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第8巻「薔薇色の姫君の戦い」

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第13章 追っ手

53.病人

 部屋の中は静まりかえっていました。

 暖炉で燃える薪がはじける音を立て、夜になって吹き出した風が時折窓の外でうなり声を上げますが、すぐにそれも止んで、また静けさが戻ってきます。

 重いほどの静寂の中に、ベッドがありました。天蓋の薄いカーテンの奥で、一人の女性が横になっています。痩せて小柄な老婆――ラヴィア夫人です。柔らかな羽根布団の下で、夫人の細い胸は苦しそうな息を続けていました。浅く速い呼吸です。

 そして、そのベッドのかたわらに一人の青年がいました。椅子に座り、細い両手を組み合わせて、じっと目を閉じています。灰色の長衣を着た肩から背中にかけて、輝くような銀髪が流れを作っていました。

 やがて、ラヴィア夫人がベッドの中で小さく寝返りを打ちました。一、二度、大きく息をします。たちまち青年は目を開けて老婦人を見ました。その瞳は、右が青、左が金の色違いをしています――。

 すると、ラヴィア夫人も落ちくぼんだ眼窩の奥で目を開きました。こちらは薄いトビ色の瞳です。青年を見上げて、かすれる声で言いました。

「ユギル……何故、こんなところにいるのですか?」

 不思議がる声ではありません。弱々しいながらも、はっきりと青年を叱責しています。

 ユギルは思わず頭を振ると、笑うような顔をして見せました。

「先生のおそばにいさせていただいております。先生が熱を出されたと聞いて、何かお役に立てることもあるかもしれないと思いましたので」

 ラヴィア夫人が突然自宅で倒れてから、すでに丸二日が過ぎていました。ずっと意識のなかった夫人が、このときようやく目を覚ましたのですが、夫人自身はそんなことには気づいていないようでした。フルートに侍女としてのふるまいを教え込んんだ後、風邪をひき、それをこじらせて重い肺炎を起こしたのです。来月には九十という高齢だけに、容態は決して楽観できるものではありませんでした。

 ところが、そんな状態でも、ラヴィア夫人は言いました。

「とんでもないことですよ、ユギル……。あなたはロムド城を守る一番占者です。城を離れてこんなところにいてはなりません。さっさと……お戻りなさい……」

 少し長く話しただけで息づかいが荒くなり、咳が始まりました。ぜろぜろと咽に痰が絡まる音がして呼吸ができなくなってしまいます。ユギルが青ざめて跳ね起きると、ベッドの反対側に控えていた男が即座に立ち上がりました。白い長い衣を着ています。夫人の咽のあたりに手をかざすと、やがてぜろぜろという音が止まって、咳が収まりました。夫人がまた呼吸を始めます。

 白い衣の男は王宮の魔法医でした。ユギルに一礼して、またベッドの脇の椅子に戻ります。ユギルも黙ったまま深く頭を下げました。国王が派遣した魔法医です。王宮でも一、二を争う優秀な能力の持ち主ですが、その医者にも、ラヴィア夫人の病を癒すことはできませんでした。夫人はあまりに年を取っていて、魔法の治療に耐えられるだけの体力が残っていなかったのです。こんなふうに、対処療法をするのがやっとでした。

 

 けれども、息が少し楽になってくると、またラヴィア夫人は言いました。

「ユギル……城へお帰りなさい。私は大丈夫です。あなたの役目へお戻りなさい」

 ユギルは思わず目を細めました。疲れ切って杖にすがりながらも、「大丈夫、私だってまだまだ、あなた方の先生をする元気くらいは残っていますよ」とフルートの稽古に臨んでいた夫人の姿を思い出します。そのときも今も、夫人の口調は同じです。どんなときにも、ラヴィア夫人はユギルたちの先生であることをやめようとはしないのです。

 ユギルは涙がこみ上げてきそうになって目を伏せました。うつむいたままで答えます。

「陛下からご命令を受けました。陛下は職務がおありなので、城を離れることができません。代わりにわたくしが先生のそばについているように、と……。夜には陛下も見舞いに来るとの仰せでした」

 ラヴィア夫人が少しの間、何も言いませんでした。ユギルが目を上げると、夫人は横たわったまま天蓋の天井を見上げて、かすかな苦笑を浮かべていました。

「本当に……あなたがたは困った生徒たちです……。私のような年寄りにかかずらっていては、本当に大切なことに、手が回らなくなるでしょうに……」

 また咳が始まりました。すぐにまた魔法医が立ち上がりましたが、今度はじきに咳が収まりました。溜息のように大きく息をする夫人に、ユギルは言いました。

「お休みください、先生。もうお話しにならずに」

「勇者殿やメーレーン様たちは?」

 とラヴィア夫人が聞き返しました。苦しい息の下、鋭いほどの口調でした。ユギルは、はっとしてまた目を伏せました。

 ザカラス領内に入ってから、勇者の一行からの連絡は、ぱたりと途絶えていました。実はこの日、フルートたちはメーレーン王女を連れてザカラス城から脱出し、トウガリは反間であることを見破られて逮捕されていたのですが、ユギルはそれを知ることもできずにいました。光の魔法に焼かれた占いの目は、まだ力を取り戻してはいなかったのです。

 そんなユギルを見て、ラヴィア夫人はますます強い声になりました。

「お帰りなさい、ユギル! そばにいる必要はありません。あなたの持ち場へ一刻も早くお戻りなさい!」

 たちまち激しい咳が起こります。息ができなくなって、夫人が苦しみもがきます。魔法医がそれを抱きかかえました。

「ラヴィア夫人、興奮なさってはいけません」

 そう言って夫人の顔から胸の上へと、なでるように手をかざすと、たちまち夫人の咳が止まりました。痩せた小さな体が疲れたように布団に沈み込みます。

「本当に、もうお休みを。今、眠りの魔法をおかけいたします」

 と魔法医が話しかけましたが、ラヴィア夫人は首を振って、またユギルを見上げました。もうどなることはしませんでしたが、じっと厳しい目で青年を見つめながら、こう言います。

「たとえ占うことができなくなっていても、あなたにできることは何かあるでしょう。それをするのです、ユギル。それが――城一番の占者としての――務め」

 やっぱりまた咳き込んでしまいます。魔法医が夫人の胸と頭の上に両手をかざしました。咳が止まり、病人が静かになります。ラヴィア夫人は魔法で強制的に眠らされたのでした。

 

 ユギルはベッドのわきにたたずみ続けました。

 魔法医が病人に布団をかけ直しながら話しかけてきました。

「ラヴィア夫人はユギル殿たちのご負担になりたくないとお考えのようですね」

「いいえ」

 とユギルは静かに答えました。眠りに戻ってもやっぱり苦しそうな老婦人の息づかいを見つめ続けます。

「先生はお怒りなのです。生徒があまりにも情けない有り様でいるので。先生のおっしゃるとおりなのです……」

 占うことができなくても、できることが何かあるでしょう、とラヴィア夫人の声が耳の底で何度も言っていました。お行きなさい、ユギル。あなたは城の一番占者ですよ、と。

 ユギルは黙って深々とベッドへ頭を下げました。顔を上げて眠っているラヴィア夫人をもう一度見つめ、それから、改めて魔法医へ頭を下げます。

「城へ戻ります。ラヴィア夫人をどうかよろしくお願いいたします」

「しかと承りました」

 と魔法医がうなずきます。

 ユギルはラヴィア夫人の部屋を出て、そのまま屋敷の出口へ向かいました。

 心配と不安はつきまとい続けています。夫人は日一日と弱ってきているのです。このままでは、やがて力尽き、この世とあの世の境にある黄泉の門をくぐってしまうのに違いありません。それは、占うまでもなく確実な未来でした。

 けれども、ユギルは夫人のそばにいたい気持ちを振り切って歩き続けました。占う力を失って、密かに根底から自信をなくしていた自分を、夫人に思いきり叱りつけられた気がしていました。そう、ユギルは城の守り人なのです。たとえ占いの力は失われていても、何かしらできることを見つけ、城のため国のために力を尽くすのが役目なのです……。

 外に出たユギルは、最後にもう一度、ラヴィア夫人の屋敷を振り返りました。夜の中、屋敷は穏やかに静まりかえっています。

 先生、お耐えください、とユギルは心の中で呼びかけました。ラヴィア夫人の病を癒せる魔法や薬はありません。夫人を救えるのはただ一つ、癒しの魔石である金の石だけなのです。今は勇者と共にザカラスにあります。

 フルートが魔石と共にディーラへ戻るまで、ラヴィア夫人にはなんとか耐えて生き延びていてもらいたい、と心から願うユギルでした。

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