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第8巻「薔薇色の姫君の戦い」

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52.大食堂

 その夜、トウガリはザカラス城の地下の大食堂に紛れ込んでいました。

 そこでは城の警備をする兵士たちが食事を取り、非番になった兵たちが酒を飲んで夜を楽しみます。夕食の時間はもう過ぎていましたが、食堂はまだ大勢の兵士たちで賑わっていました。

 トウガリは相変わらず道化の化粧を落とした素顔に地味な普段着姿のままでいました。そうすると、彼は本当に平凡な様子になって、誰の目も惹かなくなってしまいます。立てば痩せた長身が目立ちますが、椅子に座っている限りは、それも意識されることはありません。非番の兵たちは鎧兜を脱いで、普段着姿でいます。一人、兵士ではないトウガリが混じっていても、不審な目を向けるものは誰もいませんでした。

 トウガリは大食堂の隅のテーブルで、一人きりで酒のグラスを傾けていました。そうしながら、周囲の人々の話に黙って耳を傾けます。間者は、こんなふうにして城内の情報を集めるのです。

 兵士たちの話は、日中ザカラス城に潜入してきた金の石の勇者の話題で持ちきりでした。もう少しというところで勇者を取り逃がしたことを悔しがっていましたが、同時に、そんな勇者を賞賛する声も聞こえていました。彼らはゼンを金の石の勇者だったと信じ込んでいます。水路の水と一緒にはるか山の下の谷川まで落ちたはずなのに無事でいたことに、さすがは金の石の勇者だ、と感心しています。

 勇者が城を訪問中だったロムド国の王女を連れ去ったことも噂になっていて、何故だろう、と不思議がる声がそこここで上がっていました。彼らは上からの命令に従う一介の兵士たちに過ぎません。主である王が何を企て、何をしようとしているのか、そんなことまでは知るよしもないのでした。

 

 すると、トウガリに一人の男が近づいてきて向かいの席に座りました。トウガリと同じくらいの年代で、やはり地味な服装をして、手には酒のグラスを持っています。

 トウガリは男に自分のグラスを持ち上げてみせました。

「久しぶりだな、ルマニ。三年ぶりか?」

「三年四ヶ月ぶりだ。金の石の勇者が逃げたな」

 ルマニと呼ばれた男に、思い出話をして懐かしむような様子はありません。いきなりそう切り出します。ただ、その口調はあくまでものんびりしていて、当たり前のうわさ話をしているのと少しも変わりがありませんでした。

 トウガリはちょっと肩をすくめ返しました。

「こっちがせっかくここまで連れてきてやったというのに、むざむざ逃がしてしまうんだからな。しかも王女までさらわれて。まったく、何をやってるんだ、と言いたいぞ」

 あらかじめ考えてあった返事をすると、ルマニは、ふん、と笑って自分の酒を飲みました。

「ま、城の連中がぼんくらだってのは同感だがな。だが、ロムドからの一行の中には、金の石の勇者だけでなく、その仲間までいたという話じゃないか。花使いに魔法使いに魔法の犬たち――ほとんどフルメンバーだ。それだけ揃っていたら、城の警備隊全員を出動させたって、まずかなわないだろう。本当に気がつかなかったのか?」

 トウガリはまた大きく肩をすくめました。自分の酒を飲んで、相手の視線をかわします。ルマニは何気ない表情の陰から、疑うような鋭い目を向けていたのです。

「そう言うなって……。確かに連中の正体を見抜けなかったのは俺の落ち度だがな、連中も相当うまく化けていたんだ。ロムド城を出発する前に、礼儀作法の教師が呼ばれていた。そういうわけだったか、と思っているところさ」

「それにしても、相当なものじゃないか? おまえの目をあざむくとは。おまえは俺たち同期の中でも飛び抜けて優秀だったんだぞ」

「いったいいつの話だ。もう二十年も昔のことだぞ。それに修業時代にいくら優秀でも、実際の場で使えなければただの用なしだ。俺はこの風体だからな。ろくな仕事もできんさ」

「これはまたご謙遜を。かの有名なトゥーガリン殿が」

 とルマニが笑いました。

 トウガリの前に座っているのは、まだ若かった頃に一緒に間者の修行をした男でした。今もザカラスの間者として第一線で活躍しています。互いに相手の力量を知り尽くしているだけに、やりにくい相手でした。トウガリは相手の挑発に乗らないように最大限気をつけながら、静かに酒を飲み続けました。

 

 大食堂の一角で、急に、どっと大きな笑い声が上がりました。ほろ酔いの兵士たちが話に盛り上がっています。そんな兵士たちの姿は国境を越えて万国共通です。ザカラス城でもロムド城でも、変わるところはありません。

 すると、ルマニが口調を変えてこんなことを切り出しました。

「聞いているか? 魔法使いのジーヤ・ドゥが新しい間者を雇ったらしいぞ」

「らしい?」

 トウガリは思わずルマニを見直しました。ジーヤ・ドゥはザカラス王に長く仕えている魔法使いです。同じザカラス陣営にいるはずなのに、ルマニが「らしい」と不確かな言い方をしたことに驚いたのです。今度はルマニが肩をすくめて見せました。

「誰もまだその間者に会ったヤツがいないんだ。ジーヤ・ドゥだけがそいつから情報を受けとっている。今までずっとザカラスで働いていた俺たちが束になってもかなわないほど、正確な情報をつかんでくるらしい。トゥーガリンが密かにロムドからザカラスに戻っていたんじゃないか、という噂もあったんだがな」

「まさか。俺はずっとロムド城にいたぞ。何者だ、それは? 占者か?」

 トウガリの頭の中には、ロムド王お抱えの銀髪の占者の姿が浮かんでいました。ユギルがロムドを裏切るはずはありませんが、ユギル並みの実力を持つ占者がザカラス城に現れれば、それこそ、ルマニたち間者がいくら懸命に働いたところでかなうわけはないのです。

 ルマニは首を振りました。

「わからん。ジーヤ・ドゥしか接触していないからな。だが、おかげでドゥの発言力はうなぎ登りだ。陛下はドゥをそばから離さなくなっている」

 なるほどな、とトウガリは心の中でつぶやきました。ザカラス城に来る侍女の中に偽物が混じっているかもしれない、とつかんでいたのは、その謎の間者だったのです。いえ、間者ではなく、ユギルのような占者なのかもしれません。どちらにしても、その正体を知りたいところでした。

「ジーヤ・ドゥはどうやってそいつと接触しているんだ? どこで?」

「自分の部屋の中でだ。他に同席するものはいない。ドゥは伝声鳥を使うからな。噂の人物がどこにいるのか、つかみようもない」

 そう言ってルマニは苦く笑いました。得体の知れない新しい間者が、自分たちザカラス間者の地位を脅かしているのです。平静ではいられないようでした。

 ふぅん、とつぶやいて、トウガリはまた黙り込みました。酒をなめるように飲みながら、どうやってそいつの正体を確認しようか、と考えます……。

 

 すると、少しの間沈黙してから、ルマニがまた口を開きました。

「そういえば、ジーヤ・ドゥは陛下にこんなことも言っていたらしいぞ。ロムドからやってくる一行の中には、偽物の侍女だけでなく、裏切り者も混じっているから注意するように、とな」

 トウガリはすぐには反応しませんでした。黙って酒を飲み続けます。けれども、話がそれ以上続かないので顔を上げると、ルマニはトウガリをじっと見つめていました。射抜くほどに鋭く厳しいまなざしです。

 トウガリは大げさに肩をすくめて見せました。

「なんだ。俺がその裏切り者だとでも言いたいのか?」

「そう聞こえなかったか、トゥーガリン?」

 とルマニが切り返します。冷ややかな声でした。

「馬鹿馬鹿しい。これだけザカラスのために働いてきたというのに、この扱いか? やってられんな」

 憤慨したふりをしてトウガリは席を立とうとしました。混み合った食堂の中に、素早く逃げ道を探します。

 すると、その腹にぐっと押しつけられるものがありました。見ると、ルマニがどこからか短剣を取り出して、その柄をトウガリに押し当てていました。ほんの一引きしただけで鋭い刃がトウガリの胴をそぎ切る角度です。

 動けなくなったトウガリに、ルマニが、にやりと笑いました。

「無駄だよ、トゥーガリン。悔しいことだが、ドゥを通じて伝えられる新しい間者の情報は、いつもまったく間違いがないんだ。おまえがロムド側に寝返って、反間になっていたことはもうばれている。あきらめろ」

 

 そのとたん、トウガリは動きました。ルマニの右手に手刀を食らわせ、相手が短剣を取り落としたのと同時に椅子を蹴り倒します。ルマニが椅子ごとひっくり返る音に、食堂中の人間が振り向きます。その隙にトウガリは食堂の出口へ走りました。

 ところが、トウガリが外へ飛び出すより先に、出口に数人の男たちが立ちました。鎧兜を着た衛兵たちです。手に手に剣を構え、トウガリの行く手をさえぎります。

 トウガリはとっさに振り向きました。前へ逃げられなければ、後ろへ――。退路を探します。

 すると、ルマニが跳ね起きて叫びました。

「そいつは裏切り者だ! 捕まえろ!」

 ほんの一瞬、大食堂を恐ろしいほどの沈黙が支配しました。酔っていた者たちも、大声で話していた者たちも、誰もが口を閉じ、出口の前に立つトウガリに注目します――。

 

 次の瞬間、食堂中の兵士たちが立ち上がりました。椅子を蹴り、刀を手元に置いていたものは鞘から引き抜いて、トウガリめがけて殺到してきます。

 トウガリは思わず後ずさりました。とたんに、黒い籠手(こて)をつけた手に痩せた肩をがっちりとつかまれました。

「ハルス・トゥーガリン、敵国の間者の容疑で逮捕する」

 黒い鎧兜の衛兵は、トウガリに向かって重々しく言いました。

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