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第8巻「薔薇色の姫君の戦い」

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51.谷川

 谷川に滝の水が落ち続けていました。

 百メートル以上もの高さから降ってきた水が、谷川をえぐった淵を打ち、白いしぶきを上げています。轟音が一帯を揺るがし、しぶきが霧に変わって漂います。

 その石だらけの岸に降りたメールは、花鳥を振りほどくようにして駆け出しました。声を限りに呼びます。

「ゼン!! ゼーン!!」

 返事はありません。滝を流されていったゼンは、絶対にこの滝壺に落ちたはずなのですが、姿を見つけることもできません。水は谷川の淵に落ち続けています。しぶきが激しすぎて、その下を見通すことができないのです。

 メールは川に駆け寄り、淵に飛び込もうとしました。その全身に滝の水が降りかかります。高い場所から落ちてくる水は石つぶてのようです。メールは怪我をした肩を打たれて悲鳴を上げました。

 すると、怪我をしていない方の腕をつかんで引き止める手がありました。

「馬鹿、なにやってんだ。危ねえぞ」

 ゼンでした。フルートの金の鎧兜を着て、二本の剣を背負い、左腕には盾を装備した姿で岸辺に立っています。

 メールはあっけにとられました。声も出せずに、ただぽかんとゼンを見つめてしまいます。ゼンはどこも何ともなさそうです――。

 その表情に、ああ、とゼンが笑いました。

「心配したのか? 大丈夫だ。俺はフルートの鎧を着てるんだからな」

 フルートの金の鎧兜にはさまざまな魔法が組み込んであります。その一つが衝撃を和らげる大地の魔法でした。普通、数十メートルの高さから落ちれば、いくら下が水でも、水面は堅い一枚岩のようになって落ちてきたものをはじき返してしまうのですが、魔法の鎧が衝撃を吸収してくれたのです。おかげで、ゼンはまったく無傷で谷川の淵に落ち、そこからもすぐに脱出して、川岸にはい上がることができたのでした。

 

 ゼンがあまり平然としているので、メールはかっとしました。安堵するよりも先に腹が立って、食ってかかってしまいます。

「それならそうと先に言いなよ、ゼン! 余計な心配させるんじゃないよ!」

「無理言うな。滝に宙ぶらりんになった状態で、そんなこと悠長に説明できるかよ。だいたい、俺がフルートの鎧を着てるのは、おまえだってわかってただろうが」

 とゼンも負けずに言い返します。

「あたいを助けて自分だけ落ちてったりしてさ――! 心臓が停まるかと思ったじゃないのさ! まったく、馬鹿なんだから!」

「あのなぁ。それじゃ花鳥ごと滝に巻き込まれて落っこちたかったのかよ。俺は平気でも、おまえは絶対無事じゃすまなかったぞ。ただでさえ怪我してるってのに――」

「かまうもんか! あたいは渦王の鬼姫さ! 怪我だって死ぬことだって、これっぽっちも怖くないよ!」

 すると、ゼンがむっとした顔になりました。いきなりメールの細い胴をつかまえると、高々と頭上に差し上げてしまいます。怪力のゼンに、まるで子猫か何かのように持ち上げられて、メールは仰天して悲鳴を上げました。

「や、やだ! 何すんのさ! 下ろしなよ! 下ろして!!」

 ゼンが笑いました。

「そらみろ。やっぱりおまえだって落ちるのは怖いんだろうが。強がってんじゃねえや」

 とたんに、メールは最大級にすねた顔になりました。ものも言わずにゼンの手を払いのけ、河原に飛び降りようとします。河原には角張った大小の岩がごろごろしています。そのまま下りれば顔面から岩に激突してしまいます。

「ば、馬鹿、危ねぇ!」

 とっさにゼンがメールを止めようとしてバランスを崩し、そのまま仰向けに河原に倒れました。なんとかメールは抱いてかばいましたが、ガシャン、と音を立てて鎧兜が激しく河原にぶつかりました。メールも怪我した肩をまた強く打って、思わずうめき声を上げます。

 彼らのそばを谷川が流れていました。岩の間を通る水がせせらぎの音を立てています。言い争いが止まれば、意外なほどの静寂が広がります。

 ゼンは倒れたままメールを抱きしめました。深い溜息をついて言います。

「おまえはかまわなくても、俺はかまうんだよ……。おまえが怪我をしたり――死んだりなんてのは、それこそこっちが死んだって絶対にごめんだ。頼むから無茶はするな。勇敢なのと無謀なのは違うんだぞ」

 メールは思わずゼンを見ようとしました。が、ゼンがあまりしっかり抱きしめているので、頭を上げることもできません。苦しいくらい押しつけられた体の下に堅い鎧があります。冷ややかなはずの鎧が、何故だかほのかに暖かく感じられます……。

 

「あら、ごめんなさい。お邪魔だったかしらね」

 ふいにすぐ近くで声がしました。ちょっとすましたような少女の声――ルルです。

 ゼンとメールが驚いて体を起こすと、谷川の河原に風の犬に変身したルルとポチが飛んでくるところでした。ルルの背中には侍女のドレスを着たポポロが、ポチの背中にはフルートと、バラ色のコートと帽子を身につけた少女が乗っています。バラ色の少女はメーレーン王女でした。

 ひゃっほう! とゼンが歓声を上げました。すぐにメールと立ち上がります。

 一方ポチの背中からはフルートが飛び降りました。長い薄茶色の上着をコートのようにひるがえしながら駆け寄っていきます。その下はもう侍女のドレスではなく、シャツに半ズボンの少年の格好です。

「ゼン、メール! 怪我は!?」

「メールが矢で撃たれた。頼む」

 とゼンが答えます。フルートはすぐに首からペンダントを外すと、金の石をメールに押し当てました。矢傷がたちまち治って消えていきます――。

 メールは右肩をぐるぐると回して、にっこりしました。

「うん、もう大丈夫。金の石の力はさすがだよね」

「どうして俺たちがここだとわかった?」

 とゼンが尋ねます。フルートはそばに駆けつけてきたポポロを笑顔で示しました。

「ポポロに魔法使いの目で探してもらったのさ。ぼくたちは秘密の通路を通って城の横手に出ちゃったから。君たちが無事で本当に良かった」

「ばぁか。俺たちがそう簡単にくたばるかよ」

 とゼンが笑って見せて、さりげなくメールを抱き寄せました。傷の消えたメールの肩をそっと手のひらで包みます――。

 

「で、無事に王女様も城から助け出せたんだね」

 とメールはまだポチの背中に乗ったままのメーレーン王女を見ました。王女は灰色の大きな瞳を丸くして、勇者たちを見回していました。

「海と森の王女のメールね……。それに、金の鎧を着ていたのはゼンだったのね? 勇者の一行が全員でいらしてたなんて、メーレーンは本当に気がついていませんでしたわ」

 相変わらず、王女は自分自身のことを名前で呼ぶのが癖のようでした。

 ゼンがけげんな顔になりました。

「トウガリは?」

 背の高い痩せた男の姿がありません。フルートは答えました。

「城に残ったんだ。まだ調べることがあるって言って」

「あいつ、逃げやがったな!」

 と、たちまちゼンがわめき出しました。まだトウガリへの疑いを解いていないのです。フルートは穏やかにたしなめました。

「トウガリはぼくたちの味方だよ……。詳しいことは後で説明するけど、それだけは本当に間違いないんだ。トウガリはロムドのために城に残ったんだよ」

 ゼンは目を丸くしました。かたわらでメールがうなずいています。

「あたいもずっとそう言ってるじゃないのさ。トウガリはこっち側なんだよ。だって――」

 

 ところが、メールはその先を続けることができませんでした。突然、頭上からすさまじい男たちの声がわき起こり、激しい馬の蹄の音が聞こえてきたからです。

 いつの間にか、ザカラス城の水門から降ってくる滝が止まっていました。切り立った崖の上で、城の大門から跳ね橋がまた下ろされ、そこから馬に乗ったザカラス兵が次々と駆けだしてくるのが見えます。馬は、切り立った崖を走るつづら折りの道を、ためらうことなく疾走します。

 ザカラス兵は黒い鎧兜で身を包んでいます。それがいっせいに押し寄せてくる様子は、まるで山の上の城から黒い水がほとばしり、崖の上の曲がりくねった川を全速力で流れ下ってくるようでした。

「やべぇ! 見つかったぞ!」

 とゼンが叫びました。ポチも、ワン、と吠えます。

「王女を取り返せ、って言ってます。メーレーン姫がいないことにも、もう気がついたんだ」

 耳の良い子犬は、山城から響くときの声の中に、そんな声も聞き取っていたのでした。ばさりと大きな翼が打ち合わせる音と共に、巨大な怪物の咆吼も響いてきます。ファイヤードラゴンが城から飛び立ったのに違いありません。

「逃げるぞ! コラムさんがザカリア郊外の丘で待ってるんだ!」

 とフルートは叫び、ポチに向かって駆け出しながらさらに言いました。

「ゼンとメールはルルに! ポポロ、君はこっちだ――!」

 と、紺色のドレスを着た少女へ手をさしのべます。

 ポポロはそれまでずっと何も言わずに立っていました。納得していたはずなのに、ゼンがメールの肩を優しく抱いているのを見て、なんだかとても哀しい気持ちになっていたのです。その気持ちは、ザカラス兵が現れたこの状況でも、どこかでまだ続いていました。ほんの一瞬ですが、自分はこのままここに残ろうか、と考えてしまいます。幸せそうなゼンとメールの姿を見ていたくない、と考えて……。

 けれども、そんなポポロを、フルートが強く呼びました。ポポロが思わずためらうと、その手をつかんで引き寄せ、風の犬のポチに乗せてしまいます。その後ろにフルートが飛び乗ります。

「行け、ポチ!」

「ワン!」

 ポチが王女とポポロとフルートを乗せて空に舞い上がりました。ルルもゼンとメールを乗せて飛び立ちます。

 

 城から一気に駆け下ってきたザカラス兵が、谷川に押し寄せてきました。馬が川の中を走り、しぶきと水音を上げます。

 その先にファイヤードラゴンが地響きを立てて舞い降りました。背中には二人の魔法使いを乗せています。狭い谷間が巨大な怪物の体でいっぱいになります。

 けれども、城の水門の下にできた淵に、もう金の石の勇者たちの姿はありませんでした。見上げた彼らの目に、空の中を遠ざかっていく二匹の生き物の姿が映りました。東の異国ユラサイの竜のような、長く細い怪物です。風にひらめく白い体には、数人の子どもたちが乗っていました。

 ファイヤードラゴンがまた空に飛び立ちました。逃げていく者たちを追いかけます。

 けれども、幻のような怪物はきらりと日の光を返して輝くと、そのまま東の空へと飛び去って、見えなくなってしまいました――。

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