暗い空間でした。
あたり一面を底知れない闇が包んでいます。
闇の正体はデビルドラゴンなのだ、とポポロにはわかっていました。敵が作る世界の中に捕らわれてしまったのです。
すると、目の前の闇の中から、四枚翼の竜が姿を現しました。闇の中では、竜は影ではなく実体に変わっています。全身に黒いウロコを光らせ、コウモリのような翼を打ち合わせながら、赤く光る目でポポロを見つめ続けています。猫なで声で話しかけてきます。
「恐レルコトハナイ、ぽぽろ。私ヲ受ケ入レルトイウコトハ、決シテ苦痛デハナイノダ。オマエハ、チカラノアル魔法使イダガ、私トヒトツニナルコトデ、サラニ大キナチカラヲ得ルコトガデキル。オマエノ悩ミハ、スベテ解決スルノダ」
ポポロは青ざめながら後ずさり、両手で耳をふさいで首を振りました。デビルドラゴンは自分から力ずくで相手に乗り移ることができません。そのため、ことば巧みに誘いかけて、相手が自分から心を差し出すように仕向けるのです。
デビルドラゴンは言い続けました。
「何故ダ。オマエハ今ノ自分ガ情ケナクテ、タマラナイノダロウ? 勇気ガナク、チカラモナク、チッポケデ自信ガナイ自分ガ嫌イナノダロウ? 私カラ勇気ヲ受ケトルガイイ。オマエハ生マレ変ワッタヨウニ、強ク明ルイ娘ニナレルゾ。誰モガオマエヲ愛シ、オマエノ話ニ耳ヲ傾ケ、尊敬スルヨウニナル。オマエガズット理想ニ想イ描イテイタヨウナ人間ニナレルノダ」
デビルドラゴンはナイトメアに似ています。人の心の奥底から、その人の持つ闇の心を引き出し、その人の前にさらしてみせることで支配しようとするのです。
確かに、人から認められたい、というのはポポロがずっと抱いてきた願いでした。誰かから責められたときに、それをはねのけられるくらい強くなりたい、とも想い続けてきました。何かというとすぐに泣いてしまう弱い自分を、ポポロは自分で本当に情けなく感じていたのです。
けれども、ポポロはいっそう堅く耳をふさぎました。デビルドラゴンの闇の声を聞くまいとします。
デビルドラゴンが羽ばたきました。すっとポポロに近づいてきます。
「ドウシタ、ぽぽろ。私ヲ受ケ入レナイノカ。生マレ変ワリタクナイノカ。私ガオマエニ入レバ、魔法ノこんとろーるモ思イノママニナル。モウ自分ノ魔法ニ振リ回サレテ、情ケナイ想イヲスルコトモナクナルノダゾ」
闇の声の誘いは本当に巧妙です。ポポロが持つ一番弱い気持ちを確実に見つけ出して引き出してきます。聞くまいと思うのに、どうしても耳に入ってきてしまいます。
竜がまた、すうっと近づきました。そうしてみると、ポポロと同じくらいの大きさがあります。さっき、ジーヤ・ドゥと一緒にいたときよりも、ずっと大きな姿です。サア、ぽぽろ、と優しく誘いかけてきます。
ポポロはまた首を振りました。片手を耳から外すと、前に突き出して声を上げます。
「来て、みんな!」
それは呪文ではありませんでした。ポポロは今日の魔法を王女に変身するために使い切ってしまっています。ただ、強く強く、心に念じながら仲間たちを呼びます。
すると、闇の中に光がわき起こり、そこに人の姿が浮かび上がりました。ゼンです。青い胸当てもエルフの弓も身につけていない、四つか五つくらいの小さな姿です。その幼い顔に今と同じふてぶてしい表情を浮かべながら、ゼンが言います。
「俺たち、そのへんが似てるんだよな。力が強すぎて、下手すりゃ、まわりの奴らに危険を及ぼしちまう。おまえが自分の力をもてあます気持ち、俺にはよくわかったんだぜ」
黄泉の門の戦いのとき、ナイトメアに子どもにされたゼンがポポロに言ったことばです。
「だけどな、本当に俺たちが危なくなると、いつだっておまえはものすごい魔法を使うんだよな。思いっきりがいいって言うか、なんてえか、とにかく、こっちも見ていて胸がすっとするんだ。ホント、かっこいいと思うぜ」
ゼン、とポポロはつぶやきました。涙ぐんでいた目で、思わずほほえんでしまいます。そうです、いつだってゼンはこんなふうにポポロを勇気づけてくれます。ゼンの言うことを聞いていると、ちっぽけな自分にもできることがあるんだ、と思えるようになるのです。
幼いゼンは言い続けていました。
「力が強すぎてもよ、使い方さえ正しくすりゃ怖いもんじゃないんだよな。ちゃんとみんなの役にたつんだ」
ドワーフ族の中でも強すぎる力を持つゼンだからこそ、ポポロの気持ちをわかって受け止めてくれました。それを支えにポポロはずっと頑張ってきたのです。仲間たちのために、暴れ馬のような自分の魔力を必死でコントロールしながら。
すると、ゼンの姿が急に大きくなりました。今と同じ背丈に変わります。金の鎧兜を着て、フルートに変装しています。はるか頭上から降ってくる水が、谷川の滝壺で音を立て続けています。その前で、ゼンはメールの肩を優しく抱き寄せていました。
ポポロは、はっとすると、あわてて二人から目をそらしました。これはザカラス城を脱出したときの光景です。デビルドラゴンが幻を見せたのです。悲しさが胸に深く突き刺さって、思わず唇を震わせてしまいます。
そむけた目の前に、また別の幻が浮かび上がってきました。暗い洞窟の中です。ゼンが松明を掲げながら先頭を歩いていきます。その肩に担ぐように乗せているのは、メールの細い体です。地下が苦手なメールは、半べそをかきながらゼンにしがみついています。「絶対に置いてかないでよ! 置いてったりしたら承知しないからね!」とわめく声が聞こえます。
ポポロはまた胸が詰まるような想いに襲われました。これはジタン山脈の地下の光景です。あのときと同じように、とても悲しい気持ちでいっぱいになって、また涙ぐんでしまいます。
デビルドラゴンの声が聞こえました。
「強クナレバ、オマエモぜんニ自分ノ気持チヲ伝エラレルゾ。何モ言エナカッタコトヲ、イツマデモクヨクヨト思イ悩ムコトモナクナルノダ」
ポポロはまた頭を振りました。必死で耳をふさぎ、目を閉じます。けれども、闇の竜が見せる幻は、目をつぶってもやっぱり見え続けているのです。
すると、ふいに割り込むように前に誰かが立ちました。金の鎧兜を身につけ、マントをはおったフルートです。メールを担ぐゼンの姿を、自分の小柄な体でさえぎってしまいます。
ポポロは目を見張りました。フルートは何も言いません。振り向くこともしません。ただ黙ってポポロの前を歩きながら、自分の背中でゼンとメールの姿を隠しています。ポポロの胸がどきりとしました。思わず顔が赤くなっていきます。
とたんに、フルートが振り向きました。
「ゼンとメールはルルに! ポポロ、君はこっちだ――!」
フルートの小さな体が、急に大きくなったように見えました。今の背丈に変わったのです。これは、ザカラス城を脱出した後に谷川から逃げ出した場面でした。その場に残ってザカラス兵につかまろうか、と魔が差したように考えていたポポロの手を、フルートは強くつかんで引き寄せ、風の犬のポチに乗せてしまいます。
「行け、ポチ!」
「ワン!」
ポチがフルートたちを乗せて空に舞い上がります――。
ポポロは我に返りました。
幻が一瞬で消えていきます。代わりにすぐ目の前にいたのは、黒い闇の竜でした。ポポロからほんの三十センチほどの場所まで迫っていました。
ポポロはぎょっとすると、大きく後ろに飛び下がりました。もう少しでデビルドラゴンに捕らえられてしまうところだったのです。驚きで鼓動が早くなった胸を押さえます。
「ふるーとデ防イダカ」
とデビルドラゴンは言いました。竜の声は少しも焦っていません。
ポポロは胸の上で手を組み合わせました。お願い、来て! とまた心の中で念じます。
再び光が広がって、その中にフルートが現れました。
フルートはまた金の鎧兜を身につけていました。ポポロにかみついてきたオークを自分の腕で防ぎ、もう一方の腕でポポロを抱いて体でかばいます。次の瞬間にはポポロを地面へ落とし、腕を広げてポポロを守りながら、襲いかかってくるオークたちに向かって叫びます。
「金の石!!」
あふれる光の中、溶けるように崩れて消えていく怪物たちを、フルートは歯を食いしばって見つめていました――。
ポポロはまた、どきりとしました。つらそうなフルートの後ろ姿を見つめてしまいます。
本当は誰かを傷つけることさえしたくない、優しい優しい勇者です。恐ろしい敵にも情けをかけることを止められないのです。敵を傷つけ倒したとき、それ以上にフルートのほうが深く傷ついているように見えて、ポポロは何も言えなくなりました。
すると、そこへメーレーン王女が追いついてきました。後ろからフルートの腕にしがみつき、無邪気に笑いかけます。
「フルート、メーレーンと一緒にお城に来てください」
と王女は話しかけていました。
「お父様に正式に紹介しますわ。メーレーンはフルートが大好きです。将来はメーレーンと結婚して、お兄様と一緒にロムドを守る皇族になってくださいませ」
ポポロは胸を突かれました。先にゼンとメールの姿を見たときよりも、もっと深く鋭い痛みを心に感じてしまいます。
本当に素直で無邪気な王女です。底意地の悪いことも、やましいことも、何一つ心に宿していません。そのまっすぐさがまぶしくて、ポポロは思わず目をそらしました。フルートが王女を振り返ります。優しく王女にほほえみ返します――。
「王女ニふるーとヲトラレテイイノカ?」
とデビルドラゴンが尋ねてきました。
「ふるーとハ、オマエノ最後ノ心ノ拠リ所ダ。ソレヲ失ッテシマッテモ良イノカ?」
デビルドラゴンは、フルートを王女から取り返せ、とは言いません。そんな言い方をすれば、ポポロがたちまち尻込みすると知っているのです。ただ、フルートを失ってもいいのか、という聞き方をして、フルートを取り戻すために自分を受け入れろ、と暗に伝えてきます。
目をそらしても、幻は見え続けていました。フルートと王女が見つめ合っています。フルートが腕を伸ばして胸の中に王女を抱き寄せます。
「良イノカ?」
とまた闇の竜が尋ねました。
「アソコハ、オマエノ場所デハナイノカ?」
ポポロはもう緑の瞳を涙でいっぱいにしていました。震える指でボタンを外し、首元のリボンを解いて、コートを脱ぎ始めます。王女を守るために、王女と交換した服です。悲しさで胸は張り裂けてしまいそうでした。下を向くたびに、目から涙がこぼれ落ちていきます。
竜は黙ってそれを見ていました。闇の中に四枚の翼が羽ばたく音だけが響きます。
ポポロはすっかりコートを脱ぎました。服を顔に押し当てて、そのまま泣くように顔を埋めてしまいます。コートは夢見るようなバラ色をしています……。
デビルドラゴンが静かにまた近づき始めました。ささやくように言い続けます。
「私ヲ受ケ入レロ、ぽぽろ。ソウスレバ、ふるーとハ戻ッテクルゾ」
ポポロはコートを握る手を震わせました。何も言いません。そうして、じっと立ちつくした後――
ポポロはふいに顔を上げました。
その緑の瞳に、涙はありませんでした。泣くより悲しい目をしていましたが、それでもポポロは泣いていません。コートを握りしめたまま、デビルドラゴンに向かって声を上げます。
「あたし――あたしは――自分から守るって決めたの!」
ポポロのか細い声です。決して強い叫びではありません。けれども、デビルドラゴンは何かにあおられたように、大きく後ろへ下がりました。懸命に留まろうと羽ばたきを繰り返します。
そこへポポロは叫び続けました。
「あたしは、王女様を守るのよ――! そのために身代わりになったの! そのためにザカラス城に戻ったの! おまえの言うことを聞いたら、王女様は絶対に殺されるわ! そんな――そんなこと、絶対にさせない!!」
ポポロは手に持った服を大きく自分の周りに振りました。
すると、コートはほどけるように溶け始め、闇の中に花びらのように広がりました。美しいバラ色の壁がポポロの周りにできあがります。
ポポロはバラ色の光の中心に立って黒い竜をにらみつけ、ドレスを堅く握って叫びました。
「あっちへ行って、デビルドラゴン!! あたしに近づかないで――!!」