風の犬たちに乗ったフルートとメーレーン王女とポポロ、ゼンとメールが、ザカリア郊外の丘にたどり着いたのは、もう夕刻に近い頃でした。追っ手をまき、人目を避けるために、わざとその時間まで逃げ回っていたのです。
もう彼らを追ってくる敵はありませんでした。目ざす丘は街道に近い場所にあります。ポチとルルは、人に気づかれないように街道とは反対の方角から、低空飛行で丘に近づいていきました。
日が暮れた空は青から群青に、やがて藍色、青みを帯びた黒へと色を変えていました。まだほの明るさが残っていますが、それも間もなく漆黒に変わることでしょう。夕映えが淡く漂う西の空に、爪の先で白く傷をつけたような細い三日月がかかっていました。
一行は丘の麓に降り立ちました。すぐさまフルートとゼンが飛び降りて、あたりを見回します。丘は暗くなりすぎて、フルートにはもう見通しがききません。夜目の利く友人に尋ねます。
「コラムさんの馬車はいるかい?」
「うーん」
とゼンは一帯を見渡しながら言いました。まだフルートの鎧兜を身につけたままの格好です。
「なんか見当たんねえな。ホントにここが待ち合わせの場所なのか?」
「うん。トウガリが言ったんだ。コラムさんがこの場所で待ってるって」
二人の少年が困惑しているところへ、メール、ポポロ、メーレーン王女の三人の少女たちもやってきました。皆、心配そうな顔をしていましたが、特に王女は不安そうな顔つきでした。王女はこれまで、ほとんど城の外に出たことがありません。暗くなってからはなおさらです。おびえるような目を周囲の暗い丘や空へ向けます。バラ色のコートが闇の中で震えているのは、寒さのためではありませんでした。
さらに、そこへ犬の姿に戻ったポチとルルが駆けてきました。緊張しながら仲間たちに言います。
「ワン、みんな静かにしてください」
「むこうから大勢の人の気配が近づいてくるのよ。きっと敵だわ。鎧や剣の匂いがしているの」
それを聞いて、一同はどきりとしました。もうここにも追っ手がやってきたんだろうか、と考えます。
ゼンは薄暗い中をまた見回し、大きな茂みを見つけて仲間たちを招きました。
「隠れるぞ。こっちだ」
一行が茂みに潜り込んだのとほとんど同時に、数人の男たちが丘の麓に姿を現しました。黒い鎧兜で身を包んでいるので、夜目の利かない子どもたちには、まるで夜の中から兵士たちがわき出してきたように見えました。ザカラス兵です。一行はいっそう低く身をかがめ、声も立てずに茂みの中から敵を見つめました。
ザカラス兵たちは丘を見回しながら口々に話していました。
「本当にこんなところに来るのか? 何かの間違いじゃないのか?」
「陛下直々のご命令だ。勇者が現れようが現れまいが、見張らなくちゃならんさ」
それを聞いて、フルートたちは、はっとしました。自分たちがここに来ることがばれていたんだ、と気がつきます。
「勇者が城から逃げ出したのはもうずいぶん前のことなんだろう? こんなところにぐずぐずしているかな?」
「ファイヤードラゴンを振り切って空を逃げたというしなぁ。もう国境のあたりまで行っちまったんじゃないのか?」
兵士たちは不満げです。自分たちでは気づいていませんが、金の石の勇者を捉えろ、という命令が、彼らの気持ちを重くしているのでした。金の石の勇者の噂は、このザカラスまで伝わってきています。世界を救うため、国籍を越えて闇と戦ってくれている勇者だと言われています。そんな英雄を捕まえたりしていいのだろうか、と彼らは皆、心のどこかで疑問に思っているのでした。
すると、ひときわ強い声が彼らを叱責しました。
「文句を言わずに警備を続けろ!」
彼らの隊長です。下っ端の兵士たちはたちまち口をつぐみ、人の気配や物音はしないかと、また夜の中を見回し始めました。
茂みの中で子どもたちは顔を見合わせました。ザカラス兵が手に掲げている松明の明かりで、互いの顔がかろうじて見えます。
「さてと、どうする?」
とゼンがささやくように尋ねました。
「コラムはきっと、丘が見張られてるのに気がついて、先まで逃げたんだぞ。どうやって合流する?」
すると、フルートが考え込みながら答えました。
「いや、合流しない方がいいのかもしれない。ぼくたちがここに来ることを知って見張っていたんだ。街道はもう見張りでいっぱいだよ。コラムさんの馬車に乗り込んでも、きっと、すぐに検問にあって見つかる気がする。街道は行けないよ」
「だなぁ……。と、すると」
「私たちに乗って国境を越えるのが一番良さそうね」
と答えたのはルルでした。落ち着いた声です。その脇でポチも尻尾を大きく振っています。
フルートは二匹の犬たちにかがみ込みました。
「距離は長いし、大勢が乗ることになるから大変だと思うんだけど、やってもらえるかい?」
真剣な声です。犬たちは笑いました。
「やぁね、フルートったら。水くさい」
「ワン、そうですよ。それに、ぼくたちは人のいない場所を見つけて時々休みながら飛ぶから、大丈夫ですよ」
そのとき、ゼンが急に、しっと声を上げました。
「静かにしろ。兵士がこっちに来るぞ」
茂みに一番近い場所を見張っていたザカラス兵が歩き回っていました。隠れている子どもたちに気がついたわけではありませんが、次第にこちらへ近づいてきます。子どもたちは声を潜め、じっと動かなくなりました。兵士がまた戻っていくのを待ちます。
兵士がすぐそばまでやってきました。夜の中に暗がりを作る茂みはいかにも怪しげなのですが、その奥を見透かすこともせずに、また背を向けます。茂みの奥で、子どもたちが密かにほっと胸をなで下ろします――。
ところが、そのとたん、メールがぴくりと体を引きつらせました。あわてたように鼻と口を手で押さえます。ゼンがいぶかしそうに振り向きました。
時は十二月も半ばです。日が暮れて、丘には冷たい風が吹き出しています。水路に飛び込んで濡れた髪を北風に吹かれて、メールは全身が冷え始め、とうとうくしゃみが出そうになったのでした。あわてて鼻と口を押さえたのですが、どうしても止めることができません。くしゅん、と鋭い音が飛び出してしまいます。
たちまち兵士が振り向きました。剣を抜き、茂みに向かって突き出します。
「誰だ、そこにいるのは!? 出てこい!!」
鋭い声が丘の麓に響き渡ります。
フルートたちは真っ青になりました。メールは顔をおおったまま、うめきました。
「ごめん、みんな……」
ザカラス兵が集まってきました。皆一様に厳しい顔つきで、手に手に剣を握っています。弓矢を構える者もいます。どうしよう、と子どもたちはうろたえました。彼らはゼン以外、誰も防具を身につけていません。しかも、まったく戦うことができないメーレーン王女が一緒です。ここで見つかれば、いっせいに茂みに矢を射かけられて、王女まで怪我をするかもしれませんでした。
すると、ふいにポチが頭を上げました。一声大きく吠えます。
「ワン!!」
とたんに、茂みの外から、おや、という兵士たちの反応が伝わってきました。その隙に、ポチは仲間たちにささやきました。
「じっとしていて。絶対に声を出しちゃだめですよ」
そうして、ポチはいきなり駆け出し、茂みの枝や葉をがさがさ言わせながら、兵士たちが武器を構える真ん中へと飛び出していきました――。
犬だ、犬だぞ! と兵士たちが声を上げました。なぁんだ、と兵士たちがいっせいに考えたのが伝わってきます。
その間をポチは吠えながら走り抜けていきました。人のことばは一言だって話しません。普通の犬のふりをしながら、その場から逃げ出そうとします。
すると、兵士の一人が、ポチを指さして言いました。
「ちょうどいい。勇者の代わりにあれをしとめようぜ!」
彼らは丘に勇者が現れるとは思っていません。退屈な警備の暇つぶしに、そんなことを思いついたのでした。たちまち他の兵士たちがそれに乗り、駆け抜けていくポチに切りかかっていきました。
「キャン!」
ポチは悲鳴を上げて飛びのきました。剣が本当に体をかすめていったのです。刃先が首輪の石にふれて、カチッと小さな音を立てます。振り向くと、数人のザカラス兵が自分に向かって突進してくるところでした。手に手に抜き身の剣を構えています。
ポチは背筋の毛を逆立てると、また一目散に逃げ出しました。今度は本気でその場から逃げだそうとします。
茂みの中では子どもたちが青ざめてそれを見ていました。ルルがポチを助けに飛び出そうとします。メールは、とっさに首輪をつかんで引き止めました。ルルまで飛び出せば、間違いなくザカラス兵に茂みを調べられてしまいます。
ゼンはポポロの手を抑えていました。ポポロはポチを救うのに魔法を使おうとしたのです。厳しい顔で首を振って、やめろ、とポポロに合図します。
フルートはメーレーン王女に飛びついていました。王女の体を抱きしめ、その口を手でふさいでいます。王女はポチがザカラス兵に追い回され始めたとたん、茂みから飛び出して助けに駆けつけようとしたのです。フルートが抑えても、それでもなお振り切って飛び出していこうと暴れます。
フルートは王女にささやきました。
「静かに、王女様……。お願いだから静かにして……!」
必死で王女を抱きかかえます。そのフルートの手を濡らすものがありました。王女が灰色の瞳から大粒の涙をこぼしていたのでした。
ポチがザカラス兵の剣をかわしながら駆けていきます。ポチの白い体は夜の中でもよく見えます。次第にザカラス兵を引き離していくのが、遠くからでもわかります。
すると、ふいにゼンが息を呑むようにつぶやきました。
「やべぇ……!」
びぃん、と弓弦の音が丘の麓に響きました。次の瞬間、ポチが闇の中で飛び跳ね、キャウン、と鋭い悲鳴を上げます。ザカラス兵が放った矢が、逃げていくポチの体をまともに貫いたのでした――。