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第8巻「薔薇色の姫君の戦い」

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50.滝

 「ゼン!」

 とメールは悲鳴を上げました。

 水路の水が、ごうごうと音を立てて流れていきます。それが吸い出されるように、水門から外へ流れ出しているのが見えたのです。

 ゼンとメールはしっかり手をつなぎ合っていました。メールが必死で泳ぎ続けています。けれども、海の民の血を引いた彼女でさえ、この激しい流れに逆らうことはできませんでした。みるみるうちに、水門へと押し流されていきます。

 ゼンが水の中で目をこらし、ふいに、やべぇ、とつぶやきました。

「あの先、滝になってやがるぞ。吸い込まれたら、きっと真っ逆さまだ」

 改めてメールの手首を強く握りしめ、メールと一緒になって流れから抜け出そうとします。怪力のゼンです。水路の壁に手が届けば、水路からはい上がることもできるのです。

 けれども、水は激しく流れ続けていました。二人は流れの一番強いところに巻き込まれていて、水路の端には近づくこともできません。水門はもう目の前です。水の緑色が薄れて、その先に明るい光が見えていました。水門の先に、もう水路はありません。ただ空が広がっているだけです。よく晴れ渡った青空が、水を透かして明るく見えていたのでした。

 ゼンは流れの中でメールを引き寄せ、その細い体を片腕に抱きしめました。もう流れが速すぎて、メールにも泳ぐことはできません。ただただ押し流されていきます。

「ゼン!」

 とまたメールが声を上げました。恐怖にかられた悲鳴です。それをさらに強く抱きしめながら、ゼンは水門を見つめました。ごうごうと音を立てて流れ出していく水の中、水門の脇の柱をじっと見据えます。

 流れが彼らを水門へ押し流しました。あふれ出す水路の水が宙にほとばしり、そのまま大きな滝になって地上へと落ちていきます。ザカラス城は切り立った山の中腹にそびえています。放水された水路の水が落ちる先は、百メートル以上も下を流れている谷川の滝壺でした。

 ゼンとメールが水門をくぐりました。そのまま、水と一緒に地上へ落下していきそうになります。

 そのとたん、ゼンが声を上げました。

「うぉらぁ!」

 大きな手が、がっしりと水門の柱をつかまえます。

 とたんに、押し流される体が止まりました。

 水はごうごうと二人の周りを流れ続けていきます。けれども、その中で、ゼンとメールはびくとも動かなくなっていたのです。ゼンが水門の柱にしがみつき、かたわらにメールを引き寄せます――。

 

 水はすさまじい勢いで二人に押し寄せ続けていました。強烈な風に吹きまくられたときのように、メールは息が詰まりそうになりました。水の勢いはまったく衰えません。ゼンにしっかり抱きかかえられていても、たちまち押し流されてしまいそうで、恐ろしくなります。

 すると、ゼンが言いました。

「長くは持たねえな……。メール、花を呼べるか?」

 メールが使う花たちは、さっきファイヤードラゴンの炎で焼かれてしまいました。けれども、それも全部ではなかったはずです。

 メールは答えました。

「水中では無理だよ。水の上に出れば」

「よし」

 ゼンはすぐさま腕に力を込めました。水門の柱に体をいっそう引き寄せ、両足でしがみつきます。そうやって、ゼンは流れに逆らいながら、じりじりと水門の柱を上り始めました。もう一方の腕にはメールを抱きかかえたままです。

 やがて、二人は流れから顔を出しました。振り向けば、激しく流れ続ける水が水門から宙に飛び出し、そのまま落ちていくのが見えます。滝の先に広がる空が、いやに青く鮮やかに見えます。水のしぶきが日の光にきらめき、美しい虹をかけています。二人は絶体絶命でいるというのに、あまりにも美しく見える光景でした。

 メールは水から片手をさしあげ、空に向かって呼びかけました。

「花たち! 花たち、おいで――!!」

 高く澄んだ少女の声が水音の中に響きます。

 そして、その声が水門の近くにいたザカラス兵たちの注意を惹きつけました。柱にしがみついているゼンとメールを見つけて指さします。

「いたぞ!」

「金の石の勇者だ!」

 弓を持った兵が呼ばれて、たちまちゼンとメールに矢が飛んできました。二人の周囲の水へ矢が突き刺さります。

「花たち! 花たち!!」

 メールは泣きそうになりながら呼び続けました。空の彼方から花はまだやってきません。ドラゴンの炎に燃え尽きて、もう駆けつけるほどの数も残っていないのでしょうか……。

 

 そのとき、空を見上げ続けていたゼンが歓声を上げました。

「来たぞ!」

 ザカラス城のある方向から、虫の群れのようなものが飛んでくるのが見えたのです。色とりどりの集団は、間違いなく、メールが呼んだ花の群れでした。

 ところが、その瞬間、メールが細い悲鳴を上げました。腕をさしあげていたメールの右の肩に、ザカラス兵が放った矢が突き刺さったのです。

「メール!!」

 ゼンは仰天しました。とっさに自分の体でメールをかばいます。フルートの鎧兜を着た体に、矢が次々と当たって音を立てます。

 メールは歯を食いしばっていました。痛みに顔をしかめながら矢に手をかけ、肩から引き抜こうとします。

「馬鹿――!」

 ゼンはとっさに止めようとしましたが、間に合いませんでした。メールが力任せに矢を引き抜いたとたん、白い肩から血がほとばしり、水が真っ赤に染まりました。メールがまた悲鳴を上げます。

 水の中で矢を抜けば、傷口から血は水の中にどんどん流れ出していきます。下手をすれば失血死しかねません。

 色とりどりの花の群れが彼らに近づいてきました。ザカラス兵が気がついて、あれはなんだ、とどなっています。花に向かって矢を放ちますが、矢は花の中を素通りするだけです……。

 矢がメールのすぐそばの水面にも突き刺さりました。はっとゼンが顔を上げると、水門のすぐ上に弓を構えたザカラス兵たちの姿がありました。ほんとうに数メートルと離れていない場所です。そこから狙いをつけてゼンとメールに矢を射ようとします。

 ゼンはとっさにどなりました。

「つかまれ、メール!」

 水門の柱から手を離し、そのまま強い流れに乗って、水門から水と一緒に飛び出していきます。その先は、百メートル以上もある断崖絶壁です。二人の体が宙を落ち始めました――。

 

 ところが、悲鳴を上げて目を閉じたメールに、ゼンがどなりました。

「呼べ、メール! 花鳥だ!」

 水と一緒に落ちていても、ゼンはメールをしっかり抱いて見つめています。メールは我に返りました。

 矢が突き刺さった右肩からは血が流れて痛み続けています。けれども、メールは戦士でした。痛みに顔を引きつらせながらも右腕を上げ、空に向かってまた呼びかけます。

「おいで、花たち――!」

 見上げる滝の上の空に色とりどりの群れがやってきました。みるみる形を変え、一羽の大きな鳥の姿に変わります。翼も体もすべて花でできている花鳥です。翼をつぼめて急降下すると、水と一緒に滝を落ちる二人の元までやってきて、高く差し上げたメールの腕をつかみます。そのかぎ爪も、やっぱりたくさんの花でできています。

 ゼンとメールの滝を落ちる速度が、ぐんと鈍りました。花鳥が激しく羽ばたきを繰り返して、二人を滝から引っ張り出そうとします。水は猛烈な勢いで落ち続けています。ゼンとメールの全身を激しく打ちます。

 メールが花鳥に腕をつかまれたままうめきました。怪我をした肩に、自分の体重だけでなく、ゼンの体重も、二人に襲いかかる猛烈な水圧も、すべてかかっていたのです。そして、さすがの花鳥も滝の勢いには勝てなくて、やっぱり滝にそって下へと落ちているのでした。懸命に羽ばたいて浮上しようとしますが、留まることができません。狂ったように花の翼を打ち続けます。

「ちっくしょう!」

 とゼンはわめきました。その声も滝の音に打ち消されてしまいます。

 苦痛で歪んだメールの顔は真っ青でした。激しい痛みに今にも気を失いそうになっているのです。メールが意識を失えば、もう花を操ることはできなくなってしまいます――。

 ゼンは、一瞬、ぐいとメールの体を強く抱きました。また、はっと我に返ったメールへ言います。

「離すぞ」

 その声は、激しい水音に紛れて、メールの耳には聞こえませんでした。けれども、唇の動きがことばを伝えます。メールは驚き、とっさにゼンをつかみ直そうとしました。その手を突き放すようにして、ゼンがメールの体から腕をほどきます。

 たちまちゼンは水と一緒に落下していきました。伸ばしたメールの手の先で、あっという間に小さく遠ざかっていきます。落ちていく先は、何十メートルも下を流れる谷川です。

 

「ゼン!! ゼン!!」

 メールは金切り声を上げました。ゼンが離れて軽くなったメールの体を、花鳥が滝から引っ張り出し、空へと羽ばたいていきます。

「ゼン――!!!」

 滝の中に、もうゼンの姿は見えませんでした。

 水は落ち続けていきます。水門から放出された水が落ちる谷川は、まるで一筋の白い糸のようでした。

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