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第8巻「薔薇色の姫君の戦い」

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55.安堵(あんど)

 ザカラス兵の矢がポチの体を貫きました。ポチが鋭い悲鳴を上げて地面に落ちていきます――。

 

 とたんに、茂みの中でルルが飛び跳ねました。外へ飛び出してポチに駆けつけようとします。メールはその首輪をつかんで抑え続けました。

「落ち着きな、ルル……落ち着きなったら……!」

 メーレーン王女もフルートの腕の中で暴れ続けていました。大の犬好きで有名な王女です。後先を考えずにポチを助けに飛び出していこうとします。フルートは必死でそれを抑え続けました。小柄な少女だというのに、驚くほどの力です。

 すると、王女がついに口をふさぐフルートの手を振り切りました。

「無礼者! この手をお放し!」

 いつもおっとりとほほえんでいる王女からは想像もつかない、激しい声でした。けれども、やっぱりフルートは王女を放しません。再び王女の口をふさぎ、低い声でささやきます。

「だめです、王女様。今出たら――ポチの犠牲が無駄になる――」

 王女は泣きながらフルートをにらみました。ここに兄のオリバンが居合わせたら意外に思うくらい、普段の王女らしくない立腹ぶりでした。それほどポチを助けようと必死になっていたのです。

 けれども、次の瞬間、メーレーン王女は驚いた顔になりました。

 フルートは、王女などよりはるかに激しい怒りに顔を歪めて、遠くに倒れるポチを見つめていたのです。歯を食いしばり、ポチに襲いかかる兵士たちをすさまじい目でにらみつけています。痛いくらいの力で王女を抑え続けます――。

 やったぞ! とザカラス兵が歓声を上げているのが聞こえました。楽しそうな笑い声が上がる中、誰かがのんびりと言っていました。

「まだ生きてるぞ。とどめを刺してやれよ」

 

 とたんに立ち上がったのはポポロでした。抑えるゼンの手をはねのけ、右手を前に突き出して、茂みの中から一声叫びます。

「シロボマローデ!」

 ポポロは今日はザカラス城で停止の魔法を使っただけでした。もう一つ残っていた魔法が緑の星になって指先から散り、淡い光の柱に変わって茂みの外へと飛び出していきます。

 光はそのまままっすぐ空に駆け上り、そこに一つの映像を映し出しました。長い白い竜のような怪物と、その背に乗った子どもたちの姿です。子どもたちは金の鎧兜とバラ色のドレスと紺色の侍女のドレスを着ていました。風の犬のポチに乗った勇者姿のフルートと、メーレーン姫とポポロ自身の幻です。長い風の尾をひらめかせながら、丘の上から細い月の見える西の空へと飛んでいきます。

 ひょっとしたら、茂みで呪文を唱えたポポロの声を聞きつけた兵士もいたのかもしれません。けれども、彼らは目の前に突然現れた風の怪物とその上の勇者たちの姿に驚いて、そちらへ惹きつけられていました。金の石の勇者だ! 捕まえろ! と声が上がり、空に向かって矢が射かけられます。

「やめんか、馬鹿者! 王女に当たるぞ!」

 と隊長の叱責が飛びます。

 幻はゆっくりと西へ飛び始めました。本当の風の犬の半分ほどの速さです。追う者を振り切ってしまわないようにしながら、丘から遠ざかっていきます。その後を、馬に飛び乗ったザカラス兵たちが追いかけていきます――。

 

 丘から兵士たちがいなくなったとたん、子どもたちは我先に茂みから飛び出しました。

「ポチ!」

「ポチ――!」

 口々に叫びながら、離れた地面の上に倒れている子犬へ駆け寄っていきます。その先頭を切って駆けていくのはルルとフルートでした。ほとんど同時にポチのところへたどり着き、その小さな体に飛びつきます。

 とたんに、ルルは息を呑みました。細い矢がポチの背中から腹にかけて突き刺さって、矢羽根のところで止まっていました。子犬は白目をむき、口から血の泡を吹きながら足をひくひくさせています。もう意識はありません。呼吸さえほとんど停まってしまっているのです。ルルはつんざくような悲鳴を上げました。

「いや――いやぁぁぁ……!!!」

 そのかたわらで、フルートは首のペンダントを外しました。ものも言わずに、金色の石をポチの体に押し当てます。

 すると、ポチのけいれんが停まりました。体を貫いていた矢がじりじりと押し戻され、やがて血まみれになって抜け落ちます。続いて、小さな体がケホッ、ケホッと何度も咳き込みました。そうして血の泡をすっかり吐き出してしまうと、ポチはようやく呼吸ができるようになりました。ふうっと人間のように大きな溜息をつき、黒い瞳を開いて、フルートとルルを見上げます。

「ワン、ありがとう。間に合いましたよ……」

 ポチの白い毛皮はまだ血で真っ赤に染まっていましたが、もうどこにも傷は残っていませんでした。癒しの魔石の力は絶大です。ポチはすぐに立ち上がると、遅れて駆けつけてきた他の仲間たちに向かって尻尾を振って見せました。

「ゼン、メール、ポポロ――王女様」

「ポチ!!」

 仲間たちはいっせいにポチに飛びつき、子犬を抱きしめようとしました。

 すると、それより早く、フルートが腕の中にポチをさらってしまいました。堅く堅く胸の中に子犬を抱きしめます。

 ポチは息が詰まりそうになって、目を白黒させました。最近自分の気持ちを隠してしまうようになったフルートが、今ははっきりと感情の匂いをさせていました。怒り、悲しみ、悔しさ、後悔――そんなものがごちゃ混ぜになった中、ひときわ強く伝わってくるのは安堵の匂いでした。

「ごめん、ポチ……ごめんよ……」

 フルートは子犬を抱きしめながらそう繰り返していました。なんだか今にも泣き出してしまいそうに聞こえる声でした。

 そんなフルートとポチを、仲間たちもほっとした表情で見守りました。ルルは放心状態で座り込んでしまっています。ポチが無事に助かって、安心しすぎて何も考えられなくなっていたのです。

 メーレーン王女は立ちつくしていました。いつもの穏やかで素直な表情に戻った顔を赤く染め、両手を頬に押し当てています。その大きな灰色の瞳は、ポチを抱きしめ続けるフルートを見つめていました。

「まあ……」

 そうひとこと言ったきり、また王女は何も言えなくなってしまいました。丘の上から吹き下ろしてくる風が、王女のバラ色のコートの裾を揺らしました。

 

 丘の麓を風が吹き続けています。冷たい北風です。

 ザカラス兵たちの声はもう西の方角へ遠ざかって聞こえなくなっていましたが、やがて、気がついたようにポポロが言い出しました。

「早くここを離れないと……。あたしの魔法は二、三分しか効かないから、今頃幻は消えてるわ。あの人たちが戻ってくる前に逃げないと……」

 それはまったくその通りでした。フルートは腕の中からポチを放し、ルルもようやく我に返って立ち上がりました。子どもたちを背中に乗せようと、風の犬に変身します。

 が、ポチの姿が変わりませんでした。

 かたわらでルルが十メートルあまりもある風の犬になっているのに、ポチは白い子犬の姿のままです。ポチは驚いて、何度も何度も変身を試みました。いつだって、念じさえすれば姿は変わって、巨大な風の犬になれるのです。それなのに、今はポチがいくら念じても、どうしても変身することができません。

「ワン、何故……?」

 うろたえているポチに、風の犬のルルが頭を寄せました。子犬の首に巻かれた銀の首輪をじっと見つめ、やがて、ああ、と溜息をつきました。

「風の石が傷ついてるわよ、ポチ。これじゃ変身できないわ」

 ポチたちは風の首輪と呼ばれる魔法の道具を首に巻いていて、その力で風の犬に変身します。銀糸を編み上げて、風の石と呼ばれる魔石をはめ込んだ首輪です。ポチの風の石は緑、ルルの石は青ですが、ポチの石に白い傷が走っていました。さっきザカラス兵に追い回され、剣で切りつけられたときに傷ついたのです。ポチはますますうろたえました。

「ワン、どうしよう。どうしたらいいんだろう……」

 風の犬に変身できなければ、ポチは戦うことができません。仲間たちを背中に乗せて空を飛ぶことだってできないのです。

 

 フルートは腕組みしました。ぐずぐずしてはいられません。ポポロが言っていたとおり、幻が消えたら、ザカラス兵は策略に気がついてここに戻ってくるに違いないのです。

「今、一番大切なのは、王女様を一刻も早く無事にロムド城へ送り届けることだ。ルル、ポポロ、君たちに頼む。空を飛んで王女様を連れて行ってくれ。ぼくたちは敵の目を避けながら、陸路を通ってロムドに戻るから」

「そんな……!」

 と心配そうな顔をするルルとポポロに、フルートは重ねて言いました。

「優先順位だよ。大事なことからやるしかないんだ」

「もう、フルートったら」

 ふしょうぶしょうという感じでしたが、ルルはようやく承知して風の体を伸ばしました。その上にポポロが乗り、メーレーン王女に向かって手を差し伸べます。

「どうぞ、王女様……」

 ポポロが紺色の侍女のドレスを着ているせいもあって、本当に侍女が自分の主に丁寧に呼びかけているように見えました。王女がポポロの手を取ってルルの上にまたがります。

 すると、王女はたちまち地面に尻もちをついてしまいました。体が風の中をすり抜けて、地上に落ちてしまったのです。

 一同はびっくりしました。

「ルル、王女様を乗せられないのかい!?」

 とメールが尋ねます。王女が驚いた顔でルルに手を伸ばしました。白い幻のような風の体を、王女の腕は素通りしてしまいます。ふれることもつかむこともまったくできません。

「まあ……メーレーンはさっき風の犬になったポチに乗れましたのに」

 と王女は言いました。とても驚いていましたが、怒る声ではありませんでした。

 一方、仲間たちは思わず頭を抱えていました。風の犬は、自分が仲間と認めた人間でなければ背中に乗せて飛ぶことはできません。ルルは一行の中でもかなり人の好き嫌いが激しい性分です。口に出してはいませんでしたが、メーレーン王女が気に入らなくて、密かに嫌っていたのに違いありませんでした。

 人を好きになるのも嫌いになるのも、それはその人自身の自由です。無理に好きになれと言われてもできるわけがないのですから、当然のことです。ただ、この場面では非常に困りました。ルルが王女を乗せられなければ、王女を空からロムド城に逃がすことができないのです。

 フルートはルルに頼んでみました。

「だめかい、ルル? ロムド城まででいいんだ。王女様を運べないかな?」

 他でもないフルートにそう言われて、ルルも努力はしたようでした。けれども、やっぱり王女はルルの風の体を通り抜けてしまいます。どうしても背中に乗ることができません。

 

「しょうがない」

 とフルートはとうとう言いました。

「これ以上、この場所にぐずぐずしてるわけにはいかない。こうなったら、王女様を連れて歩いてロムド城まで戻るしかないな」

 一同は何も言えなくなりました。

 ロムドまでははるか遠い道のりです。馬車で街道を走ってきても、二週間近くかかりました。これを歩いて行ったなら、どれほどの日数がかかることでしょう。しかも、王女はほとんど城の外に出たことがないような人です。追っ手もかかっています。とんでもなく困難な旅路になることは、目に見えていました。

 けれども、王女は言いました。

「メーレーンは歩きます。勇者の皆様方と一緒にがんばって、お城までまいりますわ」

 と、けなげな決心を顔に浮かべます。それはとても素直で、同時にとても頼りなさそうに見えました。

 思わず溜息をついた仲間たちに向かって、フルートは強く言いました。

「よし――それじゃ行くぞ! 出発だ」

 計り知れない不安と困難の予感。そんなものを抱えながら、一行はバラ色のドレスの王女様と共に夜の中を歩き出しました。

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