ザカラス城のメーレーン王女の部屋で、ルルはいらいらと待ち続けていました。
ルルとポチが王女と一緒に部屋に来てから、もう一時間以上たっています。それなのに侍女に変装したフルートもメールもポポロも、荷運びの下男に化けたゼンも、トウガリも、誰も部屋に来ないのです。今来るか、もう来るかと部屋の入り口に近い場所を行ったり来たりしているのですが、いつまで待っても外の通路から仲間たちの足音は聞こえてきません。
はぁ、とルルは思わず人間のような溜息をついて、部屋の中を振り返りました。ピンクのカーテン、ピンクの絨毯、ピンクの枕とベッドの布団……。ロムド城の王女の部屋ほどではありませんが、この部屋にもメーレーン王女の好きなバラ色があふれています。その真ん中で、ピンク色のクッションに座って、王女がポチを膝にのせていました。柔らかなブラシでポチの雪のような毛並みをすいています。ポチは気持ちよさそうに目を閉じていて、王女が優しく話しかけるたびに、尻尾を振り返していました。
そのあまりに平和そうな様子に、ルルは思わずかっとしました。――自分では気がついていませんが、もうちょっと別の感情も混じっています。思いっきりにらみつけたとたん、王女の膝からポチが飛び上がりました。背中の毛を逆立て、びっくりしたようにルルを見ます。ポチは人の感情を匂いでかぎ取ることができます。突然ルルからすさまじい怒りの匂いが伝わってきたので、仰天したのでした。
ルルがつんと顔をそむけて窓の方へ向かったので、ポチはあわててそれを追いかけました。
「ワン、どうしたんですか、ルル? 何をそんなに怒っているの?」
「怒ってるんじゃなくて心配してるのよ! みんな遅すぎると思わない?」
まだ怒った匂いをさせながらルルが答えました。いらいらした目のまま、窓の外を眺めます。初冬の空は、今日も青く晴れ渡っています。ぽっかり浮かんだ綿雲までいやにのどかに見えて、また腹が立ちます。
すると、ポチも真剣な目になりました。王女に聞こえないように声を潜めて答えます。
「ワン、確かにちょっと遅いですね。ルルはポポロと心でつながっているんでしょう? 何かわからないんですか?」
「無理よ。両方で呼び合ってないと心はつながらないの。あの子、ずっと私を呼んでないのよ。こんなに遅くなってるのに。だから変だって言ってるのよ」
ルルは空を見つめ続けました。空間を越えてまた心でポポロを呼びます。やっぱり返事はありません。ルルの呼びかけは聞こえているはずなのに、ポポロは沈黙のままなのです。いやでも不安が募ります……。
すると、メーレーン王女がバラ色のドレスを揺らしながら二匹の犬の隣に来ました。手を伸ばして窓を開け、にっこりと犬たちに笑いかけます。
「ベランダに出ていいわよ。今日はお天気がいいから、きっと気持ちがいいわ」
王女はルルが窓の外を見つめているのを見て、外へ出たがっているのだろうと考え、わざわざ窓を開けに来てくれたのでした。
ポチはすぐに尻尾を振り返しました。
「ワン、ありがとうございます、王女様」
「どういたしまして」
王女はまたほほえんで、また部屋の中に戻っていきました。王女自身は外の空気を少し寒いと感じたのでしょう。燃える暖炉の前に座り込むと、そこで絵入りの本を眺め始めます。
「別に外に出たかったわけじゃないわよ」
とぶつぶつ言うルルを、ポチは急いでベランダに連れ出しました。ルルはポポロたちを心配するあまり、ますます不機嫌になってきているのです。
「ワン、ここの方がお姫様に話を聞かれなくていいですよ。本当に、フルートたちはちょっと遅すぎる気がします。あのときのザカラス王との話だと、すぐにもみんなここに来るような感じだったのに。何かあったのかもしれない。様子を見に出られるといいんだけど」
けれども、ここはザカラス城です。城内を犬が勝手に歩き回れば、たちまち家来に見つかって捕まってしまうのは間違いありません。どうしよう、とポチは思いめぐらしました。みんなを探しに行った方がいいのか、もう少しここで待った方がいいのか。王女に散歩に出たいと頼めば、部屋の外に出してもらえそうな気はするのですが……。
ルルは空をにらみ続けていました。
「やっぱり、あいつよ」
と尖った声を出します。
「あいつ――トウガリよ。ここはザカラス城だもの。あいつがきっと正体を現したんだわ。そして、みんなのことをザカラス王に――絶対そうよ!」
かなり思いこみの強い独断でしたが、意外なほど真相を突いたことを言います。
ポチは困ったように首をかしげました。ポチには、トウガリがどうしてもそこまで怪しい人間には思えないのです。いくら感情を隠して匂いを出さないようにしていても、なんとなくその人間の善し悪しのようなものは感じ取ることができます。一緒にいる時間が長くなればなおさらわかります。トウガリからは、ルルが言うような陰湿な裏切りの気配は、どうしても感じられなかったのです。
下の方からベランダに風が吹き上げてきました。ここは山の中腹の城です。かなり勢いの強い風で、ベランダの柵を吹き抜けながら、ぴゅるるる……と笛の鳴るような音を立てます。ベランダ自体もがたがたと揺れますが、危険なほどではありません。ベランダの柵は隙間が狭く、高さもあるので、誤って転落する心配もありませんでした。
風はもう冬の匂いです。枯れ葉と枯れ枝、それに城のあちこちで燃える暖炉の煙の匂いがします。まだ雪は降ってきませんが、ひんやりと湿っぽい気配が混じっていました。今はまだよい天気ですが、じきに霧が出始めるのかもしれませんでした。
すると、その風に混じって、人の声が聞こえてきました。大勢の男たちの声です。口々にどなりながら、城の中から外に出てくるようでした。
「いたぞ――!」
「あそこだ!」
「……から逃げた奴だ……!」
「金の石の勇者だぞ――!」
ポチとルルは同時にピン、と耳を立て、全身の毛を逆立てました。ベランダの柵に張り付くようにして下をのぞきます。
王女の部屋から正面やや左寄りに城の大門が見えていました。そこからまっすぐ城に向かって黒い石畳の道が延び、城の入り口へと続いています。石畳の両脇は、綺麗に手入れが行き届いた庭園になっています。
その石畳の道へ城から駆け出してくる人影がありました。王女の部屋は五階にあるので、人影も小さく見えるだけです。けれども、その人物は全身を金に輝く鎧兜で包んでいたのです。手にした剣を振り回すたびに、日の光を返して、刃が銀色に光ります。
「フルート!?」
とポチとルルは驚きました。
金の鎧の少年は大勢の男たちに追いかけられていました。剣を抜いている者も大勢います。男たちが切りかかっていくと、そのたびにフルートが立ち止まって受け止め、剣を返します。刃と刃がぶつかり合う鋭い音が、五階のベランダまで響いてきます。
「フルート! フルート!!」
ルルはいっそう身を乗り出しました。柵の狭い隙間から頭を出して、城の前で戦う人々を見下ろします。
城の中からは後から後から人が飛び出してきます。衛兵たちです。十数人があっという間にフルートに追いつき、いっせいに剣を振り下ろします。
「フルート!!」
ルルはまた叫びました。いくらフルートが金の石の勇者でも、敵が多すぎます。しかもフルートは人間相手の戦いが極端に苦手なのです。ルルはとっさに風の犬に変身して駆けつけようとしました。
すると、子犬がいきなり背中に飛びつきました。
「待って、ルル。よく見て。あれ――フルートじゃない。ゼンですよ」
えっ、とルルはまたベランダのはるか下へ目をこらしました。金の鎧兜の少年を見つめます。少年は何人もの衛兵の剣で串刺しにされたように見えていました。
が、次の瞬間、衛兵たちがいっせいに周りに倒れました。中心にいる少年が、衛兵たちを跳ね飛ばしたのです。まるで小さな爆発でも起きたような勢いでした。また切りかかってきた衛兵には体当たりを食らわせ、さらに襲いかかってきた連中を次々に投げ飛ばしていきます。剣は持っているのですが、もっぱら力業で戦っています――。
「ホント……ゼンだわ」
とルルはあっけにとられました。どういうことなのか、さっぱりわかりません。ゼンはフルートの装備を身につけているのです。
すると、今度は城の左手から大勢の声がわき起こりました。数十人の兵士たちが城の前庭に駆けつけてきたのです。ザカラスの黒い鎧で身を包んだ兵士たちは、五階のベランダからはまるで黒い波のように見えました。小柄な金の鎧の少年に剣を振り上げ、いっせいに襲いかかっていきます。
犬たちは、はっとしました。さすがのゼンにもこれだけの人数は防ぎきれません。押し寄せる軍勢に立ちすくみます。
「ゼン!」
とポチが叫びました。風の犬に変身しようとします――。
ところが、そのとたん、城の中から色とりどりの虫の大群が現れて、うなりを上げながらゼンの周りを取り囲みました。ゼンに切りかかろうとした兵士たちが次々と倒れ、悲鳴を上げながら地面を転げ回り始めます。
犬たちが驚いて見守っているところへ、城の中から一人の娘が走り出してきました。紺色のドレスを着て、片手を高くさしあげています。その手の周りでは、ゼンを取り囲んでいるのと同じ色とりどりの虫たちが、群れをなして飛んでいました。
「ワン、メールだ!」
とポチが歓声を上げました。虫のように見えていたのは、メールが操る花の群れだったのです。
ロムドの侍女の姿をしたメールが、フルートの格好をしたゼンに駆け寄っていきました。合流した二人の周りを、色とりどりの花の群れがさらに大きな渦となって取り囲みます。敵が近づくと、花はあっという間に襲いかかります。メールが操る花は強力です。敵が鎧兜を身につけていても、伸ばした茎を隙間に鋭く突き刺し、さらにそこに根を張ろうとするのです。城の前庭はたちまち兵士たちの悲鳴でいっぱいになりました。
「なぁに? なんだか外が騒がしいのね」
とメーレーン王女がベランダに出てきました。吹き上げる風にあおられたドレスをあわてて手で押さえ、城の前で戦っている人々を見下ろして首をかしげます。
「あれは何? 兵士たちが訓練をしているのかしら?」
何も疑うことのない呑気な王女に、ルルはまたいらつきました。ザカラス兵が金の石の勇者を襲っているのよ、それくらい見てわからないの!? とどなりつけようとします。
すると、王女が出てきた部屋から、ふいに別の人物の声がしました。
「王女様――! ポチ、ルル!」
一人と二匹は驚いてベランダから振り向きました。部屋には彼ら以外には誰もいなかったはずなのです。それに、彼らを呼ぶその声は――
「フルート!!」
とポチとルルは同時に叫びました。
暖炉の炎が赤々と照らす部屋の中、バラ色の絨毯の上に、紺色のドレスを着て金髪を結い上げた、美しい侍女が立っていました。