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第8巻「薔薇色の姫君の戦い」

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59.思い出

 「トゥーガリン、喜べ。おまえの任務がやっと決まったぞ」

 自分の上司に当たる男に呼び止められてそう言われたとき、トウガリは特に嬉しいとは思いませんでした。驚く気持ちも、やれやれやっとか、と安堵する気持ちもわいてはきません。ただ、へえ、と他人事のように思っただけでした。

 トウガリが何の反応も示さなかったので、上司は拍子抜けした顔になりました。

「相変わらず無愛想な奴だな。嬉しくないのか? おまえの初仕事だぞ」

 初仕事というのは確かでした。間者の修行を終えて、ザカラス城付きの間者部隊に配置されてから、トウガリに仕事が回されてくることはまだ一度もなかったのです。

 同じ時期に修行を終えて部隊に配属された他の同僚たちには、次々と仕事が舞い込みます。けれども、トウガリにはまったく命令が下りません。間者は人目を避けて行動するのが基本ですが、トウガリは背がとても高い上に痩せていて、人目を惹く風貌をしていたからです。目立つ間者に仕事が依頼されることはありません。修業時代、トウガリがどれほど優秀な成績を収めていても、そんなことは関係ありませんでした。

 焦る気持ちで一年、現場で次々と成功を収めてくる同僚たちをねたみ怒り狂って一年、自暴自棄な気分でさらに一年、その時期も過ぎて、すっかり投げやりな気分になって半年がたとうという頃でした。

「この風体でできる仕事ですか?」

 とトウガリが自分の痩せた長身を示してみせると、上司が言いました。

「その風体だから、できることだな。――道化の役目だ」

 ほう、とトウガリはまた思いました。なるほど、道化ならこの長身も怪しまれないでしょう。しかし、トウガリは必要なことさえ言いたくないくらい無口な男です。そんな自分に、ずいぶんと皮肉な役どころが回ってきたものだ、と考えます。

「なんだ、自信がないか、トゥーガリン?」

 と上司が尋ねてきたので、トウガリは肩をすくめました。

「練習しますよ。そのくらいはなんでもない。で、道化になりすまして、何をしろと言うんです?」

「王女はまもなく隣のロムド国王の元へお輿入れする。それに同行してロムドに潜入するのだ」

 ははぁ、なるほどね、とトウガリはまた考えました。ザカラス国は過日の戦闘でロムドに敗れ、その後両国は和解して、末の王女のメノアがロムド王の元へ嫁ぐことが決まっていました。新しい王妃になると言えば聞こえはよいのですが、実質は和平を裏切らない証としての人質です。ザカラスとロムドの本当の関係は、非常に冷え切ったものでした。

 王女は嫁ぐ際に、自国の従者や侍女たちを連れて行くことができます。トウガリは宮廷道化として王女についていって、敵国ロムドの様子を探るように、と言われているのでした。

「道化としてのおまえの名前はトウガリだ」

 と上司は言って、また部下の表情をうかがうような顔をしました。

「どうだ? 奇妙な名前でがっかりしたか?」

「別に」

 とトウガリは答えました。本当に、なんと呼ばれようが、何の役目を与えられようが、もうどうでもいい気がしていました。何もかもが、すでに他人事だったのです――。

  

 それでも、トウガリはぬかりなく準備を整えました。修業時代には飛び抜けて優秀で、他の同期たちを寄せ付けなかった彼です。そのプライドがまだわずかに残っていたのでした。

 王女と共にロムドに潜入するためには、まず王女に気に入られなくてはなりません。あらゆる道化の芸事と一緒に、話術や楽器なども練習しました。化粧と衣装は奇抜なほど派手にして、一目見たら絶対忘れられないようにしました。それは、ロムドに潜入してから城内を探り回るための工夫でもありました。派手な道化の姿で印象づけておけば、化粧を落とし衣装を脱いだとき、それがトウガリだとは気づかれにくくなります。化粧が素顔を隠してくれるのも好都合でした。

 初めて王女の前に道化として登場し、巧みな芸と話術を披露したとき、メノア王女はそれをとても喜びました。トウガリが手の中に次々と本物のヒヨコを出す手品をやって見せると、手を打ち合わせて大喜びでした。その楽しそうな王女の笑顔に、これならば仕事もうまくいくだろう、とトウガリは確信したのでした。

 

 そんな王女が、城の中庭で一人きりでいるのを見かけたのは、その日の夕暮れのことでした。王女は花を愛でているようでしたが、バラ色のドレスを着た後ろ姿が、なんとなく淋しげに見えました。トウガリはまだ道化の格好をしていましたが、少し考えてから中庭に入り込みました。淋しそうな王女を慰めれば、自分をいっそう売り込めると考えたのです。ほの暗くなっていく庭の中、王女のかたわらにひざまずいて、大げさなほど丁寧にお辞儀をして見せます。

「これはこれは、麗しのメノア王女様。こんなお時間にこのような場所でお一人でいかがなさいました? 王女様のお美しさに己を恥じて、太陽は顔を赤らめて西の山陰に沈んでしまいました。間もなく東からは月が昇りますが、昔から、月の女神は嫉妬深いと言われております。お月様にねたまれないうちにお部屋に戻って、そこでこのトウガリの芸をご覧になっては――」

 流れるようなトウガリの弁舌が、ふいにとぎれました。思わず王女の顔を見上げてしまいます。

 メノア王女は中庭にたたずんだまま、両手を前で組み合わせ、黙って涙を流していたのです。

 王女はいつも笑顔でいることで有名な人でした。父のザカラス王はひどく冷淡な人物でしたが、王女はどんな人にもほほえみ、優しいことばをかけてくれます。城下町に出れば、下町の薄汚れた子どもたちや物乞いにさえ笑顔を向けます。そうすると、人々は自分の不満も憤りもたちまち忘れて、思わず王女にほほえみ返してしまうのです。市民は「天使の笑顔の姫」と王女を呼んで、その笑い顔を心から愛していました。

 けれども、このとき、王女は泣いていました。天使の笑顔はありません。ただはらはらと涙をこぼし続けています。

 トウガリは我に返ると、あわてて言いました。

「王女様、いかがなさいましたか? 天使の笑顔の姫様が、笑顔を忘れてお泣きになるとは、どれほど悲しいことが姫様を襲ったというのでしょう。このトウガリにお聞かせくださいませんか――?」

 メノア王女はうつむいたまま、しばらく何も言わずにいましたが、トウガリが待ち続けていると、やがて言いました。

「ロムドは、良い国でしょうか?」

 ああ、嫁ぎ先のことを考えて不安になっていたのか、とトウガリは心でうなずきました。王女は今年二十二歳でしたが、生まれてこの方、首都ザカリアの外へ出たことがありません。宮廷の中で蝶よ花よと育てられてきた女性なのですから、無理もないことでした。

 すると、王女がまた言いました。

「私が結婚するロムド国王は、父上よりも年上なのだと聞いています。私に本当にそんな方の后が務まるのでしょうか……?」

 おびえたような顔が不憫でした。実際、ロムド王はメノア王女とは再婚なので、王女より三十以上も年上なのです。典型的な政略結婚でした。

 トウガリは言いました。

「ロムド王は年齢よりずっと若く見える方だと聞いております。それに、賢王と名高い名君です。きっと、王女様もお幸せになられることでしょう。お笑いください、メノア様。姫様のそのほほえみは天使の笑顔と呼ばれています。ロムドの王であろうと誰であろうと、姫様にほほえまれて、優しい気持ちになれない者がおりましょうか」

 それは単なる気休め、ただのリップサービスでした。身分高い主人を持ち上げ、いい気持ちにさせることで、束の間不安を忘れさせようとしたのです。王女が向かおうとしているのは事実上の敵国です。王妃というのは名ばかりのことで、どれほど厳しい処遇が待ちかまえているかわからなかったのです。

 

 けれども、そう言われたとたん、メノア王女は表情を変えました。泣くのをやめ、真剣な顔で考え込み、やがて、そうですね……と言いました。

「トウガリの言うとおりですね……。私にはなんの力もありません。政治のことはまるでわからないし、戦うこともできないし、不思議な魔法の力も持ってはいません。でも、誰かに笑ってあげることだけはできます。そんな私の笑顔を見て、心が安まる、と人は言ってくれます。そんなふうに喜んでもらえるのが嬉しくて、私はずっと笑顔でいました……。私が笑うことで人が安らいでくれるなら、私はこれからも笑い続けましょう。ザカラスの人々だけでなく、ロムドの国王陛下も、まだ幼い王子様や王女様も、ロムドの国の人々も、皆が幸せな気持ちになって笑ってくださるように、私は笑顔であり続けることにします――」

 そう言って王女は頬に残った涙をぬぐうと、トウガリに向かってにっこりと笑って見せました。

 そのとたん、トウガリは気がつきました。この王女はこう考えることで、王宮の中を生き延びてきたんだ、と。理不尽な出来事、意味のわからない策略が横行しているのが王宮です。王族であっても、自分自身の人生を決めることはできません。ただ国王の独断の下に、ある者は異国へ嫁がされ、ある者は戦争の責任を取らされて処刑され、ある者は王に絶対服従させられます。

 そんな中で自分自身を守り、他の者たちを愛し続けるために、この王女はほほえみ続けていたのです。どんな人でも、好意のある笑顔にほほえみ返すときには優しい気持ちになることを、王女は本能で知っていたのでした。

 天使の笑顔は、今はトウガリだけに向けられていました。優しく暖かな微笑は、トウガリを信じ切っていて、少しも疑っていません。

 トウガリの胸の奥で、どきりと心臓が大きく脈打ちました。鼓動が次第に速く高くなっていきます。それと同時に、今まで一度も感じたことのなかった想いが、ゆっくりとわき上がってきました。この人の笑顔を守ってやりたい、という不思議な感情です――。

 トウガリはとまどって、思わず顔を伏せました。道化の化粧と夕闇が、赤く染まった自分の顔を隠してくれることに感謝します。

 すると、メノア王女が言いました。

「トウガリ。トウガリは私と一緒にロムドへ行ってくれますよね? ずっと、私と一緒にいてくれますね?」

 深い信頼が、その声の中にありました。

 トウガリは王女の前で胸に手を当て、頭を下げました。

「このトウガリ、力いたらない者ではございますが、生涯メノア王女様に心からお仕えすることを誓い申し上げます」

 はっきりとそう言って目を上げると、王女はトウガリに向かってまたほほえんでいました。バラ色のドレス、バラ色の夕暮れ。その中で、王女の笑顔はとても幸せそうに輝いて見えました――。

 

 ガシャーン、と金属と金属が激しくぶつかり合う音が響いて、トウガリの幸せな夢を破りました。鉄格子の扉が開いて、人が牢の中に入ってきたのです。

 トウガリはそちらを見ようとして、激痛に思わずうめき声を上げました。背中も、手も足も、顔も胸も、全身痛んでいない場所がありません。身の置き所がなくて寝返りを打つと、狭い吊りベッドから下に落ちました。床はカビと苔の匂いがする湿った石畳です。全身をたたきつけられて、またうめいてしまいます。

 すると、トウガリの頭のわきに三人の男たちが立ちました。目の前に垂れ下がっている細い革紐は、男たちが持っている鞭の先端です。

 血がこびりついて乾いたトウガリの頭を、男の一人が蹴り飛ばしました。頭を抱えてのたうつトウガリに、冷ややかに言います。

「どうだ。金の石の勇者どもの行方を話す気になったか?」

 トウガリはしばらくの間、痛みで声も出せませんでしたが、やがてようやく息を吸うと、あえぎながら答えました。

「知らん……そんなものは打ち合わせなかった……。だが、たとえ知っていたって……おまえらには、教えるものか……」

「強情だな」

 と男は言うと、またトウガリを蹴飛ばしました。今度は靴先がまともにトウガリの腹にめり込みます。

 うめき声を上げてのたうち続けるトウガリを前に、男は鞭を持った男たちに命じました。

「やれ。ただし殺さん程度にな」

 ひゅっと鞭が空を切り、続いてトウガリの背中に振り下ろされました。すでに何度も鞭で打たれた背中は、シャツが裂け、皮膚も裂けて血に染まっています。そこにまた新しい傷が走り、血が流れ出します。

 鞭の音は何度も何度も響きました。そのたびにトウガリの悲鳴が上がります。

 やがて、激しすぎる痛みにトウガリの意識が遠のき始めました。

 ぼやけて輪郭をなくしていく世界の中、トウガリの目の前に浮かんできたのは、美しく優しいバラ色の笑顔でした――。

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