いかけた夫人は、すぐ前に立つゼンが金のペンダントを握っているのを見て、目を見張りました。
「もしやそれは……」
「はい、先生。癒しの金の石でございます。勇者殿より借り受けてまいりました」
とユギルは答えました。部屋に飛び込んできたときのあわてぶりが嘘のように、今は落ち着いた顔に戻っています。金と青の色違いの瞳は、深い安堵を浮かべていました。
ラヴィア夫人は顔色を変えました。少しの間、考えるように沈黙してから、厳しい声で言います。
「私を助けるために金の石を使ったのですね。それで、勇者殿はどこにいらっしゃるのです?」
「ポポロ様とトウガリ殿を救出するために、ザカラス城に再び向かっておられます」
とユギルは静かに答えました。老婦人はますます顔色を変えました。目眩がするように額に手を当てて目を閉じてしまいます。魔法医が急いでそれを支えて背中に枕をあてがいます。
夫人はまた目を開けました。その瞳には、はっきりと叱責の色がありました。
「とんでもないことです。あなたたちは、勇者殿から金の石を取り上げたのですね。私のような老いぼれを救おうとして――! 勇者殿に何かあったらどうするつもりです!?」
青年は黙って頭を下げました。長い銀髪が垂れかかって、その奥に表情を隠してしまいます。
すると、そこにゼンが口をはさみました。
「取り込み中悪いんだけどよ、俺たちもうロムド城へ行くぜ! ぐずぐずしてらんねえんだ!」
「陛下、城の花をもらっていくからね! かまわないだろ!?」
かまわないだろ、と聞きながら、その返事も待たずにゼンとメールは部屋を飛び出していきました。その後をポチが追いかけていきます。間もなく、部屋の窓の外から大きな鳥の羽音が聞こえて遠ざかっていきました。
ロムド王はユギルに尋ねました。
「何がどうなっているというのだ。ザカラス城で何が起きている?」
すると、ユギルが答えるより早く、王の胸からメーレーン王女が答えました。
「お父様、ザカラス城に潜んでいた本当の敵はデビルドラゴンだったのです。ポポロがメーレーンの身代わりにザカラス城に戻って捕らえられてしまいました。トウガリもつかまっています。フルートとお兄様は、それを助けに行ったのです」
なんと……! と王と宰相は思わず絶句しました。
「ユギル!」
とラヴィア夫人が声を震わせながら銀髪の青年をどなりつけました。
「あなたは――あなたは、それを知りながら勇者殿から金の石を――!? なんということを! 私情を優先するあまりに、こんな馬鹿げた真似をするなんて――! 城一番の占者にあるまじき愚行ですよ、ユギル!」
「ラヴィア夫人、お静まりを。お体にさわりますぞ」
と魔法医があわてて声をかけました。夫人の娘夫婦はただおろおろとしているばかりです。
すると、うつむいた顔を長い銀髪に隠したまま、ユギルが静かに言いました。
「確かに愚行でございます。ですが、わたくしに、先生をお救いするように、と金の石を託してくださったのは勇者殿ご自身です。勇者殿は、先生が自分のために亡くなられるのは絶対に承知できない、とお考えでした」
夫人は、はっとした顔になりました。とまどったように、青年から目をそらします。
「私が病気になったのは、勇者殿のせいではありません――年のせいです」
「ですが、勇者殿はそうはお考えになりませんでした。もしもこのまま先生が亡くなられたら、勇者殿は一生消えない傷と重荷を心に負うところでした」
馬鹿なことを、と夫人は言いました。つぶやくような弱々しい声でした。
ユギルはうつむいたまま話し続けました。
「私情と言われればそれまででございます。わたくしはかつて、自分が力至らなかったばかりに、育ての母とも言える師匠を失ってしまいました。同じ過ちを先生にも繰り返したくはなかったのです。けれども、それこそ城一番の占者ならば、そのような私情もはさむべきではないと考えました。勇者殿がザカラス城へ向かうとわかったとき、先生をお救いすることをあきらめようと思ったのです。ですが――勇者殿に諭されました。そんなふうに割り切ってしまうな、助けたいと思うならば、なんと言われようと助けるべきだ、と」
「あなたは城一番の占者なのですよ! 小さな一個人などではなく、国中の人々を守ることが、あなたの役目ですよ!」
と夫人がまた声を高くします。
すると、青年は顔を上げました。銀の髪に隠されていた顔は、驚くほど暖かく優しいほほえみを浮かべていました。
「いいえ、先生、それは違います」
と穏やかに言い返します。
「人々というのは、小さな一個人の集まりです。一個人を大切にせずに人々を守ることは不可能です。……これも、勇者殿から教えられました。自分が守りたいと思う相手を守ることこそが、本当に守るということなのだと。顔の見えない、漠然とした人々を守ろうとしても、その手はきっと人々にふれることもなく素通りしてしまうことでしょう。けれども、顔を知る大切な人を助けようと伸ばす手は、しっかりとその人を支えます。それがひいては多くの人々を守ることにつながるのです。勇者殿は、そうやって世界をお守りになっているのです――」
ラヴィア夫人は何も言えなくなりました。自分に真っ正面から反論してくる愛弟子を、ただただ見つめてしまいます。ユギルはほほえむ目をしています。
やがて、夫人はまた目をそらしてうつむきました。自分にかけられた布団を見ながら言います。
「まったく馬鹿げたことです。そんなことで勇者殿を危険な状態にさせるとは……。それで、あなたは何をしているのです、ユギル!?」
突然、夫人の声がまた鋭くなりました。ユギルに向かって言い続けます。
「勇者殿と殿下が敵に向かわれているというのに、こんなところにいたりして! これでいいと思っているのですか!? ――陛下!」
いきなり夫人から呼ばれて、ロムド王は驚きました。まるで子どもを叱りつける母親のような声だったのです。
「早くユギルに命令をお出しなさい! ユギルは城一番の占者です! 陛下のご命令がなければ動けない身なのですよ!」
そして、とっさには返事をできずにいる王を尻目に、夫人はその隣のリーンズ宰相までどなりつけました。
「あなたもです、リーンズ! 陛下がお気づきにならないときに進言してさしあげるのが、あなたの役目でしょう! いつまでも気が利かないこと! あなたがたは本当に、どうしようもない生徒たちです――!」
夫人の声が震えました。またうつむいて、布団を握りしめてしまいます。その手は痩せて細く、細かいしわにおおわれていました。
「こんな――年寄りに、いつまでもかかずらっていないで――早く勇者殿たちを助けに行きなさい――」
涙ぐんでしまったような声でした。
ロムド王はほほえみました。リーンズ宰相も笑顔になります。そこにユギルも加わって、夫人の不肖の生徒たちはうなずき合いました。
王が言いました。
「ラヴィア夫人の言うとおりだな。我々はここを離れることはできん。ユギル、我々の代わりに勇者殿やオリバンを助けに行け。勇者殿に金の石を届け、顔を知る大切な者たちを敵の手から救い出すのだ」
「御意」
とユギルは王に向かって深く頭を下げました。長い銀髪が揺れて輝きます。
リーンズ宰相も言いました。
「必ずトウガリ殿もお救いください。トウガリ殿はロムドの守りの一角を担う大切な方です」
「それも承知してございます」
とユギルはほほえみ返しました。晴ればれとした笑顔でした。王たちやベッドのラヴィア夫人に向かって言います。
「では、わたくしはこれにて。ゼン殿たちと共にザカラス城へ向かいます」
すると、部屋を出ようとする占者を、ラヴィア夫人が呼び止めました。
「ユギル、勇者殿に伝えなさい――。助けてくださってありがとう――どうかお気をつけて――とね」
夫人はうつむいたまま、ユギルのほうを見ようともしませんでした。三人の生徒たちは、またほほえみました。夫人のことばが勇者だけに向けられたものではないとわかったからです。
「承知いたしました、先生」
とユギルは一礼すると、足早に部屋から出て行きました。間もなく、また鳥の羽ばたきが窓の外から聞こえます――。
ロムド王は笑顔から深刻な表情に変わりました。
「しかし、ザカラス城に潜む敵の正体はデビルドラゴンであったのか――。これは容易ならんな」
ロムド王として打つ手はあるだろうか、と考え始めた王に、メーレーン王女が話しかけました。
「大丈夫ですわ、お父様。金の石の勇者の皆様方は、本当に強くて勇敢な方々です。必ず敵を追い払って、ポポロやトウガリやザカラスを闇から救ってくださいますわ」
そう言い切る王女は、素直で、そして誰よりも強く信じる顔をしていました。