「ユギル、入るぞ」
そう言って城の一室へ入ったオリバンは、驚いて立ち止まりました。
「殿下」
とテーブルから青年が振り向きました。長い銀髪に灰色の長衣の占い師です。その占い師の部屋をオリバンは見回しました。
「ど、どうしたのだ、この有り様は……?」
ユギルの部屋は、いつもほとんど物がありません。テーブルと椅子と机、隣室にはベッドと衣装ダンス。それだけが、部屋にある家具のすべてでした。壁にはタペストリーひとつかかっていません。物が多すぎる部屋では占いに集中できなくなるので、本当に必要最低限の物しか置かないようにしているのです。
ところが、今、その部屋には床中にさまざまな物が転がっていて、文字通り、足の踏み場もなくなっていました。木ぎれや棒きれ、文字を刻んだ板や紙、いくつものこぶを結んだロープ、大小の石ころ、本、カード、宝石の原石、楽器のようなもの、武器に似たもの、何に使うのかさっぱり見当もつかない道具の数々……。どれも、ユギルの部屋では見かけたこともなかった物ばかりです。
「お見苦しいところを。取り散らかしておりました」
とユギルは椅子から立ち上がり、丁寧に皇太子へ頭を下げました。いつもどおりの落ち着いた物腰です。
「見苦しいとは思わんが、珍しいな。何をしていたのだ?」
床の上の物を踏まないように、苦心して床の隙間を探しながら、オリバンが近づいてきました。テーブルの上に、いつもの黒い占盤ではなく、磨き上げられた水晶玉が載っているのを見て、また目を丸くします。
「これで占っていたのか?」
「いえ……残念ながら、これでも『見る』ことはできませんでした」
とユギルは静かに答えました。かすかな苦笑が漂っています。
「占盤で象徴を見られないので、他の占いの道具ではどうかと片っ端から試してみたのですが、やはり思うようには参りませんでした。そもそもの心の中の占いの目が見えなくなっているのですから、いたしかたないのですが……」
口には出しませんが、顔には疲れたような表情も漂っています。自分で言っているよりもはるかに真剣に、長時間さまざまな占いを試していたのに違いありません。
オリバンは眉をひそめました。
「そんなに焦らなくとも良いのではないか? もう少しすれば占いの目も戻ってくると、ユギル自身が言っていたではないか」
すると、ユギルは一瞬考えるように沈黙してから答えました。
「――予感がますます強まっているのです。勇者殿たちに本当に危険が迫っている予感です。一刻も早く占って彼らの状態を知らなければ手遅れになる、という予感もいたします」
オリバンは思わず絶句しました。ユギルは大陸でも屈指の占者です。一時的に占いの力を失ってしまっても、その根本の未来を感じ取る力は失われることなく存在していて、予感という形でユギルに伝えているのに違いありません。
「あいつらは、今頃どこで何をしているのだろう」
と、とうとうオリバンも言ってしまいました。焦りの表情がオリバンの顔にも現れ始めていました。フルートたちのいるところさえわかれば、今すぐにでも助けに駆けつけたい、と考えます――。
すると、ユギルがふと、顔を上げて皇太子を見直しました。
「殿下、今日はどのようなご用件で?」
とたんに、オリバンは、はっとしました。
「すまん。先にこれを知らせねばならなかったのだ――。ラヴィア夫人の容態がよくない。今朝方から意識がまったく戻らない、と知らせが入った」
ユギルは顔色を変えました。いよいよラヴィア夫人が危篤に陥ったのです。
皇太子は言い続けました。
「父上とリーンズ宰相はまた夫人の屋敷に向かった。ユギルの馬車も準備してあるから、早く行くといい」
ユギルは立ちつくしたままでした。青ざめた顔でじっと考え込み、やがて、うつむきがちに首を振りました。
「いいえ……わたくしは参れません」
「何故!? 医者の話では、夫人はもってあと一日二日という話だ! せめてそばにいてやらなくては――!」
「先生から叱られてしまいます」
とユギルは静かに言いました。驚く皇太子に続けます。
「どんなときでも自分のなすべき役目を果たせ、と先生に言われたのです。自分はそんなふうに生徒に教えてきたのだ、と……。それなのに、わたくしが占者の仕事を放棄して駆けつければ、先生はきっとお怒りになることでしょう。どんな状態にあっても、悲しまれるに違いありません……。わたくしは、参れません」
若い占者は夫人の屋敷がある方角へ遠く目を向けて、唇をかみました。駆けつけたい気持ちをじっとこらえたのです。
ユギル……とオリバンはつぶやきました。
銀髪の占者は自分の部屋の中を見回しました。一面に転がる占いの道具を見て、また溜息をつきます。
「具体的なことが知りたいのです。勇者殿たちにどんな危険が迫っているのか。どうすればお助けすることができるのか――。先生は、病の床にあっても勇者殿たちを気にかけておいででした。勇者殿たちをお助けすることが、わたくしの今一番になすべきことなのです。ですが――」
ユギルは物事や人を示す象徴を常人には見えない場所に映し、それを読み解くことで現在や未来を占います。けれども、どんな道具を使っても、象徴は少しも見えてきません。なすべきことが、どうしても見えてこないのでした。
オリバンはしばらく黙っていましたが、やがて、こんなことを言いました。
「絶対にあきらめるな――と言うだろうな、あいつなら」
ユギルはオリバンを見ました。皇太子が、ちょっと笑うような顔をして見せます。
「フルートだ。黄泉の門の戦いのとき、どれほど困難なことが起きても、どんなに絶望的な状況に陥っても、そう言い続けていたそうだ。絶対にあきらめるな、あきらめたらその瞬間にこちらが負けるんだ、とな。ポチが話していた。そうして、あいつは本当に魔王を倒して――ゼンの魂を黄泉の門の前から引き戻した」
ユギルはすぐには返事をしませんでした。皇太子がもう一つの意味を込めて、そのことばを言ったのだと気がついたのです。だから、ラヴィア夫人のこともあきらめるな、と。
そう、フルートさえディーラに戻ってくれば、ラヴィア夫人を救うこともできるのです。魔法の金の石は夫人を死の淵から救い出してくれることでしょう。そのためにも、ユギルはフルートたちを助ける方法を見いださなくてはならないのでした。
すると、オリバンが太い腕を組み、今度はちょっと苦笑いをしながら続けました。
「まったく、あいつにはかなわんな。まだあの年だというのに、他の誰よりも強いことを言う。見た目はあれほど物静かで優しげだというのに……。あいつは、あの小さな体で世界中を守っているのだ」
ユギルは首をかしげるようにして見上げました。皇太子は本当に大柄な青年です。ユギルも長身ですが、オリバンの顔は、それよりさらに上にあります。
「悔しゅうございますか、殿下?」
と尋ねると、オリバンは今度ははっきりと苦笑しました。
「今さらそんな気持ちはない。あいつは金の石の勇者だ。世界とそこに住む人々を守るのが、あいつの役目なのだ。あの年で本当に強いことだ、と思っただけだ」
彼が金の石の勇者のフルートをねたみ憎んだのは、もう遠い昔のことでした。
左様ですね、とユギルはうなずきました。
「勇者殿は本当にお強い……。顔だちこそまるで女性のようですが、誰よりも重い定めに一人で耐えておられます。心弱い人間にあのようなことはできません。ですが――」
考える顔で、ユギルは続けました。
「それでも、一人きりで定めの中を生き続けていくのは辛いことでございましょう……。世界を守る勇者にも、守り助ける者は必要だろうと思います。いえ。そういう勇者だからこそ、支える者が必要なのです」
「我々もその一員というわけか」
とオリバンは笑いました。本当に、不思議なくらいもう、ねたむ気持ちはありません。逆に、そんな役割になった自分自身を誇らしくさえ感じているのです。
そういえば、これが自分の昔の夢だったのだ、とオリバンは考えました。金の石の勇者と共に戦えるように強くなる、絶対に勇者と一緒に闇からこの世界を守ってみせる、と幼いころ、オリバンは口癖のように言っていたのです……。
一方、ユギルはまた目を伏せて考え込んでいました。
世界を守る勇者と、その勇者を守る仲間たち。その一行に迫る危険の予感はますます強まるばかりです。何か、本当に危険な決定の一打が、彼らの上に振り下ろされようとしているのを感じます。
それが何なのか。どうすればそれを防げるのか。
行方を示す象徴を、ついまた虚空に求めてしまいます。
象徴はどうしても見えてきません。ただ予感だけがひしひしと迫ってきます。手に取ることができそうなほど、はっきりとした予感です。何かを告げるように、ユギルの心を揺さぶり続けます――。
とたんに、ユギルは、はっとしました。青と金の色違いの瞳を見開き、少しの間ことばもなく考え込み、やがて、そうだ……とつぶやきます。
「なんだ?」
とオリバンがユギルのつぶやきを聞きつけ、占者が強いまなざしをしているのを見て、うなずきました。
「何か思いついたのだな。どんなことだ――」
「大変危うい方法です」
とユギルは答えました。いつになく興奮した口調になっています。
「ですが、このやり方でなら、皆様方の上に迫るものを捉えることができるかもしれません。ご協力ください、殿下」
「無論だ」
即座にオリバンが答えます。
「では、早速準備を――」
二人の青年が部屋の中で動き出しました。
窓の外に広がるディーラの空も、やはり暗い雲におおわれています。その彼方に、雲の切れ間から光が差している場所がありました。遠い遠い場所でしたが、確かに、光は天から差し続けているのでした――。