オリバンは呆然と立ちつくしました。
ユギルの部屋に窓から日の光が差したと思うと、ユギルを捕まえている黒い怪物の手が溶けだしたからです。すさまじい声が響き渡り、黒い霧のように怪物が消えていきます。
あとにはただユギルが立っていました。降りそそぐ光の中、銀の髪がきらめいています――。
「ユギル……?」
オリバンはそっと占い師に近づきました。ユギルが見ているのは、皇太子でも、怪物が消えていった占いの紙でもありません。光の差してくる窓の外です。
と、急にユギルがひざまずきました。片手を胸に当て、深々と頭を下げます。長い髪が床に広がり、銀の流れを作ります。その姿勢で、ユギルはうやうやしく言いました。
「わたくしのような卑しきものの呼びかけにお応えくださったことに、心より感謝いたします。おかげで闇に連れ去られずにすみました――」
すると、二人の他には誰もいない部屋の中に、別の人物の声が響きました。
「よくぞわしを呼んだ、銀の占い師。おかげでこちらも間に合うことができたのだ」
声と共に現れたのは、一人の背の高い男性でした。光そのもののような淡い銀の髪とひげをしていて、星のような光を放つ黒い服を身にまとっています。天空の国の魔法使いの証である、星空の衣です。頭には金の冠が輝いています。
それを見たとたん、オリバンにもその人物が誰なのかわかりました。太古から世界の上空を飛び続けていると言われる天空の国。そこに住む魔法使いたちの長で、正義と光の番人でもある、天空王です。その姿を見ているだけで圧倒される気持ちになって、オリバンもひざまずき、王に頭を下げてしまいました。
けれども、天空王は実体ではありませんでした。淡い光に包まれた、幻のような姿をしています。
「わしは地上では、許された場所にしか立つことができぬ。故に、わしは映し身を送っている」
と天空王は言いました。
「案じながらずっと地上を眺めておった。ことの始まり、あの魔女が魔王として地上に復活して、勇者たちを葬り去ろうと企んでいたときからな。だが、勇者たちはどれほど危機的な状況に陥っても、わしを呼ぶことを思い出さぬ。まるで、それが彼らの定めにでもなっているように――。そなたに呼ばれて、ようやくこうして地上にやってきた。そなたたちに助けの力を与えよう。勇者たちに危険が迫っている。彼らを救わねばならぬ」
「感謝申し上げます、天空の王」
とユギルは丁寧に答えました。本来ならば、人間など姿をかいま見ることも許されない、偉大な真理の王です。けれども、それに怖じ気づいている暇はありませんでした。一刻も早く勇者たちを助けに行かなくてはならない、とユギルの予感は告げ続けているのです。
「支度をして城の屋上へ行くのだ」
と天空王はユギルとオリバンに言いました。
「そこに、そなたたちを助けるものたちが来ている。それと共に勇者たちの元へ行け」
ユギルはまた深々と頭を下げました。勇者たちを救う道が細く目の前に伸び始めたのを感じ取ります。
すると、同じように頭を下げていたオリバンが、ふいに顔を上げました。神々しいまでの天空王の姿を、あえてぐっと見上げながら言います。
「教えてください、正義の王よ。フルートたちに迫っている敵の正体というのは、何なのですか――?」
人より大きく体力もあるオリバンですが、ただそれだけ質問するのにも、全身の力を振り絞らなくてはなりませんでした。それほどまでに、天空王には人間に近寄りがたい雰囲気があったのです。
すると、天空王がオリバンに目を向けました。それまでの無言の威圧感が、急に、すっと薄れます。驚いて王を見直すと、天空王は穏やかな微笑を浮かべてオリバンを見ていました。
「勇敢であるな、未来のロムド王よ。さすがは勇者たちの兄だ。彼らを想うそなたの気持ちは、しかと受けとったぞ」
オリバンは目を丸くしました。勇者たちの兄、と呼ばれたことにとまどいます。もちろん、オリバンは彼らの兄弟などではありません。けれども、言われてみれば確かに、オリバンは心の中でフルートたちを弟や妹のように愛しく想い、いつも気にかけていたのでした。
思わず顔を赤らめた皇太子に、天空王は穏やかに続けました。
「わしはさまざまな契約と制約の下にある。そなたたちにわしができることは限られているが、王子の勇気に敬意を表して、敵の正体をそなたたちに教えよう。それを彼らにも伝えるのだ」
オリバンは天空王を見つめました。ユギルも真剣な顔を王に向けます。
事件の奥に潜んでいた黒幕が、ついにその姿を現そうとしていました――。
それから十五分後、オリバンとユギルは城の階段を屋上に向かって駆け上がっていました。オリバンはいぶし銀の鎧兜を着込み、聖なる剣を腰に下げ、黒いマントをはおっています。ユギルは、フードのついた灰色のマントの下に、体にぴったりした黒いズボンとシャツを身につけています。
「急げ、ユギル!」
とオリバンはどなるように言いました。
「一刻も猶予はならない! あいつらの元へ行かなくては!」
ユギルは何も言いませんでした。階段を飛ぶように駆け上がっていく後ろで、長い銀の髪がひるがえります。と、ふいにその髪が風に大きく乱されました。オリバンが屋上へ出る扉を一気に押し開けたのです。
夕暮れが近づき始めていました。城の上にどんよりと広がった空が、雲の向こうから差してくる夕方の光に、淡く赤く染まり始めています。石造りの城の屋上も、赤みを帯びた色に変わってきています。
その真ん中に、三頭の馬が立っていました。純白の体に金のたてがみと尾の、見事な駿馬です。空から差す夕映えに染まることもなくたたずんでいます。
オリバンとユギルは、信じられない想いでそれを眺めてしまいました。地上から数十メートルもの高さにある城の屋上。そこに突然現れた三頭の馬たちは、背中に大きな二枚の翼が生えていたのです。
「ペガサスか――」
とオリバンが言うと、翼を持つ馬が振り向きました。その青い瞳には、人間と同じ高い知性が宿っていました。
「我々は天空の国から飛んできた」
と馬は人のことばで話しました。
「人間を乗せて飛ぶのは我々の本意ではないが、天空王の頼みではしかたがない。我々に乗るがいい。おまえたちを、金の石の勇者の一行の元へ運んでやろう」
ペガサスのプライドの高さが、声にはっきり表れていました。オリバンとユギルが近づいていくと、いっせいに大きな翼を広げて羽ばたき、ブルル、と不愉快そうに鼻を鳴らします。本当は人間など背中に乗せたくないのです。
ユギルが丁寧に話しかけました。
「決まり事を曲げてわたくしたちを運んでくださることに、心から感謝いたします。勇者たちが大変危険な状況に陥っております。どうか力をお貸しください」
「そのために我々はここにいる。早く乗れ」
天の馬の返事はそっけないものでしたが、ユギルたちが背にかけた手を振り払おうとはしませんでした。ユギルとオリバンはペガサスの背にまたがりました――。
すると、開け放してあった扉の向こうから階段を駆け上がる足音がして、屋上に飛び出してきた人々がいました。それぞれに青、白、赤、深緑の長衣を来ています。ロムド城を守る四大魔法使いでした。
魔法使いたちは常に城を守り続けています。城の内外を見張る魔法の目に、屋上に降り立った三頭のペガサスが映ったので、仰天して駆けつけてきたのでした。聖なる天の馬がロムド城に舞い降りるなど、前代未聞の出来事だったのです。
光り輝く天馬を見たとたん、白の魔法使いと青の魔法使いがその場にひざまずきました。白の魔法使いは神に仕える女神官、青の魔法使いも神の名の下に戦う武僧です。神聖な生き物に、うやうやしく頭を下げます。
「長生きはするもんじゃな。本物のペガサスを目にする日が来るとは思わなんだ」
と年老いた深緑の魔法使いがあごひげをなでます。赤の魔法使いは小柄で黒い肌の異国の男ですが、猫のような金の目を光らせながら、感心したようにペガサスを眺め続けていました。
そんな彼らに向かってオリバンが言いました。
「フルートたちに危険が迫っている。助けに行ってくるぞ」
四人を代表して、白の魔法使いが口を開きました。
「聖なる光の下、正義のために空駆ける殿下とユギル殿には、神の守りが片時も離れること共になくありましょう。悪しきものたちが正義にことごとく打ち砕かれますように。殿下たちが無事お戻りになられるまで、私たちは祈り続けております」
他の三人の魔法使いもいっせいに頭を下げます。
オリバンは空を見上げて、金色のたてがみをつかみました。ペガサスたちは鞍も手綱もつけていなかったのです。
「行こう! 金の石の勇者たちのところへ――!」
純白の翼が三組、ばさりと城の屋上に広がりました。オリバンとユギルを乗せた二頭のペガサスと、誰も背に乗せていない一頭が、大きな羽ばたきを繰り返します。と、馬たちは次々に空へと駆け上がっていきました。まるで空が見えない大地ででもあるように、空を蹴り、翼の音を立てながら、あっという間に舞い上がります。
四人の魔法使いたちはそれを見送り続けました。夕暮れの迫る空、次第に赤さを増してくる雲の海へと、天の馬たちは遠ざかっていきます。
「ご武運を」
と青の魔法使いが静かに祈りました。