秘密の通路はザカラス城の中に深く長く張り巡らされていました。暗く湿った石造りの通路で、時折どこからかかび臭い風が吹いてきます。闇に潜んでいた虫たちが、通り抜けていく人間に驚いて、いっせいに別の闇の中に逃げ込みます。
その中をザカラスの皇太子とフルートは進み続けました。ランプを掲げて先を行きながら、皇太子が言います。
「こ、この城は過去に何度も敵に包囲されたことがある……。そ、そのときに王たちが城外に脱出するために、こうして秘密の通路が作られたのだ。この道は代々王と皇太子と、ごく少数の要人にしか知らされてこなかったから、こ、ここを通る者は誰もいない。見つからずにメーレーン姫の部屋まで行けるんだ」
フルートは侍女のドレスの裾を持ったまま、黙って皇太子の後についていきました。ランプに照らされる皇太子の後ろ姿や、時折振り向く顔は、本当に神経質そうに見えます。態度もおどおどした感じです。この人がこんな思い切った真似をするなんて、おそらく城中の誰もが予想もしていなかったんだろうな、とフルートは考えました。こともあろうに皇太子は、敵国の勇者を助けようとしているのです。
長い階段をいくつも上がり、さらに長い横道を通ると、ザカラス皇太子はやっと立ち止まりました。壁に顔を押し当てると、何かを確かめるようにしばらくじっとして、おもむろにフルートを振り向きました。
「よ、よし。ここが姫の部屋だ。……わ、私のことは誰にも言うなよ。そこのレバーを引けば、入り口が開く。わ、私がいなくなってから開けるんだ」
人に見られることを恐れて、皇太子はそんなことを言いました。フルートがうなずいたのを確かめると、ランプを持ったまま、あっという間に通路を引き返していってしまいます。自分の部屋へ戻っていったのです。
暗闇の中、フルートは手を伸ばして壁のレバーを引きました。とたんに、目の前の壁が音もなく横に滑って、明るい空間が現れました。ピンク色の絨毯を敷き詰めた、暖かな部屋です――。
フルートが部屋の中にはいると、後ろでまた壁が閉まりました。振り向くと、そこではただ暖炉が赤々と燃えているだけで、どこに秘密の通路の入り口があるのか、まったくわかりませんでした。
部屋の向こう側に窓があって、ベランダに向かって大きく開け放たれていました。そこにバラ色のドレスを着た少女と二匹の犬たちがいます。フルートは、思わず声を上げました。
「王女様――! ポチ、ルル!」
「フルート!!」
と二匹の犬たちが叫んで駆け寄ってきました。どちらもひどく驚いた顔をしています。
「ワン、ど、どうしてここに!? どうやって来たんですか!?」
「秘密の通路を通ってね」
とフルートは答え、鋭くもう一度部屋の中を見回しました。他の仲間たちの姿が見えないのに気がついて尋ねます。
「ゼンたちは?」
「敵と戦ってるのよ!」
とルルが叫ぶように答えました。
「ゼンとメールが城の前でザカラス兵と戦ってるの! ゼンはあなたの格好をしてるのよ!」
えっ、とフルートは驚き、すぐさま犬たちとベランダに飛び出しました。ベランダにいたメーレーン王女がびっくりします。
「おまえはさっきの……。来てくれたのね。でも、そんなにあわててどうしたの?」
王女はその侍女が金の石の勇者だと気がつきません。きょとんとした顔をするばかりです。
フルートはベランダの下を眺めました。黒い兵士の集団がたった二人を取り囲んでいるのが見えます。金の鎧兜を着た少年と、紺色のドレスを着た少女です。その周囲を、色とりどりの花の群れが蜂の大群のように取り囲んで守っています。けれども、城の前の兵士はどんどん数が増えていくばかりです。少年と少女はそれに押されるように、少しずつ城の門の方向へ後ずさっていました。
ゼン! メール! と叫びそうになって、フルートはあわてて唇をかみました。ゼンは金の石の勇者になりすまして、おとりになっているのです。敵の目を惹きつけている間に王女を連れ出して逃げろ、という意味なのだと、フルートにはすぐにわかりました。
多勢に無勢と見えていますが、メールの花たちが強力に守っていました。押し寄せる敵を自分たちに近寄らせません。敵から矢が飛び始めましたが、それも花の群れがあっという間にたたき落としていました。
そのとき、フルートはもう一人の侍女の姿が見あたらないことに気がつきました。青ざめて犬たちを振り返ります。
「ポポロは!?」
「ワン、ここには来てないです。一緒じゃなかったんですか?」
とポチが答えます。
「違う。ぼくはザカラスの皇太子にここまで案内されてきたんだ……」
不吉な予感がまたフルートを襲いました。ザカラス皇太子がフルートに教えた事実がまたよみがえってきます。おまえたちの中に我々の手の者が混じっていた。あの道化が我々の間者なのだ――と。胸を突き刺されるような想いがします。
すると、ルルが突然叫び出しました。
「トウガリよ! やっぱりあいつはザカラスの間者だったのよ! そうでなかったら、こんなことになるはずないじゃない! あいつ、ポポロをどうしたのよ!?」
心配のあまり泣き叫ぶような声になっています。フルートとポチは、どきりとしました。不安がますます募ります。メーレーン王女だけがわけのわからない顔をし続けていました。
「なぁに? トウガリ? トウガリがどうかしたの?」
すると、部屋の入り口の扉が開いて男の声がしました。
「騒ぐな、外の通路まで聞こえてくるぞ。ポポロはここだ。心配するな」
「ポポロ!」
ルルは歓声を上げて駆け寄りました。ポポロがかがみ込み、腕の中にルルを抱きしめます。
フルートはすぐには動けませんでした。近寄ってくるトウガリを声もなく見つめてしまいます。一方のトウガリは、窓から外の騒ぎを見下ろしてうなずきました。
「ゼンたちががんばっているな。今のうちだ――」
メーレーン王女は突然部屋に入ってきた人々に目を丸くしていましたが、たちまちはっとした顔になりました。
「トウガリ! その声はトウガリね!?」
と普段着姿の中年男に駆け寄ります。王女はトウガリの素顔を見たことがなかったのです。
トウガリは平凡な顔に優しいほほえみを浮かべると、道化らしい大げさなお辞儀をして見せました。
「左様でございます、王女様。トウガリです。厚化粧で姫様のお召し物を汚しては大変と思い、化粧を落としてまいりました。それなのに姫様が気づいてくださったので、トウガリは大変感激しております」
すると、王女は歓声を上げて男に飛びつきました。
「トウガリはどんな格好をしていたってトウガリよ! 来てくれてありがとう!」
本当に少しも疑うことなくトウガリの首にしがみつき、輝く笑顔を痩せた頬に押し当ててしまいます。
その瞬間、男が切ないほどいとおしそうな表情を浮かべ、それを隠すように目を閉じたことにフルートは気がつきました。痩せた腕が王女をそっと抱きしめます――。
トウガリの前に立つフルートのところへ、ポポロとルルがやってきました。ポチもフルートの足下に来ます。
トウガリは目を開け、自分に厳しい目を向けている子どもたちに、にやりと皮肉な笑いを浮かべてみせると、まだしがみついたままでいた王女を引き離して、こんなことを言いました。
「王女様、大変なことが起きているのでございます。このザカラス城にとんでもない悪者がいたのです。ジーヤ・ドゥという名の魔法使いです。この魔法使いはザカラス王に長く仕えてきたのですが、この城を乗っ取ろうとして、密かによからぬ計画を立てていたのです。このままでは姫様のお身に危険が及びます。大急ぎで城から脱出しなくてはなりません」
フルートたちは驚きました。これはまたえらい作り話を持ちだしたものです。けれども、メーレーン王女は、こんな荒唐無稽な話にも疑いを持ちませんでした。とても真剣な顔になってトウガリに言います。
「大変だわ、トウガリ。そんな悪者がこのお城にいたら、おじいさまのお命まで危なくなってしまう。おじいさまにお知らせしなくては!」
その祖父が実は自分の命を握りつぶそうとさえしているのだとは、王女はこれっぽっちも疑いません。
トウガリは首を振りました。
「いいえ、王女様。魔法使いのジーヤ・ドゥはザカラス王にあることないことをいろいろ吹き込んでおります。例え姫様が陛下に進言しても、ジーヤ・ドゥに妨害されてしまいます。王女様は、ここにいる金の石の勇者の皆様方とロムド城までお戻りになって、この事実を国王陛下にお伝えください。それが、このザカラス城を救う唯一の方法です」
「金の石の勇者と?」
とメーレーン王女はまた目を丸くしました。とまどったように部屋の中を見回します。やっぱり金髪の侍女の正体には気がつきません。
フルートは大急ぎで自分の頭から、金髪の付け毛をネットごとむしり取りました。綺麗に結い上げた頭が、少年のような短い髪型になります。さらに紺色のドレスのボタンを外して脱ぎ捨て、体型を補正するための胴着も外して放り出します。その下は袖無しのシャツと半ズボンという服装です。
「まあ!」
と王女は本当にびっくりして両手を自分の顔に押し当てました。
「まあ、まあ――まあ――! 本当に金の石の勇者だったのね。メーレーンは全然気がつきませんでした!」
押し当てた手の下で、王女の頬が真っ赤に染まっていました。綺麗でしとやかな侍女が服を脱いだとたん美少年の姿に変わってしまったのですから、無理もありません。
そんな王女にトウガリがたたみかけるように言いました。
「よろしいですか、王女様。一刻も早くここから脱出しなくてはなりません。すでに、敵の息がかかった兵士たちがゼン殿たちに襲いかかっているのです。急がなければ、我々まで捕まってしまいます。その靴は逃げるのには不便です。走ったりたくさん歩いたりできる、かかとの低い靴にお履き替えください。それと、暖かいコートもお召しください。それ以外のものは不要です。お急ぎを、姫様」
「わ――わかったわ」
さすがの王女も、自分が大変な状況にあると思ったようで、青ざめながら隣の部屋へ飛び込んでいきました。衣装ダンスを開ける音が聞こえます――。
王女が隣室へ行ってしまうと、トウガリは体を起こして腕組みをしました。自分を見つめ続けている勇者の子どもたちを眺めます。疑い、驚き、不信――そんなものにさらされながら、トウガリは細い指先で顎をかきました。
「さてと……。本当に時間がないんだが、どうしたらおまえらに信用してもらえるだろうな?」
苦笑いするように、皮肉を言うように、トウガリはそう言いました。